28 秘密のインビテーション


 ◇ ◇ ◇ ◇ ◇



 終業式を終え、降旗と別れたその日の夜。時刻は午後十時前。

 俺の心待ちにしていた時刻がやってきた。……と、そう思えなくもないのだけど、よく考えてみれば、これはあくまで音森のASMR配信の練習だ。


 つまり、俺は実験台。まさしく人体実験だ。


「文字通り」も「見た目通り」も該当している、実験台そのものだと思う。


 俺はいつものように部屋の電気を消して、ベッドの上で横になっていた。

 お風呂や夕飯はとっくに済ませ、エアコンもタイマーで数時間後に消えるようセットしておいた。後はもう眠るだけの状態だ。


 おやすみ前のささやかなひと時。

 寝る前に暗がりの中でスマホいじりは良くない。とよく耳にするけど、こればかりは、ASMRを視聴するならやむを得ない行為だと思いたい。


 そんな事を考えていると、伊十峯からキャットークでメッセージが送られてきた。


『そろそろ始めようと思うんだけど大丈夫? 一応、もうプラべ配信の招待は月村君のアカウントに送ったよ』


『大丈夫。これから配信開くよ』


 伊十峯にそう返信を送ると、俺はスマホにカナル式イヤホンの端子を刺した。

 端子とは逆のスピーカー部分を両耳に刺し込み、スマホを再度いじる。


 動画配信サイトのマイアカウントに、赤い招待通知マークが表示されていた。

 もちろん、送り主は【耳責め♡こえちゃんねる】だった。


 招待通知をぽちりと押すと、すぐに画面が切り替わった。


 招待されていた配信画面が開かれる。やはり配信に『非公開』のタグが付与されていて、この上ない優越感を感じる。


 それにしても久しぶりだな。

 伊十峯の配信自体が久しぶりだから、この動画配信サイト内で【耳責め♡こえちゃんねる】の配信画面を開くことに、ちょっとした懐かしさを覚える。


 これまでに開く事があっても、それは何日かに一度だ。

 名前を呼んでもらった、例の配信のアーカイブを視聴するためだけ。そのためだけに開いたりしていた。


 配信画面には『予約中』の文言が表示されている。あと十分ほどで開幕らしい。


 はぁ……胸の高鳴りがやまない。


 久々の配信だけど、今回は伊十峯だけじゃない。その伊十峯の部屋には音森もいる。


 今夜、伊十峯の家で音森がお泊りするのかはわからない。


 二人の間でどういう話になったのか定かじゃないけれど、今はただ、じっと耳を澄ませて待っていようと思った。


 そして、いよいよ配信開始時刻を迎えた。


「ん、んんっ! こーんばーんわぁ~」


 まず伊十峯の声が、俺の耳に聴こえてきた。

 久しぶりだけど、やっぱり伊十峯の「こんばんは」には、俺の脈拍を加速させる作用があるらしい。


 甘くて柔らかい響きがとても素敵だ。

 待ちわびていた俺の想いに、一ミリだってズレることなくフィットしてくれる声だった。


「んっ……こ、こーんばーんわ~」


 それから、もう一つの声が俺の左耳に響いてくる。


 ちょっと左耳に近づきすぎなのか、声はやや大きい。けれどそれでも良い声質だ。


 この、不器用でありながらも大人っぽさをたくさん含んでいる声色。

 これはもちろん、現在伊十峯の部屋にいる音森惹世の声に違いない。


「音量大丈夫かなぁ? 月村君。もし何かあったら、コメントで教えてね? っふ~……っふ~……どんなかなぁ~? ……ふふっ。だいじょうぶ~?」


 全然問題ないですっ! 咄嗟に脳内でそんな返事をしていた。


「い、伊十峯さん、しゃべり方が……!」

 伊十峯の様子に驚いているのか、音森が慌てたような声をあげる。


「ふふっ、今日はぁ~……ふたりで、たーっぷり♡つきむらくんの耳をー……責めちゃうからね~?」


 ああ! 伊十峯の声! これだよこれ!

 待ってたんだよなぁ……。やっぱり俺にはこの声が必要だ。


 改めて思うが、この声の質感はずるい! 一種の麻薬みたいなものだろう。


「す、すごい! 伊十峯さん……」


 伊十峯はもう吹っ切れてしまっているらしい。音森の前だろうとお構いなしのようだ。

 その姿に、音森があっけに取られている。そんな姿が、声の様子を通して伝わってきた。


 音森の前でも臆することなく、伊十峯はASMRの役に入っている状態だった。


「音森さんも、じゃあ練習してみる?」

「う、うん……! 頑張ってみる!」

 絶妙だった。絶妙に、役の状態から切り替えて伊十峯が音森と会話している!

 こんなこと出来るのか。器用だな、伊十峯。


「あ、でも……何を言えばいいのかな?」

「まずはこうやって、……っふ~……っふぅ~~……って、みみをやさぁ~しく、吹いてみてあげて?」


 やばい! すでに伊十峯の十八番「耳ふー♡」で俺の身体は反応してしまっている。


 横になった体勢だが、音だけで身体の腕や足がびくついてしまう。

 もはや連動だ。音に合わせてびくっと連動する。


「こ、このくらいの近さでいい? ……っふぅ~~……っふ、っふぅー……こんな感じで……きもちいい……? きもちよくなってくれてる……? つきむら~?」


 ああ~!

 耳がっ……耳が! 俺の左耳が、ぞくぞくっと音を立てて快感に襲われる。


 気持ちよすぎる。ちょっとおぼつかない感じというか、ぎこちなさはあるけれど。


 こんな実験、あっていいのか? 耳がおかしくなるってこれぇぇ!


「じゃあつぎはぁ~……わたしはみぎでぇー…、おともりさんがぁ、ひだりね? わかれてやってみるよ~♡」


 みるよ~♡のとこ、最高過ぎっ!

 伊十峯のとろけるような声音が、空気に溶かされて俺の鼓膜を揺らしてくる。

 やっぱりたまらないな……。語彙力とIQが著しく低下しそうだ。


「わ、わたしはぁ……んっ……ひだりからぁ……みみをせめれば、いいんだよね?」

 あっ、俺の左耳……。


 お次は左耳が音森の声で満たされていく。

 俺のすぐ左側に、音森がいるような錯覚さえ覚える。


 あのスラッとした茶髪ポニーテールの音森が、添い寝でもしてくれているかのようだった。色めき立つその声が、鼓膜のほんの数センチ先から俺に向けて発せられていた。


 耳にキスをされてしまいそうなほどその発生源は近い。そう聴覚が俺に教えてくれているかのようだった。


「そう、良い感じ! 音森さん!」

 伊十峯は音森に声援を送った。


 先ほどとは打って変わり、いつも学校で聞くような伊十峯の声だった。この声もまたちょうど箸休めのような役割を担ってて良い……。そんな声の使い分けをされたら、飽きずに無限ループできちゃうだろ……。永久機関かよ伊十峯ぇ……。


 内容は音森に対してだが、俺の右耳にその声は当てられているようだった。


 けど、そうだ。これはあくまで音森のための配信テスト。ASMR音声の教育中なわけである。

 何を自分勝手に悶え始めていたんだ俺は。


「じゃあ、ちょっとここで、炭酸やってみる?」

「炭酸……?」

 ずっと右から聞こえている伊十峯の声に、左の音森が反応する。


 左のほうから、少しだけ「――コトッ」という何かが置かれたような音が聞こえてきた。


 炭酸だと……?


「そうそう。こうやって……」


 ――コポコポコポコポジュジュウウァワァワアァァァ。


 ああ~!

 炭酸水が! 俺の左耳から脳内に入って……無秩序に音を連ねていく……!


 久しぶりに伊十峯の炭酸シャンプーが来るかとも思ったが、よく考えてみればこれは音森の教育だ。音森惹世の、ASMR音声デビュー戦なんだ。いわばこれは音森の炭酸。


「つ、つきむら……たんさん……ながすよ~?」


 お願いします!


 ――コポポコポコポココポコポォゥジュジュワワァァァァ。


 あっ、やばいぃー! 二発目やばいって! そんな短いスパンでなんてっ……ああっ!


 音森の艶っぽい囁き声の直後に、耳から入り込んでくる爽やかな音!

 頭全体の左側50%が、一気に洗浄されていくようだった。


「音森さん、じゃあ今度は~……このシャンプー液で、じ~っくりとー……そっちのみみをいじめてあげて♡? わたしもこっちからいじめるから……」


 あ、ちょっと……! 今はダメだって、伊十峯! なんて指示出すんだ!


 しかも、いじめてあげて♡? だなんて、そんなはしたない言葉使っちゃいけません。


 ――ワッシャワッシャワシャウーーグシュグシュ、グジュグジュ、ワッシャワシャ。


 っ~! あはぁーッ! もぅダメだってぇーー! 伊十峯ぇー! 音森ぃっ!

 俺の耳がっ……や、ヤバイ事になるかぁらっ! た、たすけてく、あひゃっ! ああっ。


「つーきむらぁ……」


 耳元でシャンプー液のわしゃわしゃという泡立った音と、ぐしゅぐしゅといった水気のある淫らな音が、俺の両耳どちらからも聴こえてくる。


 両耳責めやばすぎる!

 気持ちよすぎて意識が霞がかってくる!


 ああ、もうこのまま天に召されてしまってもいいかもしれない……ああ……。


「つ~きむ~らぁ~……ふふっ……よ~しよしぃ……いいこ、いいこぉ~♡……」


 あはぁ~……もう、なんでそんなよしよししてくれるんだよ……。


 幼児退行しちゃうって。何? ちょっとママ系だったのか。やっぱり音森の「甘やかす」ってこういう感じだったのか……⁉ とても良いじゃん。


 左耳から押し寄せる母性に、俺はあえなく屈服した。慈愛に満ちた声色が響いていく。


 逸材だ。やっぱり音森惹世の願望は、ASMR音声とぴったり合致している。

 極上のママあま系……デビュー戦でこれはとんでもないぞ……。


「っふ~……っふ~……月村君……っふぅうぅ……」


 あはっ♪

 右耳から仕掛けてくる伊十峯の「耳ふー♡」も健在! なんていう責めだ。


 というか、左右両方から包囲してくるとか、……あっ、さては以前のふたご山包囲網の伏線回収だったのか⁉ 再現か⁉ してやられた! 逃げ場がないっ!


 ただ、俺はこの時、心なしか伊十峯の声が弱弱しく聴こえたような気がした。


「よ~しよしぃ。いちがっき、つきむらも~……おつかれさまだったよねぇ~……よしよぉ~し♡」

「っふ~……おみみ、マッサージするねぇ~♡? つきむらくんっ」


 両耳がっ! 左右から絶対よしよしボイスと絶対あまあまボイスが囁かれ、クロスオーバーしていく。


 あっ……も、もううダメだってぇぇぇ!


 ああぁはぁ~~ん♡!

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