26 二人の包囲網

 ◇ ◇ ◇ ◇ ◇



 七月中旬の照り付ける太陽の中、さすがに空中廊下に出てたら干からびる。

 空から降り注ぐ直射日光と、床タイルの照り返す反射光とで、そこには陽炎さえ立ちのぼっている。


 教室棟と特別棟の間に中庭が設けられてあるが、あそこも絶賛干からびスポットとして有名だ。

 それを知っている当校の生徒は、この季節誰一人としてそこを利用しようなんて思わない。


 そんなわけで、俺と音森はそこの虚をつく。


 一階から中庭に抜ける出入り口には、ちょっとした石段が整備されてある。

 通常、その数段を降りて中庭へ出られるわけだが、俺達にはこの石段がちょうどよかった。


 遠慮がちな庇が上手い具合に影を落としているし、何より中庭を利用する生徒がいない今なら、誰もこの出入り口に寄り付かない。密談には持ってこいだ。


「それで、お願いの件、どうしたの? もしかしてもう聞いてくれた?」

 石段に腰をかけて横並びになると、すぐに音森に質問された。


「ああ。教えてもいいって事になったんだ」

「ほんと⁉ わぁ、嬉しいな~!」


 音森は、その整った顔立ちに笑みを含ませ、合わせた両手をあごの辺りに持ってきていた。

 だが「ただ、一つ問題があって」と俺が水を差したことで、その喜びにあふれた仕草はぴたりと止まった。


「え? ……何?」

「今、マイクが壊れてて教える事が出来ないらしい。だから、今すぐにっていうのは難しいんだ」


「あ、そうなんだね……。そっか……。はぁ……。マイクが壊れてるなら確かに無理だよね。教えようがないもん。うんうん」


 ぱっと見はただ落ち着いている様子の音森だったけれど、声の調子やトーンだけは行き場のないその悲哀の色に染まっているようだった。

 うんうん、という言葉も、自分を言い聞かせての事なんだろう。


「あ、でも待って?」

「え?」

 何か閃いた! とでも言うように、音森の表情はやや明るくなった。


「私のマイク、使えばいいんじゃない?」


「え? 音森ってマイク持ってるのか?」


「ううん。持ってないけど、昨日通販で注文したんだよ。たぶん、今日か明日には届くと思うんだけど、そのマイクだとダメかな?」


 早いな! まさかの注文済み⁉

「えっと、どんなマイク? ていうかよくお金あるなぁ」


「スタンドタイプのバイノーラルマイクだよ。Y字型の! お金はほら、セカ本でもうアルバイトしてたから」


「なるほど。そうか! 音森はもう、ある程度自由に使えるお金があるんだもんな……。羨ましい。……ていうか、もういっそここに呼ぶ? その方が話早いよな?」


「え? 呼ぶって?」

「配信経験者の『伊十峯小声』さんだよ」


 伊十峯本人から許可も下りたことで、後ろ暗い事もなく俺は名前を出した。

 初めて耳にする名前に音森は、誰ですか? という表情を浮かべていた。



 伊十峯にキャットークで呼び掛け、それから五分ほどたった。

 中庭の方を向いていた俺達に「月村君、どうしたの……?」と後ろから声を掛けてきたのは、他でもない伊十峯だった。


「あ、音森さん……!」

 振り向いた俺と、その横に座っていた音森に伊十峯は気が付いた。


「初めまして。伊十峯さん、だよね?」

「うん。は、初めまして……」


 知ってるとは言っても、きっと話すのは初めての事。

 伊十峯はもじつきながら音森に挨拶をした。


 こちらにどうぞどうぞ、といった意味合いを込め、俺が石段のスペースを伊十峯に少し譲ると、伊十峯はささっと俺の横に座った。


 いつもの黒縁眼鏡を右手で少し直したりして、まだどこかそわそわしているようだった。


 三人で、横並びに座る形になった。端から音森、俺、伊十峯といった順番だ。

 俺は伊十峯の方を軽く向き、今回呼んだ理由から話す事にした。


「伊十峯。今日はこれ、顔合わせも兼ねて呼んだんだ。急で迷惑だった……?」

「ううん。全然大丈夫」


「そっか。それと実はさ、音森がバイノーラルマイクをもう買ったみたいなんだよ」

「えっ! そうなの?」

「うん。スタンドタイプの、ピンクのかわいい奴」


 俺の言葉に反応した伊十峯。その伊十峯に、音森がいつものトーンで話しかけていた。


「ほら、これなんだけど――」

 そう言って、音森は自分のスマホを差し出してきた。


 俺を挟んで向こうにいる伊十峯にも、買った商品を見せたかったらしい。

 スマホの画面には、音森が買ったと思われるバイノーラルマイクの商品ページが表示されていた。


「あ、これ私も見たことある! ……可愛いよね。でも結構高くなかった?」

 伊十峯は、そのスマホ画面を覗き込むために、ぐいっとこちらへ身体を寄せてきた。

 動きに合わせて、伊十峯の長い黒髪がふわりと揺れる。


 ASMRに関係する話題を、同学年の女子と話せることがよほど嬉しいのかもしれない。

 初対面のはずだというのに、すでに音森と打ち解けだしているかのようだった。


 あ、でもそんなにスマホに顔を近付けると、その……大きな胸が……。


「ちょっ……」


 ――ふにゅ。


「まぁ、私達には少し高いよね~。私はバイトしてるからいいけど、してないとちょっと手は出せないかも?」


「そうなの。すぐに新しい物買えたらいいんだけど……」

「そこでなんだけどね、伊十峯さん!」

 話に熱が入ってきたのか、音森の方もぐいっと身体を寄せてくる。

 音森のポニーテールも、伊十峯ほどじゃないがちょっぴり揺れ動く。


「お、おいっ……」


 ああ! 待って待って! あんまりそっちからも攻めてこないで。

 俺の左肘が! 俺の左肘に音森の慎ましい胸がっ!


 ――ふにゅ。


「私のマイク使ってくれてもいいから、ASMR教えてくれないかな?」

「え、いいの? 音森さんがいいなら私は大丈夫だけど……」

「……」


 ――ふにゅふにゅ。

 ――ふにゅふにゅ。


 ああ、ダメだ! 右に伊十峯! 左に音森! 左右どちらからも制圧戦が始まってる。


 両肘にブラウス越しの柔らかいものが当たってるし、どっちからも女の子特有の甘い香りが伝わってくるし。なんなら「マイク」も下ネタに聞こえてくるんだけど⁉


「ほんとに? わぁ、これでじゃあ大丈夫だね!」

 ――ふにゅ。

 全然大丈夫じゃないよ、音森ぃ!


「わ、私も頑張って教えるから……よろしくお願いします!」

 ――ふにゅにゅ。

 何を教える気だ⁉ おっぱいの柔らかさを俺に教える気なのか⁉

 そうなんだな伊十峯⁉


 二人の間に挟まれて熱中症になりそうだ。ていうかもうなってるだろこれ。


「それじゃあ、あとでキャットーク交換しよ? 伊十峯さん」

「う、うん!」


 そこでようやく、パッと二人は俺から離れてくれた。


「く、っはー……っはー……」


「どうしたの? 月村」

「月村君、大丈夫?」


 息を乱す俺に、二人は、どうしたんだろう? といった顔で俺の身を案じていた。

 無自覚かよ⁉ 柔らかいふたご山包囲網のせいで、俺の両肩がアイアンメイデンみたいに閉じ切っちゃうところだったわ。


「はぁ……ん゛んっ。それで、……配信はどっちの家でするんだ?」


 かろうじて包囲網の中でも会話は聞こえていた。

 気持ちを切り替える意味も込めて、俺は二人に別の話題を振った。


「うーん……私の家でもいいけど、たぶん伊十峯さんの家の方が、道具とかそういう物しっかり揃ってそうだよね?」


「あ、確かにそうかも……」


「伊十峯さんさえよければ、お邪魔したいなぁ……?」

「え、う、うんっ! 大丈夫だよ」


 音森の提案に、伊十峯は少しだけ戸惑いを見せつつも了承した。

 伊十峯、頑張ってるなぁ、とか妙な親心みたいなものを俺は抱きつつ、二人のやり取りを微笑ましく思っていた。


「そういえば伊十峯さん、壊れたマイクの代わりって、まだ買ってないんだよね?」

「え? うん、そうだね」

「バイトして買おうと思ってたんだよな。俺と伊十峯で」


「ふぅーん……そうなんだ」

「なんだよ?」


 俺と伊十峯の話を聞いた音森は、中庭で葉を茂らせている木々に目をやりながら、スカートのポケットにスマホをしまう。

 それから音森は一呼吸置くと、予想外の提案を持ち掛けてきた。


「私が買ったバイノーラルマイク、伊十峯さんに譲ってもいいんだけど」


「え⁉」

「ほ、本気で言ってるのか⁉」


「あはは! 二人とも驚き過ぎだよ」


 俺達の反応に、思わず笑い声をあげる音森。こんな時でも、泣きぼくろのついたその頬にくにゅっと笑窪を作るのだからずるい。


 わからない。一体、音森惹世は何を考えているんだ……?


「でも、一つ条件」

「条件……?」


 やっぱりタダじゃないんだ。そんな都合の良い話も無いと思っていたけど。


「そう。そのうちでいいから、私の言う事を一つ、月村が聞いてくれるならいいよ?」

 音森は優しく微笑みながら条件を教えてくれた。


「……!」

「え? そんな事でいいのか?」


 なんだか拍子抜けだった。もっととんでもない事を想像していたけれど、それは俺の想像力が豊か過ぎたせいだろう。


 俺が音森に返事をしている間、伊十峯がどんな顔をしていたのかはわからない。音森の方を見ていたせいで、視界には入っていなかった。


「うん。それで大丈夫。そのうち、お願いするかもしれないから。その程度に覚えておいて……?」


「ああ、わかった。覚えておく」

「よろしくね!」

「……」


 俺が言う事を一つ聞いてあげるという条件で、音森は伊十峯にバイノーラルマイクを譲る。そういう話になった。


 けれど、この肩代わりするような構図は、伊十峯の性格的に認めないような気がした。きっと「私の代わりに月村君が駆り出されるのは申し訳ない」とそう主張してくるはずだ。


 だが、本来ならそう主張しそうなものなのに、なぜか伊十峯はそのまま黙り込んでいた。


「じゃあ、そろそろ行こうかな」

 そうつぶやくように切り出して、音森は石段から腰をあげた。


「あれ? 伊十峯と連絡先交換した?」


「あ、そうだったね! ごめん、忘れて戻るとこだったよ。危ない危ない。伊十峯さん、良い?」


 スカートにしまったスマホを取り出し、伊十峯のそばへ寄る音森。もう立ち上がっていたので、先ほどの包囲網のような事にはならなかった。

 無論、俺は残念がったりなどしていない。当たり前だ。


「……」


「よしっ。伊十峯さんのキャットークの登録も済んだし、じゃあ私、先に自分の教室戻るね。二人とも協力してくれてありがとう!」


「ああ、じゃあな」

「……」


 軽く手を振って、音森は階段の方へと歩いていった。

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