25 合わせ鏡の遭遇

 ◇ ◇ ◇ ◇ ◇



 翌日、俺は伊十峯に音森の配信の件をキャットークで相談する事にした。

 学校で席が隣同士なのだから直接話すという手も考えられた。


 だけど相談内容がASMRに関係する事だったし、今日から一週間はテスト期間で、期間中は座席が名簿順になる。

 それなら当然、キャットークで相談する方が良い。


『おはよう。いきなりで悪いんだけど、ASMRの音声配信をしてみたいっていう女子がいてさ。伊十峯、その人に色々教えてあげてくれない?』


 不躾だと思いつつ、朝、家を出発する頃伊十峯にこの内容を送った。

 伊十峯はこの相談にどう返してくるだろう……?


 俺の予想では、八割方断られると踏んでいた。


 朝の外気は、まだそれほど暑くなかった。

 昼頃のむあむあとした空気が嘘のように感じられるほど、この季節の昼夜の気温差は激しい。


 俺の家は、学校から徒歩でおよそ二十分ほどだ。この距離でさえ、歩いていて気温の上昇を肌で感じる。


 伊十峯の家も似たような距離だけど、少し方向が違うのでそれほど俺の家と近くはない。

 思えば中学時代、同学年に伊十峯という苗字の生徒は居なかったような気がする。伊十峯の住所的に、同じ学校でもおかしくなさそうなのに。


 ただ学年で四クラスもあったので、いまいち生徒の苗字全てを把握しきれていなかったんだよな、と今更ながら考えていた。加えて伊十峯は無口で影も薄い。三年間違うクラスだったのなら、尚更知る由もないだろう。


 もう一年以上踏みしめてきた同じアスファルトの道路。その上を歩き、お馴染みの街路を抜け、俺は学校へと向かっていた。

 登校中、伊十峯から割合早く返事が返ってきた。


『それってうちの学校の生徒……? 他の人に広まらなければ協力してあげたいけど……』


 おお、案外協力的!

 伊十峯も、なんだかんだで人付き合いへの苦手意識みたいなものが無くなってきたんだろうか。

 俺は、そんな伊十峯の返信に感無量だった。


 前に述べたが、その日から一週間、学校ではテスト期間が始まる予定だった。


 うちのクラスは全体的に偏差値が高いらしく、漫画やアニメで見るような、赤点まみれの補習地獄に喘ぎ苦しむ限界生徒、という肩書の生徒はいないようだった。

 ギャル軍団の中にもいないというのだから、優秀なクラスだと思いたい。


 うちの高校は定期テストの際、席を名簿順に改めて行われる。その方が、教師側には都合が良いんだろう。


 そんなわけで、俺は一時的に窓際最後尾ではなくなっていた。

 右に伊十峯もいないし、前に辻崎もいない。


 隅っこの席という落ち着いたポジションではなくなったが、今はむしろこっちの方が良い気がする。


 伊十峯はともかく、辻崎は少しだけ気まずい。恥ずかしい。告白されて、キスとかしそうになって……。ああ、もう!


 昨日の事を思い返すと、頬が火照りだしてどんどん体温が上昇し、今にも自然発火現象が起きそうなくらいだ。返事はまだ俺の中でもはっきりしていないしな……。


 学校に着くと、定期テストの通例通り名簿順の席に座り、一限目の開始を待つ。

 その間、俺はキャットークで伊十峯に返信を送る事にした。


『隣のクラスの音森惹世って女子だよ。ASMRに興味があって、これから始めたいらしい。伊十峯、知ってる?』

 音森の深い事情は開示せず、相談内容だけを淡泊に送る。


『音森さん……? 知ってるよ。音森さんなら大丈夫だと思う。うん、教えても大丈夫!』


 ありがとう伊十峯!


 伊十峯の返信内容を読み、心の中でガッツポーズを決める俺だった。

 これで逸材を逃さずに済んだ。

 ASMR界に、新たなダイヤの原石を送り込んでしまったな。本人の意志が大きかったけど、導いた俺の功績を誰か讃えてくれていい。


 でもASMRのレクチャーって事は、伊十峯が実際にやってる現場を音森に見せたりするって事だよな……?


 俺が伊十峯の部屋で頼んだ時には拒まれたのに、音森なら大丈夫なのか……。


 まぁ俺と音森だと、男女という違いもあるし、俺本人に向けて囁くのとマイクに囁くことを女子にレクチャーするのとじゃ、全然頼み事の内容も違うんだけど。


「ねぇねぇ」

「……ん?」

 誰かが後ろから俺を小突いてきたので、ほとんど反射的に振り向く。


「おわっ! つ、辻崎⁉ なんで⁉」

 後ろの席に座っていたのは辻崎ゆずだった。


「……あ、そうか。名簿順!」

 よく考えてみれば俺が「月村」で、辻崎は「辻崎」なんだから五十音順で縦に並ぶよね。

 至極当然のことだったわ。驚いてごめんなさい。


「な、なんだよ、辻崎……」

 一気に昨日の記憶が呼び起こされる。

 俺はおそらく顔を赤らめていたと思うが、それ以上に、俺の後ろに座る辻崎も顔が真っ赤だった。

 自分で呼んだくせに伏し目がちだった辻崎は、たどたどしく小声でこう答えた。


「き、昨日、途中で帰って……ごめんね」


 教室で恥じらう辻崎を見たのは、初めてかもしれない。ちらちらと俺を見ながら頬を染め上げる姿に、こっちまで恥ずかしくなってきてしまう。


「いや、そ、それは気にするなよ」

 じっくりと顔なんて見ていられず、俺はそう言い残して前だけを見た。


 ダメだ。ちゃんとテストに集中しろ俺!

 家での勉強は特にしないが、さすがにテスト自体に集中しないわけにはいかないからな。


 それから生徒が次第に揃ってくると、試験監督のために担任がやってきた。

 その手には問題用紙と答案用紙があり、俺はちょっとだけ非日常的だなと感じていた。



 ◇ ◇ ◇ ◇ ◇



 午前のテストが終わり、昼休みに入る。

 俺が筆記用具を片付けていると「月村ぁー、昨日なんで早く帰ったんだよ~」と、降旗が机の前に現れた。


 やっぱり学ラン姿が一番見慣れていてしっくりくるな、降旗は。


「急な用事だって言っただろ? それに、午前中でも一応付き合ってやっただろ。許せ」


「許さないわけじゃないけどよぉ~。……あの後、ちょくちょく気まずくなったりしたんだぜ?」

 俺の机の前にしゃがみ込み、両腕の肘を置く降旗。


「気まずい? なんで?」

「なんでってお前、三人で遊ぶのって、基本一人は会話に参加できないだろー?」


「! ……まぁ、確かにそうだよな」

 降旗の感情はよく理解できる。


 まず会話という行為自体、「二人」という数が完成形だと思う。

 少なくても多くてもまずい。一人はそもそも論外だし、三人では一人余る。


 そしてこの「三人」という数が絶妙に厄介だ。

 遊びに出掛ける時の「三人」という数は、一見問題無さそうだけれど、必ず誰かがめんどくさい役回りをするハメになる。


 話題が振られるまで素知らぬふりをするのか、一言ボケをさしてやるのか、イエスマンになるのかは知らないが、半団体行動というめんどくささは誰とだって同じだ。


 皆が同じようにこの「三人目」の立ち回りに慣れ、不満を抱かないなら問題ないが、もちろんそんな事はないわけで。


「悪い事したな……」

「いや、もういいけどさー。ていうかメシにしよう! 頭使ってお腹空いた」

「そうだな」

 降旗はそのまま俺の前の席を借りて、手に持っていたコンビニのビニール袋を机の上に置いた。


 俺達が昼食を取っていると、不意に俺のスマホに着信があった。

 音こそ鳴っていないが、置いていたスマホの画面が急に明るくなったので降旗に突っ込まれる。


「何? もしかして女の子からか?」

「それはわからん」

 開いてみると、伊十峯から送られてきたキャットークのメッセージだった。


『ASMRを教えるのはいいんだけど、そういえば私まだマイク無いから……すぐには教えられないと思う。

 あとアルバイトの件なんだけど、お姉ちゃんに聞いてみてもらったの。そしたらね、セカンドブックは今募集してないみたい。残念』


「残念」のあとに、ぴえんと泣いたような顔の絵文字が付けられていて、伊十峯のキャラじゃないなと思った。あの伊十峯が……ぴえんか。意外なところに茶目っ気を出すんだよな、伊十峯って。

 あの「炭酸もこもこ」の時と同じで。


 それにしてもマイクか。

 マイクの件は、すっかり俺の頭から抜け落ちていた。


 伊十峯がマイクを持っていない以上、まだ音森はASMR界のスターダムにのし上がれないと……。ああ、なんとも嘆かわしいったら……。


 その上、セカ本のアルバイトもダメか。アルバイトのお金で買うという選択肢はアリだと思っていたんだけどな。


 古本屋以外で働くとか、そっちを視野に入れて考える必要があるかもしれない。


「――なぁ、誰からだった?」

「え、ああ。伊十峯からだった」


「伊十峯? へぇ~。やっぱりもうキャットークでよろしくやってたか!」


 降旗友一恒例のにやけ面が、またしても炸裂していた。

 今日は全力デコピンを決めてもいい日だっけ?


「おやじくさいな。今時聞かない言葉をお前は……」


 確か降旗の方が、俺より偏差値高いんだよなー。

 だから死語にも堪能なのかっていうと、それは非常に謎だけど。


 スケベで偏差値高いと、なんかもう救いようのない変態が出来上がるから気を付けないとな。うんうん。ほんとほんと。


「あ、噂をすれば伊十峯!」

「え⁉」

 降旗は廊下の方を指差していた。

 はっとしてその指差す方に目を向けるが、そこには誰もいなかった。


「居ないじゃん。嘘つきかよ……」

「いや、居たから! 通り過ぎてったわ」


「ちょ、ちょっと行ってくるわ!」


 ――ガタタッ。


 俺はすぐに席を立ち、廊下へと向かった。


「おー、なんか知らないけど頑張れー」という降旗の応援を背中に浴び、慌てて教室のドアから飛び出す。すると、


 ――ドンッ。


「きゃっ!」

「うわっ!」

 ちょうどその時、ドアの陰から現れた一人の女子と、俺は見事に衝突してしまった。


「いたた……ご、ごめん」

「いたぁ……」

 その女子生徒と、合わせ鏡のように尻もちをつく形になってしまった。


 俺はすぐに身体を起こし、対面で尻もちをついていたその女子に手を伸ばす。

 だが、その手を伸ばした先で尻もちをついていたのは、なんと偶然にも音森惹世だった。


 学校でちゃんと見るのは初めてだった。当然のようにセーラー服姿だ。

 セーラー服姿の音森……!


 その暗めの茶髪ポニーテールと涙ぼくろは、相変わらずの色っぽさだった。

 けれど、学生的なあどけなさや純朴さが、夏服の白いブラウスや黒のスカート、紺のソックスといった女子高生の一般的な服装から、どことなく伝わってきていた。

 これはこれで良い。というか非常に良い。


「音森じゃん」

「え……?」

 音森はぶつかった拍子に痛めた右肩の辺りを抑え、ゆっくりと目線をあげた。


「月村……?」


「ごめん、慌ててたからさ……っあ……!」


「?」


 セーラー服姿の音森惹世は、尻もちの体勢のまま不思議そうに俺のほうを見ていた。


 ごめん、音森! 見えてる見えてる。

 俺の視線は、そのスカートの中へ引き寄せられていた。

 大人びた音森にしては意外性のある、穢れなき純白のパンツだった。花やハートの刺しゅうがあしらわれていて、なんともまぁ可愛らし――。


「こら! 月村!」

「あっ、ごめん」


 ささっとスカートで隠され、音森のサマーゲレンデはあっけなく閉鎖されてしまった。

 注意された俺は、素早く音森に視線を移す。


 あたかも、初めからあなたの目だけを見ていました。といった風を演じてみたが、どうやら俺に俳優の才は無いようだった。


 ギロリと俺を睨みつけながら、音森は赤ら顔でゆっくりと身体を起こした。


「……」

「そ、そういえば! 俺、音森に話したいことがあったんだよ!」

 何か新しい話題を切り出したほうが安全だと感じた俺は、すぐに音森に話しかけた。


「……何? 昨日のこと?」


 音森は未だに恥ずかしさをその表情に残しているようだったが、一応話には応じてくれた。


「ああ。昨日のっていうか、例のお願いの件だよ」

「そ。……なら、ちょっと場所変えない?」

「そうだな」


 俺達は互いにこの話題の繊細さを気遣い、一度場所を移す事にした。

 昼休みの教室付近の廊下は、生徒の出入りが不規則で何かと密談には不向きだ。

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