27 コンプレックス・アンド・センチメンタル
後に残された俺と伊十峯は、まだしばらく石段に腰かけていた。
「どうしたんだよ? 伊十峯、元気無さそうだけど……」
俺の横に座る伊十峯は、石段から投げ出した自分の足先の方を見つめていた。
「ううん……なんでもない」
なんでもない、と口では言っていても、その顔色は優れないように見える。
やっぱり、俺が肩代わりする事を良しと思っていないんだろうか?
ただ伊十峯自身、ASMRの配信をやりたい気持ちもあって、その板挟みによる歯がゆさから何も言えなくなっているのかもしれない。
何か気が紛れる会話をしてあげた方が良さそうだ。俺はそう判断した。
「あ、そ、そういえばさ! 伊十峯、今回はすぐに仲良くなれたよな!」
「……え?」
「ほら、音森とだよ。伊十峯は、音森と初対面だったんだろ? 今までなら、もっとこうどきまぎしてたんじゃないか? でも今回は、そんな事無さそうに見えた! これって、前よりも誰かに心開けるようになってきたって事だろ? すごい事だよ、伊十峯」
「そ、そんな事ないよ……? たぶん、月村君からそう見えていたのは、音森さんが話しやすい女の子だったからだよ」
「そうか? でも話しやすい相手でも、前までは口数がもっと少なくなかった?」
「た、確かにそうかもしれないけど……。……もし、私がそこから変われたんだとしたら、きっとそれは月村君のおかげだよ……」
「俺のおかげか……? 特に何もしてやれてない気がするんだけどな、俺は。あはは……」
少し褒められたような気がして、俺は照れくさかった。
中庭に七月の太陽が光を下ろしていて、数メートル先がまぶしかった。
それを俺達は眺めていたけれど、向こうの日向とこっちの日影では、違う世界の場所のように見えた。
この石段から中庭に出てあの光を浴びたら、いとも簡単に変身できそう気がする。
「ううん、そんな事ないよ! ……月村君と話すようになってから、私の生活は色んな風に変わってきたと思う。もちろん、良い意味でね? それまではずっと、自分の声をコンプレックスに感じていたせいで、私は殻に閉じこもってたんだよ。ずっと自分の声が苦手だった。……しゃべったら、また前みたいに馬鹿にされるんじゃないかって。そしたら怖くて……だ、誰とも……仲良くなんてできなくて……。でもそれを、初めて認めてくれたのは……」
「……」
伊十峯のセリフはそこで一度途切れてしまった。
伊十峯の眼鏡越しの目元は少し潤んでいて、じっと俺の方を見つめていた。
俺はどう返していいのかわからなかったけど、伊十峯の言っている事は、理解できているつもりだ。
誰にだって心の傷やコンプレックスはある。その重みは、抱えている本人にしかわからない事で、周囲があれこれ手を尽くしてみても、最終的な捉え方や感じ方は結局本人が決めていく事なんだ。
伊十峯の周りがどんなに彼女の声を綺麗だと褒めそやしたって、大した意味は無いのかもしれない。俺が励ますような事を言ったって、それも全部無駄なのかもしれない。
けど、色々と無駄に終わる励ましの中に、ほんの少しでも支えになってあげられる物があるのなら、そのために力を尽くしたっていいと思うんだ。
それが報われる報われないに関わらず、相手を支えようとする行為自体に、人間は生き甲斐さえ感じたりする生き物なのだから。
気が付くと、俺はこの場面で最もふさわしいと思えるセリフを吐いていた。
「伊十峯の配信、楽しみにしてるわ!」
ありきたりな応援の言葉だ。でもこの上なく距離感を正確に捉えていた言葉だとも思う。
そう言って、俺は思い切り伊十峯に笑いかけた。
俺にしては出来過ぎた、九分咲きか満開くらいの笑顔のつもりだ。
俺の笑顔に伊十峯は驚いたようだったが、すぐにくすっと笑みをこぼした。
「ふふっ。月村君……歯に海苔が」
「ええっ⁉ 嘘⁉」
「あはは! ごめんなさい、冗談ですっ!」
「えっ……もう! 伊十峯さん?」
「あははは!」
こんなに恥ずかしげもなく笑う伊十峯を、俺は初めて見たかもしれない。
そう思えてしまうほど、そこに座っていた伊十峯はどこか新鮮だった。
もうすぐ午後のテストが始まる。
一週間の定期テストが終わったら、また伊十峯のASMR配信を聴きたいと思った。
今日はそんな昼休みだった。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
七月も中旬を過ぎてくると、いよいよ目には見えない業火に見舞われたかと思うほど、外気温は殺人的に暑くなっていた。
木々は枯れ、大地は揺れ、空は嵐を呼び起こす。というほどではないけれど、自然の猛威に耐えられそうにないという人間の動物的勘が働きだすのは、もはや時間の問題だと思う。
そんなこの世の終わりだと嘆けそうな炎天下の中、当校はようやく終業式の日を迎えていた。
体育館に生徒が集められ、皆規則的に並んでいる。
開けられる窓は全て開けられているが、何しろこの暑さだ。
開けた分そこから熱風が吹いてくるし、人口密度のせいもあって、体育館の室温はじりじりと上がっているような気がする。
「期末テストも終わり、生徒の皆さんは夏季の長期休暇に入るわけですが――」
額に汗をかきながら、校長がそれらしい話を続けていた。
俺の周囲の人間は、その多くが首をかっくんかっくんとさせており、その話に微弱な催眠効果がある事を見事に証明してくれていた。その催眠効果に打ち勝つためには、何か別の事を考えるべきだ。
そんなわけで、俺はつい先日、伊十峯から送られてきたキャットークの内容を思い出していた。
『月村君、終業式の日の夜、私と音森さんでASMRのプラべ配信やろうと思うんだけど、リスナー役やってくれない?』
なんとも心が浮足立つような内容だ。
久しぶりの【耳責め♡こえちゃんねる】からのご招待。気張らないわけがない。
そんな内容のキャットークが伊十峯から来てしまったせいで、すでにドキドキとワクワクが止まらなかった。
さすがにまだ気が早いと思うので、なんとか俺はその早まる鼓動を抑えていた。
無事にその日を終えた俺は、降旗と一緒に下校した。
「はぁー、あっつ~……。なんか一学期はあっという間だったなぁ、月村」
降旗は自分のワイシャツの胸ぐら辺りを右手でつまみ、パタパタと中に風を送り込んでいた。最近ではよく見かける仕草だ。
「ああ。明日から夏休みだな」
「……なぁなぁ、月村は夏休みなんか予定あるのか?」
「え? うーん。勉強?」
「おいなんだよー、つまんねぇな。三條遊びに来いよ。また萌絵と音森さん辺り誘って出掛けるかもしれないからさー。そん時誘うわ」
「いや、それはもういいよ」
「冷たいな~」
「ふふっ。降旗は地元だから大して移動しなくていいけど、俺はほら、こっちだからさ。それに、降旗は電車の定期券あるんだから、いくらでもこっちに来られるだろ?」
もうお察しだろうが、降旗は三條の人間で、俺とは地元が違う。
だからこの帰り道も途中で別れ、彼は駅の方へ向かい、俺は家の方へ向かう。
それほど遠くない地点で別れるわけだけど、その地点までの道のりを今歩いているわけだ。
「まぁなー」
「それに、夏休みなんてゲームやったり漫画読んだりしてればすぐ終わるだろ?」
「あっはっは! それじゃただの休日とやってる事変わらねぇじゃん! もっとさー、なんていうか、長い休みだからこそできる事とか、そういうのしたくね?」
「……例えば?」
「そうだなー……。例えば県外で何泊か旅行するとか、どこかの山でキャンプとか?」
「県外旅行は割と楽しそうだ。一回くらい、そういうのしてもいいかもしれないな」
「だろ? 高校生活は貴重なんだぜ? もう卒業したらそれっきりだ!」
「まあ言いたい事はわかるけどさ。貴重っていう実感がないのは、自分自身が高校生だからなのかもな。卒業したら「あの頃は貴重だったな~」とかって、ビールでも飲みながら居酒屋でくだを巻く日が来るのかもな……」
降旗の懐古的な発言におかしな触発を受けた俺は、自分が二十代、三十代になった未来の事を、ふわっと想像していた。
居酒屋でたまに飲むくらいの相手として、降旗が居そうだなと思った。
なんだかんだで一番気楽なんだよな。
こういう奴が、一番長い付き合いになるのかもしれない。
「じゃあ俺、向こうだから。またなー、月村~。夏休み中、干物みたいな暮らししてんなよー!」
「ああ、お互いなー。じゃあまた」
俺達は、歩いていた道の途中にあった小さな十字路で別れた。
錆びついた「止まれ」の標識のポール部分に、降旗は足を引っかけて転びそうになっていた。
もちろん、俺はククッと笑いそうになった。
暑いのでそれほど元気よく手なんて振れなかったが、一応、お互い最後は軽く手を振って別れた。
去っていく友人の背中に感じるのは、珍妙な寂しさだけだった。
長期休み前の友人との別れというのは、高校生活の中でも数回しか存在しない別れだ。
そう考えると、この珍妙さ加減も、ほんの数回しか味わえないという事だろう。
これはこれで、貴重な高校生活の中にある貴重な感情だと思った。
なんだかマトリョーシカのような感情だった。
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