第375話 マーキング
「ふぅ。今日は少し疲れたな」
「ん。お帰り。何してきたの」
「……は?」
ソワレを宿屋に送り届けた後、そのまま転移魔法で自分の部屋へと戻ってきた俺は、誰もいないだろうと思いそう呟く。
しかし、何故か誰もいないはずの部屋からは俺を出迎える声が聞こえてその場所に目を向けると、そこにはまるで自分の部屋にでもいるかのように堂々とソファーに座り、丁寧に自身の尻尾を撫でているフィエラの姿があった。
「なんでお前がここに?」
「ん。なんか嫌な予感がしてエルに会いにきた。そしたらエルが部屋にいなかったから中で待ってただけ」
「会いにきたって、どっから入ったんだ?ここ、一応男子寮の最上階だが?」
「ん。テラスから入った。身体強化を使ってジャンプしたら余裕」
フィエラはそれが当たり前かのように言うが、俺が使っている部屋はSクラス生ということもあって五階建ての寮の最上階にある。
つまり、一番高いところにあるはずなのだが、フィエラはそれを身体強化を使ったジャンプでテラスまで跳ぶと、そのまま窓を開けて入ってきたようだ。
普通の人間であれば身体強化を使ってもそんなことは無理だろうが、さすがは獣人ということだろうか。
「それで。エルはこんな時間までどこに行ってたの」
「あー、俺はちょっと知り合いのところに」
「ふーん」
フィエラはそう言って紫色の目を細めながら立ち上がると、ゆっくりと俺の方に歩いてきてスンスンと鼻を鳴らしながら匂いを嗅ぐ。
「狐臭い。エル。狐に会ってたの?それも、女狐に」
「女狐……」
確かにフィエラの言う通り、先ほどまで会っていたソワレは黒狐という種族の獣人で間違い無いが、彼女の言う女狐にはなんだか含みがあるように聞こえてしまう。
「エル。私はエルがどこで何をしていても、誰に会っていても文句は言わない。嫉妬はするけど我慢もできる。けど、だからって寂しくないわけじゃないし、傷つかないわけでもない。そして、そんな私が特に許せないのが狐。狐はずる賢いし、人の物を当然のように奪ってく。だから、エルも狐には気をつけて」
「それ、なんかやけに実体験がこもったような話だな」
「ん。赤狐族のお姉ちゃんが一人いる。あの人には、私や他の兄弟を揶揄ったり、食べ物なんかを奪って楽しむ悪癖がある。別に悪い人じゃないけど、その癖のある性格は正直苦手。それに、その人のお母さんや他の狐族もみんなそんな感じだから、特に疲れる。お母さんも時々揶揄われて怒るけど、そんな反応を見て笑うくらいには性格が悪い」
「なるほど」
言われてみれば確かに、ソワレも俺を揶揄って楽しんでいるのを何度か見ているため、ソワレの性格が悪いというよりは、それが狐族という種族の特性なのかもしれない。
「んで?今は何をしてるんだ?」
「ん。狐の匂いを消してる」
「あー、そう」
フィエラが言う匂いを消すとは、おそらく犬や猫で言うところのマーキングのような物だろうが、あれは動物だから可愛いのであって、獣人からやられると絵面的にちょっとよろしくない。
というのも、今の俺たちの状況を客観的に見ると、フィエラが俺に抱きついて鼻をスンスンと鳴らしながら匂いを嗅ぎ、気になった箇所を見つけたら触ったり頬ずりをしたりするという、かなり密着度が高い状況なのだ。
しかも、逃がさないとでも言わんばかりに器用に尻尾を俺の腰のあたりに巻きつけ、片手は常に背中に回されているためガチで逃げることができない。
さらによくないのが、フィエラはお風呂から上がって直ぐに来たのか、少し濡れている髪からは花のような甘い香りがするし、彼女の大きな胸が俺に押し付けられているのだ。
確かに、普段から恋愛なんて興味ないと言ってはいるが、だからと言ってここまでされて何も思わないほど男を捨てているわけではない。
つまり、俺だって一応は男だし、思うところは色々とあるのだ。
「なぁ。さすがに近すぎないか。それに、この状況もあんまりよくないと思うんだが?」
「ん。問題ない。例えエルが欲情して襲ってきても、私はそれを受け入れる。むしろ嬉しい。なんなら私から襲いたい」
「お前、この状況わざとだろ」
俺の濁した言葉を真っ先にそういう意味で捉えるということは、フィエラも分かっていてこの状況を作っているということだろうが、最後に俺の胸元から覗き込むようにして見上げながら襲いたい言ってきた彼女の瞳は、危険なほどに熱っぽく、少し見惚れてしまうほどに綺麗だった。
「でも、狐の匂いを消したいのもほんと。アイリスたちのことは許せるけど、私の知らない誰かは許せない。現地妻は即抹殺」
「現地妻って。そんな言葉どこで覚えたんだよ」
「ん。お母さんが前に言ってた。お父さん、王様の仕事に疲れた時、たまに冒険者だった時の自由を思い出してふらっとどこかに出かけるから」
「あー、なるほど」
そりゃあそうだろうなぁ。
フィエラも愛がかなり重いタイプだが、前にフィエラの父親が彼女の母親に子供の頃からアプローチされていたって話を聞かされたし、今の話も聞いた感じだと彼女の母親もかなり重いみたいだから、色々と疲れて外に出たくなるのだろう。
そして、その行動から現地妻を疑ったフィエラの母親が釘を刺す意味も込めてそう言って、それをたまたまフィエラが聞いていたのかもしれない。
なんだか、まだ一度も会ったことがないはずなのに、不思議とフィエラの父親には親近感が湧いてくるな。
「もうなんでもいいよ。襲わないならマーキングくらい好きにしてくれ」
「ん。言質は取ったからね」
「は?ちょっ……」
俺はもうなんだか考えることに疲れてしまい、思わずいつものようにそう言ってしまったが、フィエラはその言葉を待っていましたとでも言わんばかりにさらに体を抱き寄せる。
そして、そのまま首元に顔を埋めては甘噛みをしたり、そのまま首筋や鎖骨、さらにはシャツのボタンを開けて胸にまでキスをしたりと、まさに好き放題にされるのであった。
その後、満足したのか彼女はご機嫌そうに自分の部屋へと戻って行ったが、残された俺は久しぶり感じる精神的な疲れからそのままベッドに倒れると、それ以上は考えることを放棄して眠るのであった。
そして、その翌日になって思い出したが、一年前のこの時期にもフィエラの様子がおかしくなり、かなり甘えてきた時期があった。
今思い返してみれば、もしかしたらあの時も今回も、フィエラは所謂発情期というやつだったのかもしれない。
動物には子孫を残すために発情期というものがあることは知っていたが、それならば、同じ動物の血が混ざっている獣人族にも発情期があってもおかしくはない。
そして、前回は俺と離れていた時に発情期がきてしまい、その結果、寂しさからあんな風に甘えてくるようになったが、今回はソワレの匂いのせいで嫉妬の感情が強くなり、独占欲が剥き出しとなってあんな大胆な行動を取ってきたのだろう。
「獣人族、厄介すぎるだろ」
もし今後もフィエラと一緒にいるのであれば、これからも彼女の重くて底なし沼のように引き摺り込もうとしてくる愛に触れ続けなければならないのだと思うと、どっかの海底に家でも作って引きこもってしまいたくなる。
まぁあの様子を見るに、フィエラなら追ってきそうな気もするけど。
とまぁ、そんなことがありつつもあっという間に時間は過ぎていき、数日後には武術大会を控えた日を迎えた。
その日、いつものように太陽が昇り空を明るく照らすと、帝都全体に危険を知らせる鐘が鳴り響き、それから少しするとその鐘の音は市民の悲鳴へと変わる。
「ついに始まったか」
市民が悲鳴をあげながら逃げ惑い、それを狂ったように追いかけては剣を振り下ろす鎧を着た騎士や傭兵たち。
俺はそんな光景を上空から眺めながら、まずは計画の第一幕である第三皇子の叛乱が始まったこの瞬間を、何をするでもなくただ静かに見届けるのであった。
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