筋肉痛と板チョコ

葵月詞菜

第1話 筋肉痛と板チョコ

 布団から起き上がろうとして、まず腹筋がピキリと震えた。


「う……」


 何とか堪えて上半身を起こし、続いて腰を上げて微かな違和感、そして最後に立ちあがって――ああ、これはあれだと確信する。


「やっぱりきたか筋肉痛……」


 ナコは暫く布団の上で直立したまま動きを止め、それから意を決したようにいつもの日常を再開した。

 布団を畳み――ピキピキピキ。

 服を着替え――ピキピキピキ。

 階段を降りて食堂へ―――ピキピキピキ。

(今日は動く度にこれかあ)

 極力動きたくない。

 我知らず眉間に皺を寄せていたのだろう、食堂に入ると先に集っていた面々が不思議そうな顔をして訊ねて来た。


「おはよう、ナコ。すごい顔してるけどどうしたの?」

「あと、何か歩き方おかしいぞ」


 同じ『うさぎ荘』に住む女子高生のレイと、ここの管理人を務める青年トキだった。

 ナコは二人の顔を見て困ったように訴えた。


「起きたら筋肉痛になってて」

「筋肉痛? ……ああ、もしかして昨日のマラソン大会の?」


 レイはすぐにピンと来たらしい。ナコは頷いた。恐らくそれだ。いや、それしか思い当たる節がない。

 ナコが通う中学校では、昨日毎年恒例だというマラソン大会が実施されたのである。ゆっくりのペースではあったが何とか目標時間内に走り切り、安堵とそれなりの満足感を得て終了した。

 だが、日常生活の他に特に運動習慣のないナコの体は当然疲労マックスで、昨夜は早々に布団に入ってぐっすりだった。

 そして翌朝目覚めると、お決まりのこの状態である。


「足がプルプルして……歩くとピキピキで……座ってもお腹がピキッてなって……っ!?」


 微かな衝撃の後、カクンと膝から力が抜けてナコの体がよろけた。


「な、おい、どうしたんだ!?」


 後ろから焦った声が聞こえて、ナコの体がしっかりとした腕に支えられた。


「う……」


 支えられたのは良いが、その体勢によってお腹がまたピキリとする。ナコの呻きに、支えている相手の腕に力が入ったのが分かった。


「おいナコ、どうした。生きてるか?」

「……何とか生きてるよ……とりあえず私を普通に立たせて……痛い……」

「痛い? オレは少し背中を押しただけだろ?」


 ここの管理人を担う片割れ、トキの弟のセツが訝し気な表情でナコを立たせ、自分の手を離した。ナコはピキリとこない姿勢に戻り、ほっと息を吐いた。


「セツ。ナコは昨日のマラソンの筋肉痛なんだって」


 トキが朝食をテーブルに並べながら弟に理由を説明してくれる。


「筋肉痛?」


 セツが眉間に皺を寄せて、呆れたようにナコを見た。


「だから普段からもっと運動しとけって言ってるだろ」

「大きなお世話です~」


 ナコはべえと舌を出し、変な歩き方でゆっくりと移動してレイの隣に座った。

 レイが同情するような目でため息を吐いた。


「私も覚えがあるからすごく分かる」

「レイも?」

「オレはお前の時にも『もっと運動しとけ』って同じことを言った覚えがあるな」


 セツが横目でレイを見ると、彼女はすいとそれを躱してスルーした。


「そうだったかしら?」


 セツが肩を竦めてトキの淹れた珈琲を飲む。

 ナコの前にもトキが作ってくれた朝食が出され――大食いの彼女は他より少し多めだ――ありがたく合掌する。できるだけ腹筋が震えないように気を付けながら、慎重に食事を進めた。


「そういえばセツは筋肉痛にはならないの?」


 トーストを口に運ぶセツにふと尋ねてみる。


「あんまりないな。日頃から動き回ったりして体を使うバイトしてるし、筋トレも日課にしてるし」

「……あんまり筋肉ついてるように見えないね?」

「お前はどこを見てるんだ?」


 セツはパンくずを払って珈琲を飲むと、着ていたシャツに手をかけた。

 まさかと思う間もなく、バッサリとシャツを脱いで見せたセツに、


「いきなり脱ぐな!」


 レイとトキの声が重なった。

 ただナコだけが唖然とセツの上半身を見ていた――正面の席なのだから不可抗力だ。

 セツは気にすることなく腕の筋肉を中心に動かして見せた。


「ここが上腕二頭筋だろ――」


 セツは見かけはほっそりしているのだが、確かに言われてみればちゃんと筋肉がついている。先程ナコを支えてくれた腕もがっちりしていたと思い出した。

 綺麗に割れた腹筋は分かりやすく、ナコはまじまじと見てしまった。


「へえ、すごい。割れてる。板チョコみたい」

「だろ。――言っとくけど食えないぞ」


 自慢げなセツと素直に感心するナコの隣で、レイが白けたような目でそれを見ていた。トキは溜め息をついて半笑いだ。

 ようやくセツの筋肉披露が終了する頃には、とっくにレイは食後のデザートを食べていて、トキがゆっくりと珈琲を啜っていた。

 ナコは改めて腹筋を笑わせないよう集中しながら朝食を再開した。


「ごちそうさまでした」


 綺麗に空になった皿に満足して手を合わせると、斜め前でトキが微笑んだ。


「ナコもゼリー食べる?」

「食べる!」


 即答すると彼はまた笑って、冷蔵庫からゼリーを持って来てくれた。

 彼お手製のフルーツゼリーだ。


「ねえ、トキは筋肉痛にならない?」


 思い出したように、今度は彼に訊いてみる。

 トキは少し困ったように眉を下げ、


「うーん、どうだろ。全くないとは言い切れないかな。一応、俺もセツと一緒にバイトしてるからね」

「じゃあトキも筋肉あるの!? 腹筋割れてる? 板チョコ?」


 畳みかけたナコの質問に、トキは微笑んだまま固まった。

 ゼリーの最後の一口を食べ終わったレイがナコを宥めた。


「ナコ、ちょっと落ち着きなさい。――まさかトキまでここで脱ぎ始めたりしないでしょうね?」


 そしてトキに釘を刺すのも忘れない。


「当たり前――」

「別に全裸になるわけでもなし、良いだろ。トキだってちゃんと筋肉ついてるじゃねーか」


 余計な口を挟んだのは言うまでもなくセツである。レイが横目に睨むが全くきいていない。


「あのね、トキはあんたと違ってTPOを弁えてるのよ。こんな年頃の女子が二人もいる前でほいほい脱がないでくれる?」

「何が女子だ。前に俺が下着で廊下歩いてた時、フツーに顔色変えずにすれ違った奴は誰だ」

「あれもアウトでしょ! まだ一回だから目を瞑ってあげたけど、二度目はないわよ! 今度は訴えるからね!」

「はっ、好きにしろ。ていうかオレはここの管理役なんだから少々多めに見ろよ」

「管理人だから余計に気を遣いなさいよ! 馬鹿!」


 いつの間にか不毛な応酬が始まってしまった。この二人はだいたい顔を合わせればこうだが、今回はナコから始まったことでもあり少しいたたまれない気分になる。

 そんなナコに気付いたトキが小さく苦笑した。


「レイの言う通り俺はさすがにここでは脱げないけど、まあセツ程ではないにしてもそれなりに筋肉はついてるよ。――腹筋も、まあ、割れてる、な……」


 俺は一体何を話してるんだ、と少し恥ずかしそうに零すトキがいつもより幼く見える。


「へえ、そうなんだ。いつか見れたら良いなあ」

「……そうだな。いつか機会があればな」


 トキが複雑な顔になるのをよそに、ナコは夏にプールに行けば拝めるのではと考えた


「それはそうと、ナコ。セツの言葉をそのまま返すわけじゃないが、運動習慣はあるにこしたことはないぞ」

「まあ、それはそうだよね」


 ナコも分かってはいるのだが。部活動も運動部ではないため、普段の運動といえば通学と学校内での移動、それから体育の授業が主である。


「もしナコにやる気があるなら、ランニングでも他のスポーツでも付き合ってあげるけど」

「え、ホント!?」


 思いがけない提案にナコは身を乗り出した。その瞬間、腹筋が引き攣って顔が歪む。――忘れていた。

 それを見たトキが堪え切れなかったのかふふっと笑った。


「とりあえず今日はゆっくり筋肉を休ませて、落ち着いたら考えようか」

「うん! 私も腹筋を板チョコにできるかなあ?」


 どうせやるなら自分もそこまでやってみようかと思ったのだが、トキは軽く小首を傾げるように言った。


「……ナコはそこまでしなくても良いと思うよ」


 板チョコを作るまでには想像以上の努力と忍耐が必要ということだろうか?

 ナコは、まずは自分でも継続的にできる運動に挑戦してみようと思った。


Fin.





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筋肉痛と板チョコ 葵月詞菜 @kotosa3

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