第56話 アレス・ホーネット⑥

 ペルは祭壇に辿り着くところだった。


 広い大聖堂の後方からも説法する者の姿が見えるよう、祭壇は高い位置にある。


 ペルはやっと壇上に昇り詰め、意を決して声を張り上げる。


「みなさん、祈ってください!」


 祭壇に比較的近い避難民は気づくが、数が少ない。


 ペルはもう一度、大きく息を吸って叫ぶ。


「みなさん、女神ペルシュナに祈ってください! わたしは今、ペルシュナの力で教会が崩れるのを止めています。でも力が足りません! このままじゃ潰されるのは時間の問題です! だからどうか、ペルシュナに祈ってください! 祈りが力になるんです!」


 今度は多くの避難民が顔を上げる。その表情には戸惑いの色が濃い。


「ペルシュナ教徒が、なんでここに?」


「ペルシュナは邪神のはずだろ」


「サルーシの教会でペルシュナに祈るなんて……」


 ペルの言葉を信じる者はいない。


 こうしているうちにペルの神力は消耗していく。


 轟音と共に教会の壁に亀裂が走る。避難民がわっとざわつく。


 慌ててペルは壁に手をかざし、壁の崩壊を食い止める。


 消耗が激しいのか、表情がこわばっていく。


「お願いです! 祈ってください!」


 もはや泣き叫ぶような声だった。


 サルーシの領域で、神力を酷使するのは、ペルにとってどれだけの恐怖と苦痛を伴うことか。


 なにも知らずとも、ペルの悲痛さに動かされる者が現れる。


「どうして、そこまでする? ここはサルーシの教会で、私たちはサルーシ教徒だ。ペルシュナ教の人間がどうして……」


「あなたたちを助けたいんです! それだけなんです!」


「サルーシ教徒でも、いいと言うのか」


「いいんです! ペルシュナに祈るのは今だけでもいいですから、どうか、あなたたちを助けさせてください!」


 別の者たちが、不安そうにペルを見上げる。


「私たち、サンクニオン教会を焼いたとき、一緒にいたのよ……。あんたたちを殺そうと思ってた。それでも祈れっていうの? 祈って……いいの?」


 ペルは一瞬表情を曇らせた。その人物を、実際に現場で見た覚えがあったのかもしれない。ペルシュナ教徒への暴虐を目の当たりにしたのかもしれない。


 ペルは瞳を潤ませて、嗚咽混じりに叫ぶ。


「構いません……!」


 声を発した瞬間に涙がボロボロと溢れ落ちていく。


「それでも構いません! わたしは、ゆるします……。みんな、赦しますから!」


 祭壇に近い避難民から、ペルシュナ教の印を結んで祈りの言葉を紡ぎ始める。


 今はサルーシ教でも、そのほとんどは元はペルシュナ教だった者たちだ。誰もがペルシュナへの祈り方を知っている。


 その動きはさざ波のように伝播していく。瓦礫に挟まれた怪我人も、救助しようとする衛兵も、サルーシ教の聖職者も、例外なくペルシュナへの祈りを捧げる。


 そして崩壊をただ遅らせているだけだったペルの奇跡は、やがて落下中の瓦礫を元の場所へ押し戻していく。まるで時間を巻き戻すかのように、聖堂が復元されてく。


 それどころか怪我人の傷までが癒えていく。失われた命までは戻らない。動かないままの者も少なくない。だがそれよりずっと多くの人々が、瓦礫の下から自らの足で起き上がっていく。


 癒しの力は志郎にも降り注ぐ。政樹につけられた傷は、もうすべて完治した。


「これで、ペルちゃんはなにを教えてくれたって言うんだ?」


 志郎を睨みながら政樹は訊ねる。


「わからないか?」


「寿命を少し伸ばすだけの、茶番にしか見えなかったからな」


「おれひとりじゃどうにもできないひどい状況でも、ペルや他の誰かがいればどうにかできるってことだ」


「俺をどうにかできてないんじゃ同じことだぜ」


「そうだ。だからお前は殺す。おれが、これから」


「お前にゃ無理だよ!」


 政樹が剣を振り上げ、こちらへ踏み切った。志郎には捌けない速度。


 政樹の言う通りだ。志郎ひとりでは政樹は殺せない。


 だが志郎はひとりではない。


「志郎さん!」


 ペルの声。志郎はその意図を察する。


 政樹の剣が届く直前、強烈な浮遊感に包まれる。


 ふたりの足下にあった瓦礫が、天井の元の位置へ戻るべく浮き上がったのだ。

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