第52話 アレス・ホーネット②

 これまで政樹とは何度も訓練で剣を合わせてきた。圧倒的な実力差に、もし敵になってしまったら、と恐怖したことがある。だからこそ弱点をペルに聞いた。役に立つ日が来るとは思っていなかった。


 その弱点を突くためにも、油断はさせなければならない。


 階段を昇り切り、廊下を抜けて大聖堂へ。


 鏡子の背中を押し、ペルを抱えさせたまま出口のほうへ走らせる。


 志郎は剣とナイフを残して衛兵の装備を脱ぎ捨てる。


 政樹が追って来ているなら、そろそろ階段を昇り終える頃のはず。できるだけ早く、避難民に紛れなければ。


 ぐらり、と足下が揺れる。


 昨夜から戦いの連続でろくに休んでいない。目眩を起こしても不思議ではないが――違う。


 揺れているのは地面だ。


 日本人として地震に慣れている志郎や鏡子は、足を止めて冷静に状況を観察できる。避難民はそうはいかない。このアンドニアでは地震など滅多に起きない。志郎も転生してから地震を経験するのは初めてだ。


 たちまち避難民が恐慌に陥る。人に紛れるには好機だが、タイミングが良すぎる。この揺れ方にも違和感がある。


 十秒も経たないうちに、大聖堂の床に亀裂が走る。


 まずい! 避難を――!


 志郎が叫ぶより早く、轟音と共に床が崩落した。


 大聖堂の中心部から広がる、部屋の六割程度の大きさの穴だ。楕円状で、外周の一部は教会の外にまで及んでいる。壁の作りが頑丈なためか、建物が崩れる様子はない。今のところは。


 ペルや鏡子は無事だったようだが、床と一緒に落下し、瓦礫に巻き込まれた避難民は多い。一刻も早く救助しなければならない。


 志郎は手近な衛兵や聖職者に呼びかけ、救助と避難誘導をおこなうよう要請する。そして自分も救助のために、眼下の瓦礫の山へ足を踏み入れようとする。


 そこで志郎は見た。散歩するような足取りで、瓦礫の山を登ってくる男を。


「政樹……お前がやったのか」


 政樹は剣を一振り、片手で持ってぶらぶらさせている。


 おそらくはあの剣だけで、地下から床を支えていた柱をすべて斬り倒したのだ。


 にわかには信じ難いが『戦場の覇者』は、これほどの所業も可能とするのだろう。


「逃げも隠れもさせねえよ、志郎」


 志郎は政樹を睨みつける。その視界の端々に、瓦礫に埋もれた人や落下の衝撃で身動き取れなくなった人の姿がある。


 お構いなしに、政樹は突っ込んでくる。


 弾丸のような疾走からの縦一文字斬り。志郎は左半身を反らして致命傷を回避。続く横薙ぎを剣で受け止める。


 ぽたり、と浅く斬られた胸から血が滴る。ぶわり、と冷や汗が出る。


 ほとんど直感で体を動かした結果だった。一瞬でも迷っていたら切り捨てられていただろう。


 鍔迫り合いの状態で、政樹は不敵に笑む。


「へえ、腕を上げたな。今のをしのぐかよ」


「お前の動きは、何度も見てきた」


「だよなぁ。じゃ、ギアを上げるぜ」


「よせ、周りを見ろ! 怪我人がいる! 巻き込むな!」


 政樹は剣を押し込んでくる。志郎の力では支えきれず、後ずさるしかない。


「おいおいおい、俺はアレスで死ぬべき大悪党なんだろう? それがどうして怪我人を助けると思う? 周りを気にしてたら、大穴なんざ空けないぜ?」


「目の前に苦しんでる人がいれば、助けるのが人情じゃなかったのか」


「親友に裏切られて命狙われりゃ、人情なんて言ってらんねえよ!」


 政樹の叫びと共に、志郎は体ごと後ろに弾かれる。瓦礫に足を取られ、バランスが崩れた。


 決定的な隙。


 だが政樹は、他のなにかに気を取られたらしく追撃をしてこなかった。


 志郎はすぐ体勢を立て直す。政樹がなにに関心を持ったのか気づく。


「……アレス? アレスと言ったか、あの少年」


「司教様と話をしているのを何度か見かけたが、まさか彼がアレス様なのか……?」


 近くの避難民が、政樹を見ながら小声で話していた。


「やれやれ、聞かれちまったかぁ、めんどくせぇ~」


 だるそうな言葉とは裏腹の素早さで、政樹は小声で話す避難民の元へ駆ける。


 予想外の動きに、志郎は反応が一瞬遅れた。


「やめろ!」


 制止の声は聞き入れられず、政樹の剣は避難民の首を刎ねていた。

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