第7話〜遊戯室だと?巫山戯ているのか?

 彼は夫人に近づき、あくまで冷静になって彼女に問いかけた。


 桜子は先程までいい匂いだと思っていた料理の匂いがしなくなった。泣きじゃくるチェリーの声を、ただぼんやりと聞いていた。


「貴方は愛護派だと聞きましたが。これはどういう事ですかな?マルティネス夫人」


 夫人と信濃のパーソナルスペースはほぼなく、人嫌いをすっかり忘れて、目の前の彼女を真っ直ぐ見つめていた。


 場違いな感情だが、彼女はこんな二枚目が近くに来てくれた事に対して興奮していた。


 自国の彫りの深い美男子も好きだが、異国のオリエンタルな雰囲気が漂う美男子も好きだ。とりあえず、清廉な美男子ならば彼女は何でも好きだ。


「どうも何も。クッキーとディナーだなんて考えられないですわ。お食事が砂糖の味で邪魔されますもの」


 その発言を聞いて、信濃は更に自分の理性がキリキリと切れそうになっていた。今すぐ殴ってやりたい所だった。


「探偵さんはクッキーの地位向上と権利の為の活動をなさっているそうですけれど、全ての愛護派がその活動を支持しているとは限りませんわ」


 この世界の人間は二つに分けられる。それは俺か俺以外かという他者との境界線を引くものではなく、愛護派と鬼畜派に分けられるのだ。


 簡潔に言えば、愛護派はクッキーは愛でる者であり、鬼畜派はクッキーを虐待する者という考えの事を言う。


 後者の方は人と対話する時に宣言すれば人から距離を取られるだろう。だからこそ、大半の人間は愛護派と自分を表するが、この派閥の割合は五分五分である。


「だがクッキーと食事を取っても、料理に影響を及ぼすなんて有り得ないでしょうよ」

「あら、食事の際にクッキーが隣に居れば、食べてしまいますので、料理の味に影響しますわよ?」


 彼女はただ当たり前に、それが常識のように言った。その悪意のない純粋な言葉が信濃の心を傷つけた。


 やはり、人間は嫌いだ。心の内でその言葉がぽつりと再度確認するように置かれている。


「まさか桜子君を?」

「その為におめかしをさせたのではなくって?とても美味しそうですわよ!飴の髪タイプのクッキーなんていつぶりかしら。そのドレスも素敵!食欲をそそられるわ」


 食欲にしか頭がない。そう信濃は思った。彼女は褒めているつもりでも、彼にとってはただただ皮肉を言っているようにしか聞こえない。


 そして、彼は手を上げる。その時の空気は氷点下を上回っていたように冷たかった。


「信濃さん、落ち着きましょう。ここで争っては今後の事業に影響があります」

「…君はもう部屋に戻りなさい、後で砂糖を届けに行く」


 その怒る手に優しく上に手を乗せた。それを見て、信濃は冷静を取り戻した。


 桜子はこの食事会がただの親睦会ではなく、夫人の息子による献金の約束と今後の人脈作りが目的だと知っている。

 その目的を果たすためには、夫人と表面上では仲良くしなければならない。


 彼はあまりにもクッキーに肩入れしすぎている、桜子はそう思った。自分の問題ではないのに。


「夫人、遊戯室に行かせばよろしいかと。クッキーならあの場所がピッタリだ」

「まぁ、それが良いかしらね。あそこなら食事もあるし」


 夫人の後ろからベーカリーが出てきた。彼は人懐こっそうな顔をしている。そしてこの一触即発の空気を桜子と間接的ではあったが、和らげた。


 そしてまだ理性を完全に取り戻せていない信濃は、ベーカリーに対しても怒りを感じていた。


「遊戯室だと?巫山戯ているのか?」

「まぁまぁ、一旦ですよ。信濃様」

「何でそこに怒っているんですか」


 桜子は彼を手の平でぺちっと叩いた。その刺激で、彼は完全に理性を戻したみたいだった。そしてベーカリーはペコペコしている。


「夫人と険悪な関係になって困るのは君達でしょう?」

「任せるが、何かしてみなさい。刺す」


 一瞬だけ、しかも小声で話していたので、この男達の会話は当事者以外には聞かれていないだろう。ベーカリーは彼の目の奥に、桜子にちょっかいを掛ければ問答無用で刺すという意志を感じた。


 触らぬ神に祟りなし、彼女に対して何もしない事にした。


「余程大事なクッキーなんですね。僕が案内するので、お二人はお食事を楽しんでいてくださいな」


 そう言って、彼は桜子に近づいた。桜子はふとチェリーの泣き声が聞こえなくなった事に疑問に思い、彼女を探した。しかし、彼女の影はおろか香りすらない。


 不思議に思ったが、彼が遊戯室に行こうとするので着いていく。


「お嬢さん、こっちだよ」

「分かりました。では信濃さん、後で合流しましょう」


 振り返ることはなく、ただ彼について行った。

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