07 空中廊下の二人

◇ ◇ ◇ ◇ ◇


「いいなぁ~月村! この席、俺と替わってくれよー」

「なんでだよ。替わるわけないだろ。あんな最前列」


 昼休みになると、降旗が俺の席のほうへやってきた。

 伊十峯はそのまま席に座り、黙々と一人で昼食をとっている。


 前の席に座っていた辻崎は、川瀬達のほうへと移動してしまい、そこは空席になっていた。降旗が辻崎のいた席に座るのは、もうなんとなく読めていた。

 そしてその予想通り、降旗は辻崎の席に座っている。


「それにしてもさー、あの前の席地獄だぜ? 居眠りはできないし、携帯もいじれないし、近くの誰かと話すのもなんか視線感じるしっ!」

「一番前だからなぁ。そりゃそうだ。うんうん」

 目をつむり、腕組みをしながら俺は答える。


「でもこれで、勉強は多少捗るじゃん?」

「ええ~、月村ぁ……。俺を勉強の谷へ突き落す気か?」

「学生の本分は勉強! それで言えばみんな谷に落ちてるだろ」

「うへぇ~……みんなドMかよー」


 力の抜けた声を出す降旗。

 そんな俺と降旗の会話を聞いていた伊十峯が、控えめにフフッと笑みをこぼす。


「……」

「そういえば伊十峯はテストとか余裕そうだよな」

「え? そんな事ないよ? 私も頑張らないと……」

 俺が話を振ると、伊十峯はナチュラルに言葉を返してくれた。


「嘘だって、それは。毎回点数良いイメージあるじゃん。小テストとかも」

「そんな事ないってば!」

「……」

「ん? どうしたんだよ降旗」

「?」


 俺と伊十峯の会話を、降旗は訝しげな表情で聞いていた。


「いやー……伊十峯、雰囲気ちょっと変わったなぁって思って」

「そうか……?」

「……」

 降旗の言葉に、伊十峯は何も言葉を返さなかった。


「あとさー、伊十峯ってなんで眼鏡かけてるの?」

「!」


 降旗は視線だけ伊十峯のほうに向け、そう問いかけていた。

 その質問に、伊十峯は目を逸らしている。


 なるほど、確かに降旗の言う通りかもしれない。ちゃんとその顔を見てみれば、決して顔の造形は悪くない。


 ぱっちりした瞳。整った鼻筋。あどけない口元。それらをまとめあげる輪郭に至るまで、伊十峯は本来優れた見た目をしているのかもしれない。

 常に下ろしている長い髪や、野暮ったさを印象付ける縁の厚い眼鏡のせいで、それらはあまりにも目立たないから。


「目……私、目が悪くって」

「いやそれはわかってるよっ。それにしても伊十峯、なんか雰囲気変わった? 前はもっと無口な感じだったのに」


「あっ、そうだ伊十峯。ちょっと話があるんだ! 悪いけどついてきてくれ」

「え? う、うんっ!」

「お、おい月村! どこ行くんだよ!」


 降旗に詳しく詮索される事を恐れた俺は、伊十峯を教室から連れ出すことにした。

 あまり質問攻めにされると、俺と伊十峯の怪しい関係性がバレてしまうかもしれない。

 それは非常にまずい!

 お互いが社会的に死んでしまう事は、なんとしても避けないと。


「悪い。また強引に連れ出したりして」

「ううん。……それにしても、月村君ここ好きだね。ふふっ」


 伊十峯は風に煽られるその髪を手で抑えていた。

 俺達は昨日と同じように空中廊下にやってきていた。

 今日は他に誰もいないようだった。いい感じに太陽が照っているのに、もったいない。

 六月下旬の空は薄い雲に覆われていたが、雨は降らなそうだった。


「わ、私も、屋外のほうがよかった……」

「そうだったのか?」

「うん。……私も月村君と二人きりのほうが……」

「え?」

 伊十峯の「二人きり」という単語に、思わずどきっとしてしまう。


「あっ! ち、ちち違うの! そういう意味じゃなくてっ! 月村君は、その、特別っていうか! そう、特別なの!」

「とっ、特別……⁉」


「あ! ちがっ、そうじゃないの! えっと、あの、えと……」


 テンパりまくる伊十峯の言動に、ついつい俺まで恥ずかしさがこみ上げてきてしまう。

 伊十峯、落ち着いて! 俺も落ち着くから!

 心の中で必死に願いつつ、俺は空を仰ぎ見た。

 伊十峯は伊十峯で、またいつかのように顔を紅潮させて足元を見ている。


「と、ところでさ」

「?」


 ひとまず話題を切り替えなければ。

 俺は伊十峯の方を見て、他の話を切り出した。


「伊十峯って、どうしてASⅯR配信なんて始めたんだ? あれ結構恥ずかしいんじゃないの?」

「……」


 その質問に、伊十峯はしばらく答えなかった。

 返事はもう返ってこないだろうなと思われる際どいタイミングになって、ようやく伊十峯は言葉を紡いだ。


「――私、ずっと一人きりだったの……。小さい頃からこの声のせいで、からかわれたりとかして……」

「伊十峯の声はすっごく綺麗だよ!」

 反射的に、俺は伊十峯の声を褒めていた。


 伊十峯自身の意識の問題だとわかっていても、俺にとっては前々から好んでいた耳馴染みのある声だ。それを卑下しないでほしいと感じた。


「あっ、ありがとう……。月村君はお姉ちゃんみたいだね、ふふっ」

「伊十峯のお姉さん?」


「うん。私、三個上のお姉ちゃんがいるの。……お姉ちゃんが教えてくれたんだよ? ASⅯRっていうものがあるって。それに、私の声が綺麗だからやってみないかって。そうやって促されて……」

「へぇ~、そうだったんだ。伊十峯のお姉さんかー」


 伊十峯の姉? どんな人なんだろう。

 妹にこんな変態チックな趣味を始めさせるのだから、相当な猛者かあるいは……。

 想像しただけで少し身震いする。


「うん……じゃなかったらやってなかったと思う。そんな自信ないもん……」


 現実の伊十峯からは考えられない趣味だしな。もう変身みたいなものだ。

 でも妹の声を見定めるそのお姉さんの慧眼さには脱帽致します。


「けど、配信じゃかなり乗り気というか、雰囲気違くない? 自信ありそうに思えたんだけど」

「そうなの! 私もやってて驚いたんだけど……最初はそんなことなかったんだよ? 恥ずかしくって、ダメダメで、うまくしゃべったりできないなーって悩んだりもしてたんだけど……」


 伊十峯はちょっとだけ眉根をひそめ、悩ましげな面持ちになった。


「コメント欄があるでしょ?」

「ああ、配信にデフォでついてる奴ね」

「そう! あそこで応援してくれたり、褒めたりしてくれる人がいて……」

「それでどんどん自信ついていったって事ね~」


 途切れた伊十峯のセリフを、俺が予想で補完する。

 その言葉にコクコクと首を縦にふる伊十峯。

 こうして昼休みに伊十峯と話していると、彼女は全然口下手なんかじゃないんだと思い知らされる。

 まぁそもそも音声配信をしている人が、口下手である事のほうが少ないのかもな。


 多少の違いはあっても、きっと相手と親しくなりさえすれば、こうしてバンバン会話する事ができるんだ。

 それは、伊十峯小声も同じ事だ。

 内気で、おしゃべりが好きじゃないと勝手に決めつけていたのは、俺や周りの人間。

 しっかり正面から接してみればなんてことはない。

 彼女は俺達と何も変わらない。


「ねぇ、月村君」

「何?」

 会話を切り返すように伊十峯が話し出す。


「昨日のASⅯR配信なんだけど。あれ、アーカイブに残してあるから、……月村君なら……いつでも視聴できるよ」

「え⁉ あれちゃんと残してくれたのか!」


 俺個人の名前も音声にのっていたし、消されるものとばかり思っていた。

 伊十峯のその優しさに、俺は思わず彼女に歩み寄り、深々とお辞儀をしようとした。

 その時だった。


「伊十峯! マジでありが――」


――ガッ。


「おわっ!」


空中廊下の床タイルにひびが入っており、俺はつまづいてしまった。


「月村君っ! 危ないッ!」

「わっ! 伊十峯!」


 ――ドサッ。


 倒れてしまいそうになった俺を、反射的に伊十峯が受け止めようとした。

 その伊十峯を避けられるわけもなく、俺は思い切り彼女の上に倒れ込んでしまった。


「痛っ……だ、大丈夫か……伊十峯?」

「うっ、うん……?」

「!」


 ぎゅっとつぶっていた目をゆっくり開いてみる。

 そして、自分がしでかしてしまったその状況に俺は息を呑んだ。


 あろうことか俺は伊十峯を完全に押し倒してしまっていた。

「わ、私は……だい、じょうぶ……」


 しかも、倒れ込んでしまった拍子に、俺は伊十峯の胸を思い切りつかんでしまっている。

 セーラー服のブラウス越し。

 伊十峯の柔らかい胸は、俺の手に納まりきらないほど大きかった。


 ――もにゅもにゅ。


「あ」

「つ、月村君っ……あ、あの、この手……」

「わっ! 悪い! 本当ごめん! 転んだ拍子で偶然……」


 俺は慌ててその場から退いた。

 お互いに顔を真っ赤にして、俺達は一旦距離を取る。

 なんだこのラッキースケベ展開は。というかこういうのって現実にあったの?


 あれは、漫画やアニメの中だけに起こる物理法則ねじ曲がっちゃった☆的なフィクションだったんじゃないのか?


 ていうか伊十峯のおっぱい、かなり大きかった。

 なんだよ今の。着やせするタイプか。

 そんな下劣な思考が働きながらも、俺は不自然にあけてしまったこの距離を少しずつ詰めていこうとした。


「ご、ごめんなさい月村君っ!」

「ひゃいっ」

 伊十峯からの不意の謝罪に、俺のへんてこな声が出る。

「私……先に戻るね」


 伊十峯の目には薄っすらと涙が浮かんでいた。そして恥ずかしげに口元に左手の甲を当てている。

 それから、伊十峯は早足で校舎の中へと戻っていってしまった。


「伊十峯……」

 走り去っていく伊十峯の背中を、引き留めるわけにもいかなかった。

 偶然とはいえ、俺が傷つけてしまった。いきなり胸揉まれたら誰だって逃げ出したくなるよな。何してんだよ俺。

 俺は、伊十峯を泣かせてしまった事への罪悪感で胸が一杯になっていた。

 なんでこんな事になるんだ……。


 俺は重たい足取りで校舎へと戻っていった。

 だが、空中廊下から校舎の入口に向かっているその時だった。


「ちょっと月村!」


「……え?」

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