17 伊十峯小声の声
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
無事平和に一日の授業が終わり、放課後になれば教室はがらんどうになる――かと思っていたんだけど、全然帰らない生徒達もいた。
「暑いし早く帰ってカラオケ行くー?」と、いかにもこの後予定のありそうな雰囲気で盛り上がっているが、その生徒達は一向に腰を上げようとしない。
そんな生徒は誰か。
もうお察しかと思うけど、はい、ギャル軍団しかいませんよね。
居残り授業だとか待ち合わせだとかの理由もないのに、放課後のセンチメンタルな空間に根を張って動こうとしない。
仕方がないので、俺と伊十峯は結局学校を出ることにした。
帰り道をとろとろと歩いていけばいい。
そう思って、俺と伊十峯は学校の正門から出て、帰路へ着く事にした。
門を出ると相変わらず鴨市の街は寂れていて、そんな街並みが、傾いた夕陽の赤に沈んでいる。
今日の気温は多少マシな気がしていた。けれど空気はむあっとしていて、八月のことを思うと憂鬱になりそうだ。本当に大丈夫か新潟。あついぞ熊谷! みたいな事にならないといいけど。
放課後、教室が無人になるまで粘っていたせいか、帰り道に生徒の影はなかった。
帰宅組の生徒達と時間がずれていたからだと思う。
それを理解したのとほぼ同時に、俺の口からは言葉が出ていた。
「伊十峯、まずさ、弁明させてほしい」
「……弁明?」
「ああ、そうだ。伊十峯が昼休みに見たアレは、完全に事故なんだ!」
「……う、うん」
伊十峯は複雑そうな表情をしていた。
下唇を甘噛みし、学生鞄を持つその両手に力を入れている。
俺の弁明を聞いたところで、伊十峯のその表情がふわっと明るく持ち直したりする事はなかった。
まだどこかスッキリせず、感情の根っこを腐らせているようで。
「べ、別に弁明だなんて……」
それから深く息を吸い、伊十峯は続ける。
「つ、月村君が、誰と付き合ってたって、いいじゃない。私は別にそ、そんな事……」
「付き合ってるわけじゃないんだけど……大体俺には……」
「え?」
「いや、いい」
うっかり自分の過去を話し始めてしまいそうになり、思いとどまった。
伊十峯は不思議そうな顔をしていた。
「と、とにかく! 辻崎とは何もないから!」
「……うん。だ、大丈夫だよ? そんなに気にしてなんかないよ」
「そっか。……ならいいんだけど」
伊十峯のその声からは、感情が読み取れなかった。本当はどう思っているんだろう。
「気にしてない」という言葉は、本来正しい返答のはずだ。そうだとわかっているのに、どことなく突き放されたような気がして、胸の奥がきゅうっと切ない軋み音をあげる。
向こうにある横断歩道の青信号が、チカチカと点滅し始めた。
あれに間に合う必要はないけれど、無意識に急かされているような気分だ。
「と……ところで、もう一つの話だけど」
「うん」
もう一つの話題に恐れつつも触れてみる。
伊十峯にとってどうかは知らない。けれど、俺にとっては死活問題に等しかった。
俺の名前を呼んでくれた特別なASMR音声は、確かにアーカイブとして残っている。
けど、それは過去のものだ。
今はよくても次第に色褪せるものだ。
不特定多数のリスナーに向けたものでも、俺は伊十峯にASMRを続けてほしいと感じていた。
これはやはり身勝手なんだろうか?
「どうして配信をお休みするんだ?」
伊十峯には、あの特別な音声を残してもらった事とは別に、実はもう一つ恩がある。
それは、中学時代の過去に沈んでいた俺を救ってくれた事だ。もう外に出るのも嫌になるくらいの、苦々しい記憶。
そんな失意の中にいた俺を救ってくれたのは、他でもなく伊十峯の声だ。
これ以上の救済はなかった。これは大げさじゃない。
伊十峯は知らないだろうし、俺がそれを口にするつもりは無い、けれど。
「……」
俺の問いに伊十峯は口を噤んでいた。
配信を再開するつもりはないのか?
その沈黙が長ければ長いほど、伊十峯の配信再開は難しい事のように思えた。
「……」
……願望は実らない。
そんな目を背けたい現実に、切ない感情が胸を冷やす。
同時に、俺の中で込み上げてくるものがあった。
身勝手な想いかもしれない。ただの依存だって話でもいい。かっこいい理由なんてもんはいらない。むしろかっこ悪い理由だ。泥臭くて、気持ち悪い自己中の考える事だとしても、伊十峯小声の声に救われた過去はどうしようもなく俺の感情を揺さぶる。俺の脳がいつも感情的な発言を検問していたのなら、これはその目を盗んだ発言だ。脳を介した言葉じゃない。理性で洗い立てた言葉じゃない。
これは心の声で、きっと俺の本音に違いなかった。
「伊十峯……お、俺のために、配信を続けてくれ‼」
「!」
俺の告白めいたその声が、閑散とした夕暮れの街に響いた。
急に立ち止まってそう叫んだ俺の声に、三歩進んでしまった伊十峯が振り返る。
「あ、あのね……月村君……」
伊十峯は俺の目をじっと見つめ、言いにくそうにセリフを繋げた。
「実はね、マイクが……その……」
「マイク?」
「そう、ダミーヘッドマイクの調子が良くないの」
「……え?」
俺は唖然とし、口をぽかんと開けてしまった。
マイクの……調子が? 良く……ない……だと?
なんだよ、そういう事情かよ!
もっとこう、伊十峯の感情的な問題かと思ったのに!
俺のさっきの気苦労はなんだったのか。
拍子抜けする俺をよそに、伊十峯は事実を赤裸々に説明していった。
「昨日、配信しようと思ったの。そ、そしたらスタンドライトの傘にコードが引っかかっちゃって……抜けちゃったから元通りに刺したんだけど、うまく音を拾わなくなっちゃったの……」
ああ、あの夢系女子御用達っぽいピンク色のスタンドライトね。やっぱり引っかかったのね。
「は、ははっ。そうだったのか……へぇー」
ふぅーん、とあくまでただ事情を聞き入れるだけの空気を出しながら俺。
けれどその後、妙に肩の力が抜けて笑いがこみ上げてくる。
「ふふっ」
「?」
つい笑みをこぼしてしまった俺に、伊十峯は小首をかしげた。
「ああ、ごめんごめん。なんか、ちょっと勘違いしてた俺。……でもマイクか~。確かにマイクが壊れたら配信とか無理だしなぁ」
「うん……だからしばらく配信は難しいと思うんだよ……私も配信したい……けど……」
「うーん……よし、わかった!」
伊十峯の事でもやもやと悩んでいた分、それが晴れて頭はすっきりしていた。
そのおかげかもしれない。俺は、伊十峯の悩みの解決法を一つ思いついていた。
「え?」
「マイクは俺が買おう!」
俺は親指をぐっと立て、ヒッチハイクよろしく伊十峯に突き出した。
「えっ⁉ マイクだよ? いいの⁉」
「ああ。だから配信を続けてくれ!」
もうこうなったら全力サポートだ。
出血大サービス。というより、単に俺の自己満足なんだけどな。伊十峯の声、好きだし、これは投げ銭みたいなものだ。
それより、伊十峯がASMR界から去ることの方が大きな損失だ。俺が枯れる。
「だめだよ、そんなの! そんな……。私が使うマイクなのに、月村君に買ってもらうなんて……」
「いいんだよ。俺が続けてほしくて買うんだから」
「うーん……配信は確かに続けたいけど……ま、待って月村君! それなら……」
「うん? どうしたんだ?」
「うん……えっと、その……」
伊十峯はうつむき加減で一度口ごもった。
それから意を決したように、伊十峯は言い放つ。
「わ、私も一緒に買いたい!」
「え? ……一緒にって、一緒にマイク買うって事?」
「うん! マイクって結構値段するんだよ? それに、私がずっと使うのに月村君だけに出してもらうなんて悪いから。二人でお金を出し合って買ったほうがいいと思うの!」
一理あるかもしれない。
そもそも俺は、ASMR配信で使われるマイクの相場とか、大してその辺の知識もなしに提案していたから。
とんでもない金額だったらまずお手上げだ。俺達は学生で、大したお金のあてもない。高額なマイクの購入なんて絵空事でしかない。
ただそうしたら、俺のASMRライフはおしまいだ。
伊十峯のアーカイブで我慢するしかなくなる。
過去の伊十峯ボイスを聞いて、毎晩しくしく泣きながら興奮するしかない。
せめて、俺は泣かずに普通に興奮したい。
そんな俺の変態流儀に反しないためにも、ここは一つ伊十峯からちゃんと金額を聞いておくべきだと思った。
「マイクって、いくらくらいの物を考えてるんだ?」
「うーん……結構これがピンキリなんだけどね。ダミーヘッドマイクはさすがに高いから難しいけど、スタンドタイプのバイノーラルマイクなら、月村君と私でお金を出せば、そんな負担はないと思う。自作のダンボールタイプはそろそろやめたいなって思ってたし……」
ダンボールタイプっていうんだあれ。
「そ、そうなのか! ピンキリね。はぁ、それならよかった。……けど伊十峯、あんまり安いとまたすぐ壊れたりするんじゃないか?」
値段がピンキリと知って安心する。
よく考えてみればそうだよな。自作ダミーヘッドマイクが伊十峯の家に置いてあったけど、あれはきっとそれほど高くないマイクを使って繋いでいたんだろう。
「そうだね……あっ、そろそろ私の家っ」
伊十峯がはっと視線を上げる。
その先数メートルのところに、伊十峯の家が見えてきていた。
「ははっ、いつの間にかもう家だな」
しかし話の区切りの悪いところだった。
「うん……じゃあ話の続きは、……キャットークで夜にでもしよ?」
「ああ、そうするかー」
「つ、月村君……その……マイクの件、ありがと……」
「いいって本当。俺も一リスナーとして、【耳責め♡こえちゃんねる】のファンだからな」
「つっ、月村君⁉ あ、あんまり外でその名前は……!」
「ああ、ごめんごめん~! あはは!」
「……もうっ!」
俺がふざけながらチャンネル名を口にすると、伊十峯はあわわと焦っているようだった。
顔が恥ずかしさで染まっているようにも見えたけど、それは夕焼けの照り返しで赤く見えていただけかもしれない。
それから伊十峯の家に到着すると、最後に玄関の前で手を振り合って別れた。
配信のお休みを耳にした時は絶望的だった。
だけど、手を振り、別れを告げる伊十峯の表情を見て、どこかほっとしている自分がいた。特段、配信がすぐに再開されるわけじゃないんだけどな。
まるで伊十峯の感情や表情に、俺が連動しているようだった。
その後、俺は自宅への帰路についた。
夕闇に溶けだした街の帰り道は、さして感傷を訴えかけてこなかった。
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