18 もうすぐ夏休みです
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
その夜、俺と伊十峯は、各自夕飯や入浴を済ませてから連絡を取ろうという事になった。
気が付けばもう午後十時。
さすがにエアコンをつけないとやってられないくらい、最近は夜でもやや暑い。
俺は伊十峯からの連絡を待ちながら、自室のベッドの上でスマホをいじっていた。
窓を閉めているはずなのに、外で開催されている蛙の大合唱がかすかに聞こえてくる。
常にうっすら聞こえているせいで、もう聴覚が麻痺しているかもしれない。
聞こえてるよなこれ?
――♪~♪~
気にせずネットニュースを閲覧していると、キャットークの通知ポップが画面上部にぬるっと割り込んできた。
通知音はちゃんと聞こえていた。よかった、まだ耳は生きている。
『月村君、私のほうはもう大丈夫なんだけど、そろそろ通話できる?』
『え? 通話でいいのか?』
『うん。直接話しながらのほうが決めやすいと思ったんだけど。チャットのほうがよかった?』
まさかの通話か!
想定していなかったけど、確かにそうだよな。話す内容的には、通話のほうが都合が良さそうだし……。
いや待てよ? それにしたってあの伊十峯と通話か。
ASMRで散々俺の耳を快楽地獄の底へ突き落とした(勝手に落ちただけ)音声と、通話のやりとりだと……?
言ってみれば、ASMR音声と大して変わらないよな。
大丈夫か俺……?
そんな不安がやや付きまとったが、別にスマホはバイノーラルマイク搭載じゃないし、伊十峯だって配信時のような役に入り込む事はしないだろう。うん。たぶん大丈夫だ。
不揃いな条件がゆえに大丈夫だろうと判断した俺は、伊十峯に返事をした。
『いや、通話でいいよ。これからかける』
『うん! よろしくね』
それからすぐにキャットークに設けられてある通話ボタンを押した。
しばらく呼び出し音が鳴ってから伊十峯が通話に出る。
『こ、こんばんは! 月村君!』
『あ、ああ。こんばんは』
ASMRの配信ほどじゃないけれど、やっぱり伊十峯の声は良いな。
通話に出た伊十峯の声を聞き、再認識した。
優しくて甘々な雰囲気は、もう声の質からも多分に感じ取れる。そこにちょっとだけ色香のエッセンスが含まれていて、やっぱり伊十峯の声は唯一無二だなとしみじみ思う。
『ごめんなさい月村君、ちょっとスマホスタンドから外すのに手間取っちゃって……』
『そうだったのか。いや、全然別にいいよ』
申し訳なさそうに話す伊十峯。
声の調子から、スマホの向こうで頭を下げてそうだなと想像してしまう。
『それで伊十峯。マイクの件だけどさ、もうすぐ夏休みじゃん?』
『うん。そうだね』
『だから、夏休みにアルバイトでもしようかなって思ってたんだよ、俺。そしたらある程度良いマイク買えるんじゃないか?』
『うん、それいいね! ……あ、でも……』
『?』
俺の意見に賛同してくれたかと思えば、伊十峯の声は尻すぼみになる。
『どうしたんだ?』
『うん……あのね、……私もその、一緒にアルバイトしたいんだけど……きっと月村君に迷惑かけちゃうんじゃないかって思ったら、そこまで喜べなくて……』
『迷惑とか、そんな風に思わないけど?』
『本当? ……大丈夫かなぁ?』
『ああ。俺だって、伊十峯とかバイトの先輩に迷惑をかける事になるだろうし、お互い様じゃん!』
『そ、そうだね……うん。よしっ。わかった! 私もアルバイト頑張る!』
俺の言葉に、伊十峯は俄然やる気を出しているようだった。
伊十峯の健気さに思わず応援したくなってしまう。
『そうだそうだ。伊十峯なら大丈夫だ! だめでも俺がなんとかする。どうしようもなくダメでもどうにかするわ!』
『それ、ちょっと小馬鹿にしてる? ひどい月村君!』
『とんでもないです』
『ふふっ。月村君て、面白いね。あはははっ!』
伊十峯は楽しそうに笑い声をあげた。好きな声質の笑い声っていいな。
もっと伊十峯に笑っていてほしいな、とか妙な事を考えてしまっていた。
だが、そんな時だった。
『――あはは、きゃっ!』
――ゴトッ。
突然、電話口の向こうの伊十峯が大きな声をあげる。
それと同時に、何かぶつかったような硬い音が聞こえてきた。
『ど、どうしたんだ⁉ 伊十峯、大丈夫か⁉』
『う、うん。大丈夫。……あ……ちょっと、飲み物こぼしちゃった……』
『はぁ、そうか。とりあえず、大丈夫ならよかったよ……』
伊十峯の無事を確認して安堵した。
先ほどの物音は、コップか何かを落としてしまった音なのだろう。
俺がそう察していると、
『月村君、ごめんなさい。ちょっと私着替えるから、一旦スピーカーにするね?』
『えっ? あ、ああ』
『んしょっ』
そう言って、伊十峯はスマホの向こうで何やらカチャカチャと音を立てた。
『……』
『伊十峯? もしだったらスピーカーじゃなくて、一度通話切ってもいいんじゃないか?』
『……』
伊十峯から返事がない。
スピーカーになってるんだよな?
本来のスピーカー機能なら、スマホのそばに居なくてもある程度の範囲は音を拾って会話できるはずだ。
それなのに返事はなく、俺の声が伊十峯に届いている気配もない。
『あれ……もしかして伊十峯、スピーカーにしてないんじゃ――え⁉』
俺はおもむろに自分のスマホ画面を確認しようとした。
すると、なんとそこには伊十峯の部屋の映像が映し出されているのだった。
『は⁉ い、伊十峯の部屋⁉』
パステルカラーベースのぽわぽわとした雰囲気のそのお部屋は、まごう事なき伊十峯の部屋だった。バッチリ映し出されているし、向こうに伊十峯が見える!
おい、ちょっと伊十峯さん⁉
なんだこれ⁉ あ、ビデオ通話か⁉
『い、伊十峯! ビデオ通話になってる! ビデオ通話になっちゃってんだけど!』
俺が慌ててこの事実を伊十峯に伝えようとするも、やはりその声は届いていない。
ピンク色のゆるいパジャマ姿の伊十峯は、なんともまぁ可愛らしい格好で――ってそれどころじゃない!
『おーい! 伊十峯ぇーー! 気付いてくれぇーー! 部屋! 部屋映ってるからぁ!』
俺の懸命な呼びかけも虚しく、伊十峯は衣装棚の前に立っていた。
それにしても、なんでこんな角度で部屋が映ってるんだ?
普通なら天井が映りそうなもんだけど……。
『あ、もしかしてスマホスタンドか……?』
よく考えてみれば、伊十峯がスマホをスマホスタンドに固定したのかもしれない。さっきカチャカチャと音が鳴っていたのはそれか⁉
なんでよりによってスタンドに立てたんだ伊十峯!
こんなのタイミング良すぎ、いや悪すぎる!
『伊十峯ーー! もしもーし!』
再度呼び掛けるも、音量が低く設定されているのか届いていないらしい。
画面の向こうに映っている伊十峯は、いよいよ本格的に着替え始めようとしていた。
パジャマのボタンに指をかけ、上から一つずつ丁寧に外していく。
なんだよこれ! 完全に俺が覗いてるみたいじゃん!
『頼む伊十峯! 気付いてくれぇー!』
い、いや……もういっそ気付かなくていい! いや何考えてんだ俺気付いてくれ!
俺の中の紳士と紳士が猛烈に戦っている。見たい見たいと見るな見るなの大合戦。
火花散るほどの激しいつばぜり合いが始まっていた。
スマホの向こうで俺が焦りまくってるとは露知らず、伊十峯はついにパジャマのシャツを脱ぎ始めてしまった。
肩の柔肌から、順々に晒されていく伊十峯小声十七歳。
可愛らしい装飾の施されたピンク色のブラジャーも、覆われていないふっくら豊かな山肌三分の一も、ビデオ通話でバッチリとこの目に見えてしまっている。
ああ! 見えてる見えてる、バッチリ見えてんだけど伊十峯ぇぇぇ!
起伏の激しい伊十峯の身体が、しっかりとスマホの中で表示されていく。
もうダメだ! こんなのずっと見てるわけにいかない!
いやでも? これはアクシデント。そう、本当にただの事故だからオーケー……?
っていやいやダメだ! 最後まで諦めずに伊十峯に呼び掛けるべきだ。
『伊十峯ぇぇぇ! 見えてますからー! おーい! こんにちはーー!』
――ドンドンッ。
「え?」
俺がそんな風に叫んでいると、いきなり俺の部屋の扉が外から叩かれた。
「ちょっとつむぎ! うるさいわよ⁉ こんな時間に何がこんにちはなの⁉ 大声で騒がないで!」
扉の向こうから、母親の怒りの声が聞こえてきた。
たぶんさっきまで母親は寝ていたのだろう。少しばかり眠そうな声だった。
「あ、はい。……ごめん、ちょっとね……あはは……」
さすがに事情をありのまま説明できなかった俺は、生返事でやり過ごすしかなかった。
確かに夜だし、うるさかったんだろうけど、それにしても伊十峯が!
思わず伏せてしまっていたスマホを手に取り、もう一度ビデオ通話を確認する。
ああ! やばい! 伊十峯が最終段階のズボンを脱ぎ始めている!
『伊十峯~……もしもぉ~し……お~い……』
一応母親に気を使いつつ、こっそり小さな声で呼び掛ける。
いやこんなの絶対聞こえるわけないだろ。なんだこのつぶやき。
そして見てはいけないとわかっていても、目が吸い寄せられてしまう。
伊十峯のくびれた腰も十分やばいが、本当にやばいのはこれからだ。
最終段階のお尻!
伊十峯は、見られているとも知らずにスルッとズボンを下ろしてしまった。
ああ……ダメだ、伊十峯のほどよくむっちりとしたお尻がそこに見える。
ブラと同じようにピンク色の可愛いパンツを履き、それでいて足先はすらっとしている。やっぱり着やせするタイプか――ってこんな感想述べてる場合じゃないって!
見ていいのは付き合ってる彼氏とか、仲の良い女友達くらいなもののはずだ。
俺みたいな奴に見る資格はない!
そう思い、俺がスマホの画面を伏せようとした、その時だった。
――♪~♪
電話口の向こう、伊十峯のスマホの近くで何かのメロディが流れ始めたようだった。
『ん? なんだこのメロディ? あ、でもこれで伊十峯が気付いてくれれば……って、うわ! 伊十峯、こっちに来ないでくれ! そんな下着姿で近づいて来られたら色々具体的になるだろ!』
そのメロディのおかげでこちらに注意を向けた伊十峯は、ゆっくりと近寄ってくる。
『……?』
伊十峯は、前かがみの姿勢でスマホの近くを覗き込んだ。
無論、下着姿で一段とパワーアップした破壊力の谷間がそこに見――
『もうダメだあぁぁぁ!』
――プツッ。
俺はもうこれまでだと判断し、通話を一度切る事にした。賢明な判断だ。
今思えば、初めから切るという選択肢もあったはずだ。
それなのに切らなかったのは、たぶん通話中の伊十峯が、明るく楽しげにおしゃべりしていたからだ。そんな伊十峯の声を耳にしていたせいで、もっと通話したいと感じていたからに違いない。うんうん。そういう事だわ。
ごめんなさい。絶対違います。普通にエッチなこと期待してました。
俺も男の子です。
その後、最後の叫び声のせいでまた母親に怒られた。
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