第23話 ぼくのことなど顧みやすまい
第23話 ぼくのことなど顧みやすまい①
二月に入り暦の上では春になったが、まだまだ寒さが厳しい。
月末には期末テストが待ち構えている。
提出指示があったプリントの束も、まだ半分程度しか終わってない。日々少しずつ進めてはいるのだが、如何せん教科書とにらめっこをしながらなので進捗状況は芳しくない。
どうにかしないとなと『魔法史学』のマシュー・スプライトの話を右から左へ聞き流しながら、アリスは窓の外を窺い見た。
朝方まで雪が降っていたのだが、現在は晴れ間が覗き、この分だと積もった雪は溶けてしまうだろう。
「――余談ですが、テラスト魔法学校が創立されたのは約九百年前になります。今では想像もできないでしょうが、その頃はまだ魔力を持つ人というのは少なく、中には迫害を受けていた方もいました。しかし当時の元首アンジェロ・シュネイデス氏が魔力を持つ方で、そのような差別に胸を痛め、魔力を持つ子供達が安心して暮らせるような場所を作ろうと、ここテラストを創立しました」
「彼の慧眼は確かで、時代の流れと共に魔力を持つ者は増えていきました。今では皆さんも知っての通り、魔力を持たない人の方が少ないですね」
マシューが話を締め括るのと、授業終了の鐘が鳴ったのは同時だった。
日直の起立の号令にアリスは立ち上がると、礼と共に大きな欠伸を一つ溢した。
授業から解放されると、数人の生徒が我先に購買部へ走る。昼時は多くの生徒でごった返すため、人気のパン等は売り切れることもあるのだ。
生徒達にとっては一種の戦争なのである。
「こらこら、廊下を走っては駄目ですよ~」
のほほんとした優しい声でマシューが窘めるものの、彼等にとっては馬の耳に念仏だろう。
マシューは「ありゃりゃ。あれは全く聞いてませんねぇ」と苦笑し、毛量のある癖毛の青い髪をガリガリと掻いた。
「では消しますよ~。良いですか~?」
マシューは律儀に声を掛けると、黒板を消し始める。
白いチョークの粉が彼の青い髪と着ているカーディガンにパラパラと落ちているのだが、本人は気付いていないのか涼しい顔をしている。
するとマシューが急に黒板消しを置き、眼鏡の弦に手を伸ばした。
彼は黒縁眼鏡を外すと、チョークの粉が付着した分厚いレンズ部分にふっと息を吹き掛ける。
粉が落ちたのを念入りに確認すると、彼は満足そうに二、三度頷いて眼鏡を掛け直した。
アリスが「汚れているのは、そこだけじゃないんだけどな」と思っていると、その肩を軽く叩かれる。
「購買に行く? 食堂にする?」
レイチェルとミリセントが、財布を片手に立っていた。
アリスは少し悩んだ末、食堂を提案する。
「今日は確かパスタだったよぉ。朝、温室に寄った時に偶々献立を見たんだぁ」
「味は?」
「ソースは何種類か選べたと思うけどなぁ」
「もしあるなら、私カルボナーラが食べたいかも」
三人はパスタソースを何にするかで盛り上がりつつ、教室を出る。
昼時故に人の往来の多い廊下に出ると、騒がしいのは変わらないものの、いつもの昼休みの雰囲気とはどこか違っていた。
アリスの視線の先で、固まって話していた男子生徒のグループが素早く壁際に避けた。
そこを肩を怒らせながら、ずんずんと大股で突き進む人物がいる。
――アメジスト寮初等部一年生、ユリーシャ・レイン。
初等部指定の明るい紺のブレザーを着用する幼い少女は、高等部ではかなり目立つ。
自身より遥かに年上の生徒達からの、好奇に満ちた視線などまるで無視して、ユリーシャはきょろきょろと忙しなく辺りを見回している。
誰かを探しているような素振りだ。
正面を向いたユリーシャとアリスの目が、ばっちりと合った。
ユリーシャはアリスの姿を認めると、真っ直ぐにこちらに向かって来る。
脇目も振らず歩く少女に、高等部の生徒の方が道を譲っていた。
「――アナタが、アリス・ウィンティーラね」
目の前で立ち止まったユリーシャが、ふんぞり返るようにアリスを見上げた。
この初等部の少女はかなり小柄だ。何だか孤児院のティファを相手にしているような気分になり、アリスは無意識に中腰になった。
ティファとユリーシャは同い年だ。尚更、放って置けない気持ちになる。
「そうだよ、私に何か用事かな。えっと――」
視線をユリーシャに合わせた瞬間、間髪入れずにパチン、と廊下に甲高い音が響く。
「……あっ、アリスちゃん大丈夫!?」
「アンタ、一体どういうつもり!?」
慌てふためく友人達の声に、アリスはそこでようやく、ユリーシャに右頬を叩かれたのだと理解した。
遅れて、ピリピリとした痛みと熱を感じる。
「私はアナタを許さない……!」
ユリーシャの小さな身体から、炎のように魔力が沸き上がる。彼女の怒りに呼応して、光がバチバチと火花を散らした。
――光属性の魔法だ。同じ光属性であるアリスには、それが何か直ぐに分かった。
「わっ、『我が身を守れ』!!」
咄嗟に放った詠唱はユリーシャの魔法が届く寸前に効果を成し、アリスの身を守る。
雷の如きスピードで放たれたそれは、アリスの防御魔法に小さな穴を穿った。
担任エドワード・フォン・アレスの『実戦における魔法対抗学』のお陰だろう。突発的な攻撃に、少しは反応できるようになってきた。……穏便に済むのが一番ではあるのだが。
しかしこれが火に油を注いでしまい、ユリーシャの周りで更に激しく電撃が爆ぜた。
否、正確には電撃ではなく光なのだ。
ユリーシャの魔力が不安定であるため、こうも荒ぶったものになっているだけで。
更に言うならば、彼女はまだ魔法という魔法を使ってはいない。これは、抑えられない余分な魔力の塊だ。アリスの額を冷や汗が伝った。
ユリーシャはアリスよりも年下とはいえ、アメジスト寮に籍を置く者だ。
そのような相手に対してアリスのちっぽけな魔力など、どちらに軍配が上がるかは当然目に見えている。
アリスの防御魔法は運良く成功したが、しかし次もそうとは限らない。
背後で、レイチェルとミリセントが身構える気配を感じる。
ユリーシャの瞳が二人を苛烈に睨み付けると、彼女の魔力の放出が増大した。
レイチェルよりも落ち着いた桃色、チェリーピンクの髪がぶわりと逆立つ。それがユリーシャの怒りを表しているようで、アリスは怖じ気付いた。
「次は当てる……!」
ユリーシャの宣言通り、彼女の魔法が電光石火でアリスを襲う。
詠唱をしようと口を開くが、敵意に晒され慣れていないアリスには荷が重かった。薄く開かれた唇からは掠れた声しか出ず、詠唱は音にすらならない。
前に出たレイチェルとミリセントが防御魔法を発動し、魔力の異なる魔法陣が二重に展開される。
「――『隔てろ』!!」
刹那、少年の声が高らかに響く。
そしてユリーシャの雷が届くより先に、アリス達三人を守るように土壁が出現した。
厚い土壁は、ユリーシャの雷を受けても物ともしない。
「何をしてるんだ、ユリーシャ!! 授業が終わってどこに行くのかと思ったら……!」
ユリーシャの背後から現れたのは、肩で息をするアノス・キルスト――彼女と同じくアメジスト寮所属で、中等部三年生の男子生徒である。
気弱そうな彼でもこんな大声を出せるのだと、アリスは変な所に関心してしまう。
「止めないでよ、アノス先輩! 先輩は悔しくないの!?」
「それとこれは話が別だ! あの人達に当たるのは、ただの八つ当たりじゃないか!」
アメジスト寮の年少二人が言い争うが、アリス達には全く話が読めない。
それよりもこの乱闘が始まった際、数人の生徒がどこかへ走り去って行くのを目撃しているので、教師がこの場に来たら不味いのではないかと焦る。
何せ廊下はアノスの土属性の魔法で隆起して土塗れだし、ユリーシャの光属性の魔法は壁や天井に少なくはない焦げ付きを残していた。
ひしひしと感じる嫌な予感に、アリスは出会い頭に攻撃されたのも忘れて、未だ言い争うユリーシャとアノスに声を掛けた。
「ね、ねぇ、二人共。今はそれよりも、こっちをどうにかした方が……」
廊下や壁の惨状を指し示すアリスを、氷のように冷たい声が遮った。
「――ここで、アメジスト寮の生徒が何をしている」
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