21 慎み深い音森惹世

「え? ああっ! えっと、違うんだよ? これは違う違う。違うんだって」

 何回違うって言う気だよ。俺も母国語は日本語だぞ。

 声は落ち着いているけど、素早い手つきでスマホを隠す音森。


 けどここまでポーカーフェイスが使えると違和感がすごいな。

 内心はたぶんかなり焦っているんじゃないのか……?


「はぁ……。いや、別にバイノーラルマイク見てたからって俺は……」

「だから違うって言ってるでしょ! 勝手に決めつけ――わっ!」

「え? うわっ!」


 取り乱した音森は、床の配線カバーにつまづいて俺の方へと倒れてきてしまった。


「いったぁ……」


 気が付くと、俺は音森に押し倒される形で店内の床に倒れていたのだった。

 音森の女の子らしい箇所を黒いミニワンピース越しに肌で感じつつ、俺は俺で腰が痛かった。


 ――ふにゅふにゅ。

 あ、やばい! この感触! いい感じに手に納まってるが、これは……。


「きゃああっ!」

 俺に覆いかぶさっていた音森が、叫びながら慌ててその体勢を起こした。

 少し暗めの茶色いポニーテールをあらぶらせて立ち上がると、音森は慎ましいその胸元をサッと腕で隠す。

 知ってた。さっき右手に納まってた柔らかい感触はアレですよね。


 その仕草も、倒れてきた時の感触も、俺の鼓動をうるさくさせている原因だった。


「いたた……おい、被害者は俺だろ……痛っ……お尻と腰が、痛い」

 店内の固い床に打ち付けたのだと思うが、立ち上がってみると余計にジンジンとした痛みに襲われる。


「ごめんね……」

 申し訳なさそうに音森はやや頭を下げた。


「そんな慌てる事なかったのに。……けど驚かせたのも悪かったよ。そういうつもりじゃなかったんだ」

「だって、おかしいでしょ……?」

「え……? 何が?」


 なんだかどこかで見たようなやり取りだな。


「バイノーラルマイク……なんて。普通の女子高生には縁のない物だしさ」

「……」


「月村君、ASMRって知ってる?」

「え、……ああ。知ってる」


 いきなりASMRの話題ですか! マイクの話題じゃなくてね⁉

 やっぱりこの人知ってたのか。まぁそりゃそうだよな。じゃなければバイノーラルマイクとか調べたりしないだろうし。


 俺は、あくまで「知ってる」と答えておく事にした。

 この話題は非常にデリケートなものだし、踏み込んでいいさじ加減を慎重に見極める必要がある。

 一歩間違えると地雷を踏む。速攻で変態の称号を獲得できる。できちゃう。


 それから、こんな事教えるの変な気もするんだけど、と音森は前置きをして、

「ちょっと興味があって、実はこれから始めてみようかなと思ってたんだ」


 ああ、まだ始めてなかったのか。チャレンジしようとしてる所だと。


「へぇ。そうなんだ」

「!」


 俺の反応に、音森は目を丸くして驚いていた。

 俺は構わず商品棚に置かれていた高品質マイクを触ってみたりしていた。


「意外! なんだかもう少し変な目で見られるかと思ったのに」

「はぁ? なんでだよ」

 俺はつい反論してしまった。


「え? ……だってさ、ASMR音声ってその、結構き、際どいっていうか……。ほら、変なのも多いじゃん? そんなのしてたら、周りに変だって思われるよ……」


「変なののどこが悪いんだよ‼」

「え?」

 俺の言葉に、音森は絶句しているようだった。


「あっ……」

 何を言ってんだろう俺。

 好きなコンテンツの話になると、いつも勢い任せになりがちだ。思わず変態の悲鳴が出てしまったというか。いや、まだ弁解の余地はある……よな?


 相変わらず音森は、その整った顔立ちと切れ長の目で俺を見つめていた。

 一か八かだ。せめて傷を広げないように弁解をしなければ。


「……ど、どこが悪いんだよ! いいじゃん、ASMR! 音森がそれをやってみたいって思ってるなら、頑張ってやってみればいいだろ? 周りの目とか気にしてたら、いつまでたっても自分が本当にやりたい事なんてできねぇぞ!」


「!」


 一生懸命言葉をひねり出した俺だったけど、変態疑惑をごまかせただろうか。

 俺はあくまで音森の応援役。そのように、音森の目に映ってくれただろうか?


 これで音森がASMRを始めようが始めまいが、正直その行方はどちらでもいい。いや、始めてくれるならASMRリスナーとしては嬉しい限りですけども……。


 それに、単純に音森の声質は良い部類だと思う。

 仮に始めるとしても、見た目通りのその大人っぽい声色で、色んなリスナーを魅了していけるような気がする。ASMR配信者一級鑑定士の俺が言うんだから間違いない。はずだ。


「何? 月村君て……良い人だったんだ」


 音森は顔を赤らめてそう述べた。少し手までもじもじさせていて、なんだかまるで伊十峯みたいな恥じらい方だった。全然ポーカーフェイスが出来てない。

 何がきっかけでポーカーフェイスが解けてきたんだ?


「良い人か? うーん。けどさ、今見た様子じゃ、この店にバイノーラルマイクは無いらしいな」


 そう。音森が散々スマホと店内の商品を見比べていたけれど、この辺にあるものはすべて普通のスタンドマイク。

 この辺に無いとすると、もうバイノーラルマイクは店内に無いんじゃないか?


「あ、やっぱりそうだよね? 私も探してる奴無いなって思ってたんだ……。でもまぁいっか。今時マイクは買うなら通販だね。ねぇそれよりさ、お、折り入ってお願いなんだけど……」

「うん?」

 俺が商品棚から音森に視線を移すと、それを見計らったかのように音森は次のセリフを吐いた。


「私にASMRを教えてくれない?」

「……はい?」


 目と目を合わせつつ、俺のすっとんきょうな声が出る。

 俺が教える⁉ なんでそっちに話が転がるんだよ!


 俺は一回も配信とかした事ないし。それに単語の中にSとMが入ってるせいか妙に「教えてくれない?」のセリフが卑猥な意味を持ってるように聞こえてくるし!


 音森は片手で後れ毛に触れながら、どこかへ視線を流していた。

 黒のミニワンピースから受ける大人っぽさとのギャップのせいか、それはどこかいじらしいとさえ感じる仕草だった。


「だ、だってさ……あんまりこういう話できる人もいないし。つ、月村君なら……教えてくれるんじゃないかと思って」

「あ、あはは……」


 ……うん。確かにそりゃそうだ。そうなるわ。

 手のひらに拳を一個立てて置きたいくらい筋の通った話だ。


 けどそれにしたってお門違い。俺は配信の手解きとかできないんだが。

 俺の周りにいる数少ない(本当に数少ない)顔見知りで、こんな配信経験ある奴って言ったら……。

 こんな条件に該当する特殊なヒーローは、たった一人しかいなかった。


「ごめん! 音森!」

「……?」

 ぱんと両手を合わせ、一応の謝罪から入る。


「俺自身は、その、ASMRの配信とかしたことないんだ。だから、配信の具体的なアドバイスはできない。だけど、俺の知り合いに配信経験者がいるから、その人に教えてもらえるか頼んでみるって事でどう……?」


「あ、そうなんだね。……オッケー! じゃ、頼んでみてもらえると嬉しいなっ」

 さすがに俺は、その経験者が「伊十峯」だとは言わなかった。

 最初に伊十峯と交わした約束。「伊十峯小声がASMR音声の配信をしている事」については、絶対誰にも伝えちゃいけないんだ。伝えるのだとすれば、それは伊十峯の確認をとり、ゴーサインが出てから。


 だからまず、伊十峯自身に確認しなきゃいけない。他人に配信のアドバイスをしてもいいという気持ちがあるのか。そっちが先に踏むべき手順だ。今はまだ、名前を伏せておく必要がある。


「じゃあ、月村君。連絡先……あ、ねぇねぇ」

「え?」


「月村って、呼び捨てにしていい? そっちも私の事、呼び捨てにしてるしさ」

「全然いいよ、それは。同い年だしな」

「じゃ月村、連絡先教えて?」

「キャットークでいい?」

「うん」


 それから俺達はキャットークのアイディーを交換し、互いに登録を済ませた。


「じゃあ、良い返事期待してるね」


 そう告げた音森は、それまで見せた事のないような笑顔を振りまいていった。泣きぼくろの色っぽさもあり、俺の鼓動はまたしても高鳴っていた。

 コツコツと足音を鳴らし他のコーナーへ向かうその後ろ姿。

 動きに合わせ、さらっと揺れるポニーテール。


 そんな姿をぼんやりと眺めていると、不意に横から肩を叩かれる。


「つーきむらっ!」

「……え」

「あっははは! なんだよ、その顔!」

 俺の顔を見て、肩を叩いてきた降旗友一が笑いだす。


「え、俺、変な顔だったか?」

「ああ。変っていうか、心ここにあらずって感じだったわ」


「……そうか」

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