04 迂闊だったな伊十峯
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
体育館で伊十峯を助けてから何日かたった頃、俺は少しだけ彼女の存在を意識するようになっていた。
それは、先日発覚したある事実がきっかけだった。
たまたまクラス名簿を確認する機会があって、何の気なしにクラスメイトの名前をさらさらーっと読んでいた。
そこで伊十峯のフルネームが「
伊十峯のフルネームを知った俺は、以前のASⅯRライブ配信を連想した。
配信者本人の本名らしきものが音声に一瞬乗ったため、俺が途中で視聴をやめたあの配信だ。
あの時呼ばれていた配信者の本名は、確かに「こごえ」だった。
それに、あの体育用具室で伊十峯から感謝された時……。
あの時の伊十峯の声は、まさしく俺がよく視聴していたASⅯR音声にとても似ていた気がする。あの場では思い出せなかったが、今ようやく点と点が繋がって線になった。
――いやいや、でもまさかな。
偶然が重なっただけだ、たぶん。その可能性だって捨てきれない。
そう自分に言い聞かせていた。そんなある日の昼休みのことだった。
「つ、月村君……!」
「伊十峯?」
俺と降旗が教室で昼食をとっていると、伊十峯が緊張しながら話しかけてきた。
珍しいこともあるんだな。
そう思っていたが、伊十峯の手に握られていた俺のハンカチを見て、なるほどと納得した。そういえば前に貸した青いハンカチ、ご返却がまだでしたね。
伊十峯は、緊張からカタカタと身体を震わせていたようだった。
「あ、もしかしてこの前の?」
「……うん」
伊十峯は俺の問いにこくりと一つ頷いて、ハンカチを差し出してきた。
「月村って伊十峯と仲良かったんだ?」
降旗は、そんな俺と伊十峯の間で視線を行き来させていた。
それからにやりと口角を吊り上げる。
こいつ……。
悪魔的な笑みを浮かべる降旗に、伊十峯は目を泳がせていたようだった。
「はぁ。なんでもいいだろ、降旗。――なぁ伊十峯、ちょっと教室出よう」
「お、おいっ、月村! なんだよ、つれねーじゃん!」
降旗を教室に残し、俺と伊十峯は空中廊下に出ていった。
鴨高の教室棟と特別棟を一文字で繋ぐ空中廊下は、俺達二学年の教室がある二階から出入りできる場所だ。
昼休みなので昼食をとっている生徒もいたけど、それほど気になる存在じゃない。
空中廊下はスペースが広いからな。ある程度人が居たところで、会話を聞かれるほどの距離には居ないから都合がいい。
俺達二人は、その空中廊下の落下防止用フェンスに背中をあずけ、話を続ける事にした。
「ごめん。降旗が変なこと言うからさ」
「ううん。あの、これ……」
俺は改めて伊十峯からハンカチを渡された。
ふと心地良い午後の風が吹いてきて、伊十峯の長い黒髪と俺のハンカチを優しくはためかせていた。
「ありがと。まぁ返してくれるのはいつでもよかったんだけど?」
「うん。……でも、ほんとは……」
伊十峯は両手の指を合わせ、伏し目がちに何かを言い掛けた。
こうして伊十峯の声を直接耳にしていると、俺の中の疑念はどんどん膨らみ強くなる。
あのASⅯR音声の配信者は、この伊十峯なんじゃないかと。
「小声」なんて名前、めったに見かける名前じゃない。
この前確認したら、配信のアーカイブは消されていたし、それだけ隠したい内容だったんだと思う。
「――「ほんとは」どうしたんだ?」
「うん……お家に、ハンカチ忘れてきちゃって。ほんとはもっと早く返すつもりだったの」
「いや大丈夫だよ。ていうか伊十峯、なんだか教室にいる時よりずっと話しやすそうだけど、どうかしたのか?」
「……」
俺の言葉に伊十峯は少しの間、口を噤んだ。
何か核心を突いてしまったのか、地雷を踏んだのか?
それから何か、自分の中で覚悟を決めたような様子で、伊十峯は口を開いた。
「ねぇ――月村君は、おかしいって思わないの?」
「おかしいって何が?」
「……わ、私の……声」
顔をちょっとだけ赤く染めている伊十峯は、絞り出すような声でそう言った。
自分の声が変わっている事に自覚があるらしい。
「別におかしいなんて思わないけどな。普通じゃね?」
「え、そ、そう……?」
俺の返した言葉に、伊十峯はなにやら拍子抜けだと言わんばかりの反応だった。
よほど自分のその「声」にコンプレックスを感じていたようだ。
「気にしなくていいと思うけど」
「ありがとうっ、月村君……」
伊十峯は、ほっと胸を撫でおろしていた。
その声は確かに伊十峯自身が言うように、少々周囲とは異なった質感の声だった。
というか、俺がよく視聴しているASⅯR音声とほぼ同じだ。あどけなさと丸みのある口調。しかし質感自体には、どこか大人びた雰囲気もちょっぴり含まれている声。
きっと伊十峯に甘さたっぷりの美声で囁いてもらえたら、俺は天にも昇ることだろう。いやまったくけしかりません。
問題は、この地味な見た目の彼女が、本当にそんな配信をやっているのか、という事だ。
この問題のいかんによっては、俺の幻想は粉々に砕け散る。いや、仮に配信をしているのだとしても、俺の例の願望は叶わないかもしれないけど……。
もし可能なら叶えてほしいな……。
「なぁ、ところで伊十峯ってさー」
「え、何?」
俺はそう会話を切り出して、カマをかけてみようと思った。
実際のところ、配信経験があるのかないのか。せめてその白黒だけでも知りたい!
ただ、いきなり「ASⅯR配信やってる?」なんて尋ねて、「うん、やってるよ~」と素直に答える女子はまずいない。ネットリテラシーには個人差もあるし、カマかけくらいで確認するのが一番ちょうどいいに違いない。
「パソコン持ってる?」
「うん、持ってるよ」
「普段使ったりとかしてるのか?」
「……結構、使ってたりするよ」
いつもは静かに過ごしていて話し慣れていないのか、伊十峯の言葉には多少のぎこちなさがあった。
しかし、会話の内容自体は割とスムーズに進んでいる。
「周辺機器とか新しく買ったりしてる?」
「え? うん。そうだね。最近ワイヤレスマウスに新調したりとか」
「へぇ。そういえばダミーヘッドマイクってどうしてる?」
「あれは値段高いから、私は自作して――えっ⁉」
かかった!
伊十峯は、それはそれは見事にカマにかかってくれた。
さすがに、ここまですんなりかかるとは思ってなかったけど。
「へぇ~、自作なんだね」
「えっ⁉ ……なんで⁉ えっ?」
「フフッ。……迂闊だったな、伊十峯」
伊十峯は口の辺りを手でおさえ、あわわと取り乱していた。
見事に口を滑らせてしまったようだ。まさに計画通り。
ダミーヘッドマイクなんて言葉は、ASⅯR絡みでなければ早々見聞きしない言葉だ。ましてや、それを所持してるだなんてな。
リスナーなら言葉自体は知っているだろうけど、所持している人はまずいないだろうし、自作勢なんて尚の事少ない。
俺が質問したあと「何それ?」と聞き返さなかった時点で、これはほぼ黒。
伊十峯小声は、ASⅯR配信をやっている。
俺の中の疑念が確信に変わった瞬間だった。
けど、俺が毎晩癒されていたあの声色の持ち主が、まさかクラスメイトだったとは……感動とか感激というより、実感が湧かない気分だった。
「ど、どうしてわかっちゃったの? 私がそういうの、やってるって……」
伊十峯は相当焦っていた。口をぱかぱかと開けて、額に脂汗をかいている。
それから俺は、彼女を疑い始めた経緯を丁寧に説明していった。
この前の配信で、配信者の本名が聞こえてきた事。
普段、学校で見掛ける伊十峯は無口なため、今までその声がどんなものかわかっていなかった事。
そして、今俺がカマをかけたダミーヘッドマイクの事。
ひと通り説明を終えると、伊十峯はなるほど、と他人事のように手をついて納得してくれた。
読書家で頭良さそうな印象だったけど、意外とアホの子だった……?
「まぁさ、そんなに慌てることな――
「月村君、お願いっ! この事は誰にも言わないでっ!」
「え?」
俺が呑気に話しだした声は、伊十峯の強い口調によってかき消された。
パシッと左右の手を合わせ、俺に参拝客のような姿勢を見せている。
「あ、ご、ごめんなさい……。わ、私、あの配信が皆にバレちゃったら、本当に学校に来られなくなっちゃう……と思う」
伊十峯は不安そうな表情をそこに浮かべていた。漏らすその言葉は力弱く、見えない何かに怯えているかのようだった。
「そんな事あるか? 大丈夫じゃね?」
「そんな事あるよっ!」
「そ、そうかな……?」
伊十峯の学校生活に想いを馳せつつも、俺はこの機会に「あのお願い」をすれば、叶えてくれるんじゃないのか? とかすかな希望を抱いていた。
「そ、そうだな! じゃあ、この事は誰にも言いふらしたりしない!」
「え! 本当?」
「ああ。もちろんっ。でも一つ、条件がある」
「条件……?」
俺の言葉に、伊十峯は小首をかしげている。
「ああ。それは……俺の名前を呼んでくれる『俺専用のASⅯR音源』を作ってくれ!」
「えっ……?」
一世一代の願い事を言葉にしたんだけど……。
やっぱりダメ?
伊十峯は困惑の色を隠しきれないようだった。
俺から目線を逸らし、手をもじもじさせている。
「月村君、――」
伊十峯さんやっぱりごめんなさい。俺調子に乗ったよね。
自分でも十分わかってる。相当気持ち悪いこと言ってるって自覚ある。
あるけどさ、ワンチャン? ワンチャンてもんがあるじゃん。
可能性感じたんだけど、やっぱり卑猥すぎて難し――
「――そんなことでいいなら良いよ?」
「え?」
「そんなことで黙っててくれるなら、良いよ……?」
「ええっ⁉」
俺の気持ち悪い提案に、なんと伊十峯が乗ってきてくれた⁉
予想外の返事過ぎて、俺は腰が抜けるかと思った。
「あ……え……えっ?」
言葉が出ない。動揺しすぎて俺の頭の中は一瞬で真っ白になってしまった。
そんな俺の様子を、伊十峯はきょとんとした顔で見ていた。
伊十峯、お前は俺の頼み事の異常さに気付いていないのか……?
いや、わかってるんだよね? わかっててその反応なんだよね?
そう何度も問いただしてやりたくなるくらい、伊十峯は無反応だった。
「だ、大丈夫っ⁉ 俺の頼み事、気持ち悪くない?」
って、俺は一体何を聞いてるんだ!
夢が叶いそうなのに!
俺は一体何をどうしたいんだ。落ち着け落ち着け。
「ちょっと変わってるって思ったけど、大丈夫だよ……?」
伊十峯はネジがぶっ飛んでるらしい。それともただの天然? やっぱりアホの子……?
けど、そんな素敵な声で俺の気持ち悪い願望に付き合ってくれるなんて。
いや、物は考えようだ。
これは、絶対誰にも言わないでほしいんだという、伊十峯の強固な保身から来ているものかもしれない。俺は俺で、伊十峯のネジが外れてるだとか、そんな無礼千万な捉え方はやめよう。
「ありがとう。変なお願いで悪いな」
「ううん。……わ、私だって変な……」
「どうしたんだ?」
伊十峯は自分の言葉を一度言おうか迷っていたようだが、それから改めて続けた。
「私だって変なの配信して、そっ、その、きき気持ち悪いことしてる……から……」
伊十峯はより一層顔を火照らせてから、がくんっと顔を下に向けた。
ぎゅっと強く目をつむり、まるで精一杯の告白でもしてるかのようだ。
そんな風に赤くなられてしまうと、俺まで羞恥心がこみ上げてくる。
一体、俺は何を頼んでんだよ。
バカかよ俺!
心の中でもう一人の自分が繰り返しそう叫んでる。が、もう伝えてしまった以上は仕方ないよね。ああバカだよ俺は!
いっその事、楽観視して深く考えないようにしよう。
それが精神衛生上一番良い。得策だ。安パイってやつだ。
「じゃ、じゃあ、どうすればいい?」
「どうって?」
ひとしきり、お互いの恥ずかしさが落ち着いたところで、伊十峯はその音声をどのように提供すればいいのか、教えてほしいようだった。
「月村君、ライブ配信サイトに、「プライベート配信」っていう機能があるの知ってる? 私はまだそれ使ったことないんだけど、その機能なら決まった相手にだけ視聴してもらう事ができるみたいで……アーカイブも残せるし。それにする?」
「その機能知ってるけど、全然使ったことないなぁ。ほら、何しろ俺はリスナー側だし。伊十峯がやりやすいならそれでもいいよ?」
「わかった! じゃあ、今日の夜にする?」
今夜はどうする? みたいなノリで尋ねられ、不覚にもどきっとした。
伊十峯自身、まだ未経験の試みだからなのか、その瞳はキラキラと輝いていてどこか楽しそうだった。
まるで新しいおもちゃを与えられた子供だ。
「お、俺は別に今日でも……いい」
「うん! じゃあ今日ね! あ、そういえば配信始める時に、月村君に連絡しないと……なんだけど……」
そこまで言うと、伊十峯はまたしてももじついた。
眼鏡越しに、軽い上目遣いで俺のほうを見ている。
朱のさした顔色や、シャイな性格が思いっきり現れているその仕草に、俺は内心かなりドキドキしていた。
「そうだなぁ……じゃ、じゃあ、連絡先交換する? キャットークでいい?」
頬をポリポリと掻きながら俺が提案すると、伊十峯はいじらしくも首を縦に振った。
キャットークは、気軽にメッセージのやり取りができるチャット形式のアプリだ。
たぶん、俺達一組のクラスメイトの中でも、特にキャットークの友達登録数が少ない女子は、伊十峯だと思う。
それくらい、彼女の人付き合いというのは、学校の中では珍しい事だった。
もちろん、学校外で何かしら他人との付き合いがあるのかもしれないけど。
それから俺達は互いの連絡先を交換した。
交換してすぐに昼休みの終了を告げるチャイムが鳴り、俺達は急いで教室へと戻っていった。
気が付くと、さっきまで空中廊下にいた他の生徒達は、誰一人いなくなっていた。
「遅かったじゃん、月村~? なんか伊十峯とあったん?」
教室に戻ると、にやけ面の降旗にいじられた。
「特に何も?」
「まぁ、そりゃそうかっ!」
降旗は、にやけ面からさらにニカッとまぶしく笑ってみせた。
本当は何もなかったわけじゃないんだけどな。
伊十峯と俺。二人の沽券に関わる話なんだよ。言えるわけがない。
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