第17話 人事不省だった僕は彼女に膝枕で寝かされていた(僕 高校3年生)想いのままに・男子編
「アハハハハ。ねぇ、大丈夫(だいじょうぶ)?」
(酷(ひど)い! なんて奴(やつ)だ。死ぬかと思ったのに……)
浜へ急(いそ)ぎながら、『大丈夫な訳(わけ)ないだろう』と叫(さけ)んだが、擦(かす)れて声にならない。
やっと浜辺に着いたとたん、急(きゅう)に力が抜(ぬ)けてガクンと膝(ひざ)を付くと、涎(よだれ)がダラダラ出て来て、猛烈(もうれつ)な吐(は)き気(け)に襲(おそ)われた。
這(は)いつくばって急(いそ)いで砂浜に穴を掘(ほ)り、底から海水が湧(わ)き出す其(そ)の穴へ、一気(いっき)に吐(は)き戻(もど)した。
「グハッ、ガハッガハッ」
バシャバシャと、薄(うす)いコーヒー色の海水を吐き出す。
塩辛(しおから)さと潮(うしお)の香(かお)り、それに、コーヒーとサイダーの甘味(あまみ)と臭(にお)い、そして、胃液(いえき)の苦(にが)い酸味(さんみ)を加えて、胃と横隔膜(おうかくまく)と食道が壊(こわ)れたポンプのように、不規則(ふきそく)に勢(いきお)いを付けて、次々と逆流(ぎゃくりゅう)させて来る。
「ゲッ、ゲホーッ、きっ、気持ち悪(わる)!」
何も、食べずに来た。
寄り道もせずに、家から真っ直(まっす)ぐ、此処(ここ)へ来た。
胃に入っていたのは、穴水町(あなみずまち)で飲んだサイダーと、さっき買った缶(かん)コーヒーだけだ。……と、ガブ飲みした潮水(しおみず)だ。
口だけじゃなく、鼻(はな)からも押し出される。
ますます、鼻や咽喉(のど)がヒリヒリとして、痺(しび)れるように痛いが、それ以上に、食道がヒリヒリからザクザクと刺(さ)すように痛くなった。
もがいて少しでも楽になりたいが、痙攣(けいれん)したように押し寄せる吐き気で動けない。
鼻と咽喉の痛さで、鼻水と涎が垂(た)れ流しだ。そして、涙(なみだ)も出て来た。
鼻も、口も、鼻水と涎に混じって吐瀉物(としゃぶつ)が出て来る一方(いっぽう)通行で、空気を吸い込んで肺に送る逆走(ぎゃくそう)の切り替(か)えが出来ない。
首筋や米神(こめかみ)の血管が太(ふと)く浮(う)き出て、今にも弾(はじ)けそうだ。
(あっ、やばっ!)
キーンとした耳鳴(みみな)りといっしょに、ブラックアウトが来た。
意識(いしき)を失(うしな)う寸前に吐き気が治(おさ)まって来て、なんとか息を吐くことができて、漸(ようや)く一息(ひといき)吐(つ)く事ができたが、頭を穴の底に着(つ)けて額(ひたい)まで自分の吐瀉物塗(まみ)れだ。
失神(しっしん)して吐瀉物だらけの穴の海水に潜(もぐ)っていたら、危(あぶ)なく溺(おぼ)れるところだった。
気を取り直して僕は、穴を埋(う)め戻(もど)してから転(ころ)がって渚まで行き、寄せる波と砂で頭と顔を洗(あら)い流して、海水で口を漱(すす)ぐと、また、砂浜に突(つ)っ伏(ぷ)す。
今の嘔吐(おうと)で、いっぺんに体力を失ってしまった。
(うう、無事(ぶじ)に、家に帰れるかな?)
ゼーゼーと、肩で息をしながら思う。
乾(かわ)いた砂から、太陽の匂(にお)いがする。
「あっ、あうっ! うぷっ、ぺっ」
突然(とつぜん)、眼の前に彼女が勢(いきお)い良く座(すわ)った。
跳(は)ね跳(と)んだ砂が、僕の顔に被(かぶ)って来る。
涙目(なみだめ)の視野(しや)にクローズアップで彼女の膝頭(ひざがしら)が迫(せま)り、更(さら)に小麦色(こむぎいろ)に焼けた太(ふと)腿(もも)と、その奥に水色(みずいろ)の下着の股間(こかん)も…… 見えた。
(おおっ!)
でも、それは下着じゃなくて水着で、生地(きじ)は透(す)けてはいない。
もっと良く見ようと目を凝(こ)らしてみるけれど、乾(かわ)き残る海水の成分と附着(ふちゃく)した石英(せきえい)の多い白砂(はくさ)の粒(つぶ)の一(ひと)つ、一つが、輝(かがや)くように陽射(ひざし)しを反射して、その眩(まぶ)しさに僕はクラクラしてしまう。
(ああっ、生きていて良かったぁ!)
次の瞬間(しゅんかん)、彼女の手が僕の胸の下に入り、僕は仰向(あおむ)けに引(ひ)っ繰(く)り返された。
蒼(あお)い空が眩しい!
傾(かたむ)きかけていても、まだまだ太陽は高い。
サンサンと降(ふ)り注(そそ)ぐ夏の午後の陽光(ようこう)と、水面(みなも)を渡って来る熱気が、脱水(だっすい)と空腹で疲(つか)れた身体(からだ)から色欲(しきよく)も蒸発(じょうはつ)させて眠気を誘(さそ)う。
(怠(だる)い……)
この暑さ…… 流石(さすが)に直射日光に晒(さら)されっぱなしは耐(た)えられない。
(日陰(ひかげ)が欲(ほ)しい……。そうだ、こんな所にいたら、彼女が日焼(ひや)けしてしまう。二人(ふたり)して熱中症(ねっちゅうしょう)になるかも知れない)
そう思って見上げた彼女は、鍔(つば)の広い大きな白い帽子(ぼうし)を被っていた。
眩しい真夏の青空を背景にして陰(かげ)る彼女の顔に、いつもの薄く施(ほどこ)した化粧(けしょう)と艶(つや)やかなピンクの唇(くちびる)が見て取れる。
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毎朝(まいあさ)のバスの中で見ていた肌(はだ)の荒(あ)れを抑(おさ)えたファンデーションに大人(おとな)しいルージュを置いただけの薄化粧(うすげしょう)の顔を、水中でも正面からマジマジと見れて、殺(ころ)されそうになっていても僕は嬉(うれ)しかった。
潜(もぐ)っても落ちない化粧に日焼け止めのオイルを塗(ぬ)ったセクシーな肌、 ケラケラ笑う楽しそうな彼女が可愛(かわい)くて堪(たま)らなく愛(いと)おしい。
形振(なりふり)り構(かま)わずに全速で逃げて来たのに、運命は修正しようとしているのか、彼女に追い掛けさせて、強制的に僕の『今日(きょう)の今し方(がた)』をリセットさせている!
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「食べて、冷たくて甘(あま)いよ」
鼻水が溢(あふ)れ出て、絶(た)え絶(だ)えに大きく息をしている砂だらけの僕の唇に、ビショビショの冷たくて堅(かた)い物が押し込まれた。
行き成りな事に咄嗟(とっさ)に体を起こし、顔に突き刺(さ)すように口の中へ入れられた物を見ると、それは白いアイスキャンディだった。
酸素不足の人事不省(じんじふせい)の危篤(きとく)のような状態からの生還(せいかん)で脱力(だつりょく)して疲弊(ひへい)した身体に、冷たくて甘いアイスキャンディが気持良い。
冷たさは強い陽差しの熱気で焼けて火照(ほて)る身体を冷(さ)まし、甘さは停滞(ていたい)していた思考を呼(よ)び覚(さ)ましてくれた。
(ふっ、準備がいいな。アイスキャンディに帽子だもんな。……ん、ノーヘルで来たのか?)
全(まった)く、彼女のする事は予測(よそく)がつかない。
冷たくて歯に沁(し)みるけれど、アイスキャンディの甘さと冷たさが、痛みとムカつきと焦りも抑えて、落ち着かせてくれている。
真横で彼女も、アイスキャンディを紅(べに)を指(さ)した唇に咥(くわ)えている。
帽子の庇(ひさし)がコンコンと僕の頭に当たり、向きを変えた彼女に肩(かた)が触れた。
少し凭(もた)れて来るように彼女の体が触れて、救急車の中と県立美術館裏の小径(こみち)での出来事(できごと)を思い出してしまう。
今も、大接近での大接触だ!
夏の陽に焼けた彼女の肌が、冷えた僕の皮膚に温(あたた)かさを感じさせてくれた。
素肌が触れ合う現実が、信じられない驚きだけど、キレキレダンスを踊(おど)りたいくらい凄く嬉しい。
恐(おそ)る恐る彼女を見るけれど、気が付かないのか、ワザとなのだか、わからない。
遠くの海を見ながら、彼女はアイスキャンディを頬張(ほおば)っていた。
(いつもと違う! ……らしくない⁈)
今日の彼女には、違(い)和(わ)感(かん)が有った。
僕が殺される寸前(すんぜん)になるくらいの凶暴(きょうぼう)さだったのに、今の彼女からは優(やさ)しさと弱(よわ)さを感じる。
(でも、今、気付くべき事は、其処(そこ)じゃない)
アイスキャンディを持つ彼女の手の爪(つめ)は伸ばされて、精緻(せいち)で綺麗な3Dネイルアートがされていた。
僕を引っ繰り返した時に砂で擦(す)れたのか、少し筋傷(すじきず)が付いている。
ネイルアートも、薄化粧の顔も、とても素敵(すてき)だった。
(これは、彼女のセンスなんだ)
僕は感心して、見惚(みと)れていた。
「アッハハハ、そんなに、見詰めないでよ。恥(は)ずかしいじゃない」
じっと、爪を見られたのが照(て)れ臭さかったのか、ワザとらしく笑いながら彼女は言う。
真っ白(まっしろ)いワンピースと水色の水着に、その、トロピカルなネイルアートのデザインと彩色(さいしょく)は、コーディネートされているように思え、それが彼女にとても似合(にあ)っていた。
気になって、彼女の足の指を見る。
やっぱり、足の爪(つめ)にもペディキュアをしていて、添加(てんか)されたラメの効果なのだろうか、指が向きを変える度(たび)に、赤っぽいピンクや真珠(しんじゅ)のような白さに変化してキラキラと輝いた。
「素敵だ。とても、似合っているよ。足の指のもいい……」
やっと鼻の通りが良くなって来たけれど、まだ鼻に掛かる声だ。。
確かにネイルアートは素敵だったが、それ以上に彼女自身へ向けて言った。
「すごく……きっ、綺麗だ……」
急に鼻の通りが良くなって、甲高(かんだか)いハスキーな変な声になったが、何だか力が抜けて尻(しり)すぼみに途切(とぎ)れてしまう。
「いい……ね……ぇ……」
上機嫌(じょうきげん)な彼女と話せて安心したからなのか、アイスキャンディを銜えたままの睡魔(すいま)が襲(おそ)って来る。
このまま眠ってしまったら、熱中症になってしまうと思いつつも、意識が遠(とお)のいて行く。
僕の脳味噌(のうみそ)が、蕩(とろ)けてしまいそうだ。
(もしかして、僕は、とんでもない女の子を、好きになってしまったんではないだろうか?)
傍(そば)に大好きな彼女がいてくれる満ち足りた幸せの中、銜えたアイスキャンディのように、意識が融(と)けて薄れていく。
「あら、何してんのよ! 落としたわよ……⁉」
遠くから彼女の声が囁(ささや)くように聞こえて、自然と瞼(まぶた)が閉じてしまう。
全身から力が抜けて行き
(うう……、ねっ、眠いぃ……。ダ、ダメだ、寝てしまうぅ……)
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ホワイトダックスは、ナゴナゴと猫(ねこ)が摺(す)り寄る鳴(な)き声のようなサウンドで、鬱蒼(うっそう)と木々が生(お)い茂(しげ)る森の中を走っているけれど、見えている限り、何処(どこ)までも真っ直(まっす)ぐな一本道(いっぽんみち)は、木漏(きも)れ陽だらけで明るい。
「いいよ。何処へでも。あなたといっしょなら、何処でもかまわないよ」
その言葉に、僕は手を、僕の腰に回(まわ)された彼女の手に添(そ)えた。
添えた僕の手に、彼女は指を絡(から)め直して手を繋(つな)ぎ、彼女が汗ばんだ僕の背中への顔を着(つ)けて来るのを感じた。
彼女の囁(ささや)くような声が聞こえる。
「ねぇ。いつまでも、私の傍にいてくれる?」
僕達は、ヘルメットも被(かぶ)らずに、ゆっくりと、二人乗りしたホワイトダックスを走らせる。
彼女の問(と)いに、僕は振り返り答える。
「ああ、僕は、君のものだ」
サイドミラーに彼女の髪が、恥じらうように風に戦(そよ)ぐのが映(うつ)っている。
「……うん。知ってる……」
森の出口が見えてきた。
森の向こうは、夏色(なついろ)に満たされて眩しく光っている。
僕達を乗せたホワイトダックスは、森を抜(ぬ)けて、夏色に犇(ひし)めく陽射しの中にゆっくりと入って行く。
夏の眩しく光る暑さに僕達は包(つつ)まれて、思わず翳(かざ)す手がシンクロしてしまう。
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視界一杯に、光の世界だ。
眼(め)を落すと、光りの白さが途切(とぎ)れた暗(くら)がりの奥に、淡(あわ)い青色(あおいろ)が暈(ぼ)やけて見える。
ぼんやりする頭と気怠(きだる)さで、此処が何処なのか、何をしていたのか、状況と状態が理解出来ない。
いつの間にか、僕は眠っていて、彼女とデートしている夢を見ていたようだ。
夢見心地(ゆめみここち)が良い、妙(みょう)にリアルな夢で、繋いだ手や触れ合った肩や背に、彼女の感触(かんしょく)や温(ぬく)もりが残っている。
徐々(じょじょ)に意識が覚醒(かくせい)して来た。
薄い青色は、水色の布(ぬの)だ。
それは、見覚(みおぼ)えの有る縫(ぬ)い目が入った水色の布だった。
(はあぁぁぁ、ええーっ、ぼぼっ、ぼっ、僕は、彼女の太腿に抱(だ)きついているぅ?!)
「目が、覚めたぁ?」
その声に見上げると、彼女が優しい顔で覗(のぞ)くように僕を見ていた。
一気に、眼が覚めた。
「わわわっ、ごめん」
僕の両手は、彼女の腰に回っている。
自分のしていることに驚いて、慌てて転(ころ)がり起(お)きた。
両手を合わせて頭を下げ、真摯(しんし)に謝(あやま)るけれど、謝りが足くて彼女が機嫌(きげん)を損(そこ)ねたら、砂に顔を埋(う)めるくらいの土下座(どげざ)をする低姿勢で許(ゆる)しを請(こ)うしかない!
兎に角(とにかく)、機嫌の好い彼女には薄氷(はくひょう)を踏む思いで接しないと、忽(たちま)ち冷たい水の中に嵌(はま)り込んでしまうだろう。
全くのビクビク物で、こんな不信任(ふしんにん)のような疑(うたが)う気持ちが消(き)えて、心晴(こころは)れやかに御付(おつ)き合いできる日が早く訪(おとず)れる事を願(ねが)って、僕は努力(どりょく)しているのだけれど、それが、なかなか上手(うま)くいかない。
彼女は砂浜にぺたんと座り、膝枕(ひざまくら)をして寝させた僕を、その鍔の広い帽子で作った日陰(ひかげ)に入れてくれていたんだ。
「元気に、なったぁ?」
彼女の太腿に有る何かが、キラリと陽光を反射したのに気付いて視線を送ると、そこにはべったりと水のようなモノが附着(ふちゃく)して濡(ぬ)らしていた。
(はっ! そこは、僕が顔を置いていた処(ところ)だ! そして……、それは、僕が垂(た)らした涎なんだ!)
「あっ、ごっ、ごめん。汚(よご)してしまったぁ」
白いワンピースが捲(めく)れ上がって、彼女の太腿が晒(さら)け出ている。
(おおっ、なんか、すっげぇー! めっちゃセクシーだぞ!)
その太腿の捲(まく)れ上(あ)がったワンピースの裾(すそ)近くが、僕の涎で濡れていた。
(直接……、太腿の素肌(すはだ)に膝枕をしてくれていたのだろうか? ……それとも、僕の寝返(ねがえ)りが、ワンピースを捲くり上げてしまったのだろうか?)
「気にしないよ。ごめんね、沈(しず)めちゃって。このまま意識が戻らなかったら、どうしようかと思っていたの。気が付いて、ああっ、本当に良かったわ!」
乾いた砂で太腿の涎を拭(ふ)き取りながら、彼女が申(もう)し訳(わけ)なさそうに言った。
(それって……、後先(あとさき)を……、僕が戻って来られないかもなんて、全く考え無しに、僕を海の底へ沈めたってことぉ~? ええーっ、なんて恐(おそ)ろしい彼女だ……。これから先、カレカノの仲(なか)になっても、どんな切っ掛けや拍子(ひょうし)に、包丁(ほうちょう)で刺されたり、首を絞(し)められたりするかも知れないなぁ~)
「もう大丈夫だ。あれくらいじゃ、僕は、どうもならないさ」
盆過(ぼんす)ぎに合わせて、彼岸(ひがん)に行きそうになるくらいにパニックっていたのに……、僕は、余裕(よゆう)が有る振りをしてを嘯(うそぶ)く。
僕は沈められたことに拘(こだわ)り、彼女を責(せ)め立てるようなチンケな奴じゃない。それに、もう、過ぎたことだし、胃液までゲロって、グチャグチャになったまま目眩がして、ゲロ穴に突っ伏したスッゲー汚なくて、恥ずかしい顔を見られてしまってもいる。
(ゲロゲロで渚でのたうち回る ……見っとも無い姿や、気絶(きぜつ)した姿も、見られてしまったな。……参(まい)った、いろいろと、凄く格好悪いぞ!)
今は新(あら)たな要素の格好(かっこう)悪(わる)さと、頬(ほお)に残っている張りの有る硬(かた)い弾力(だんりょく)の感触が加わってクラクラしている。
(だって、彼女の太腿だぞう。ああ、そんなぁ、しまったぁ)
彼女の膝枕の知覚(ちかく)された記憶が無いのは、凄く残念で、後悔(こうかい)で、甚(はなは)だ恨(うら)めしい。
どうゆう心境(しんきょう)で膝枕をしてくれたのか、分からないけれど、初めてされた彼女の膝枕!
お袋(ふくろ)や妹(いもうと)がしてくれる耳掃除(みみそうじ)の時の膝枕じゃない、憧(あこが)れていた彼女の膝枕!
彼女の信じられないサプライズに僕は、涎を拭(ぬぐ)った砂が付いた彼女の太腿を見詰めながら、陽射しと暑い大気と火照る身体の熱で、もう、僕の意識と気力は、ドロドロに蕩けて行く。
(もう一度、頭を乗せても……、其処へ倒(たお)れ込んでも…… いいですか?)
「ねぇ…… 座ってよ。何か、話ししょ!」
僕の海パンの裾(すそ)を引っぱりながら、俯き加減(かげん)の反則(はんそく)ポーズで言う。
あの彼女が、僕の話しを、僕の声を、聞かせてとせがむ。
逃げた僕を追い掛けて来て、無理矢理(むりやり)、僕を海底へ押し沈め、アイスキャンディを銜えさせ、気絶している僕を膝枕で寝かしていた。
そして今、とても親(した)しげに横に座れと言う。
今日は、驚きっぱなしだ。
これも全て、彼女の計画的なサプライズなのだろうか?
今日の彼女は、僕が今まで知り得た彼女と違い過ぎる……?
(明(あき)らかに違う……? でも、どうして?)
彼女は不思議なほど素直(すなお)で、ストレートで、しかもウエットだ。
(何が、彼女を、こんなに違わせているのだろう?)
この御里(おさと)の景色や空気などの環境(かんきょう)が、彼女を優しく開放的にさせているのだろうか?
(そう言えば、小学校高学年以前の彼女を、僕は見た覚えは無いし、知らない)
彼女は、此処で生まれ育ったのだろう。
彼女の原風景(げんふうけい)は此処に在って、此処は彼女にとって故郷(ふるさと)なのだ。
故郷とは、こんなにも彼女を和(なご)ませて、心を解(と)き放(はな)す場所なのだろうか?
僕も、いつかは金沢市を離れ、遠くに住んで生活を営(いとな)み、そして、いつの日か、金沢に戻れば、彼女のように心が癒(いや)されるのだろうか?
(話しをしてか……、さて、何を話そう……)
僕は大胆(だいたん)に彼女の真横に、肩が触れんばかりの近さに並(なら)んで座ってみた。
「さっき、不思議な体験(たいけん)をしたよ。でも、錯覚(さっかく)かもしれない」
彼女が期待する話しとは違うだろうけれど、掴(つか)みはリアルな超常現象(ちょうじょうげんしょう)にする。
触れそうな距離で座った僕を避ける素振(そぶ)りも見せずに、黙(だま)って彼女は僕の話を聞いてくれているみたいだ。
「森の中が真っ暗(まっくら)で、道の先が見えないんだ。明千寺(みょうせんじ)の集落へ向かっているはずなのに、何も見えなくて、何処(どこ)を走っているのか、さっぱり分からないんだ」
僕は、明千寺へ着く直前で体験した、森の道での奇妙(きみょう)な感覚を話した。
「……森ねぇ、そんな、深い森なんて在ったかな? この辺(へん)の山の木々は、杉(すぎ)じゃなくて、翌檜(あすなろ)が多いけどね。能登じゃ、アテの木って言うんだよ。一般的には翌檜よりも、ヒバって呼ばれているみたい。でも、ちょっと違う木なの」
彼女は別段(べつだん)、関心を示(しめ)さずに森の木の呼(よ)び名を言った。
たぶん、暑さによる僕の錯覚と思っているのだろう。
「超常現象が起こる場所かも知れない。いや、きっと何かいる。そんな気がしたよ」
あれは、僕の気持ちの焦りと不安と思い込みが、作り出した白昼夢(はくちゅうむ)だったのかも知れない。
意識はしていなかったけれど、体力と精神は限界(げんかい)に近く、疲れ果てて空腹(くうふく)だった。
それに心は舞い上がっていた。
「ふう~ん、超常現象が起きそうな場所かぁ……。そうね。あそこには何か棲(す)んでいるのよ」
身を寄せて肩を僕に凭れさせた彼女が、日常的に良く知っている当たり前の、『何か』のように、さらりと言う。
野良犬(のらいぬ)のような凶暴(きょうぼう)さではなく、野良猫(のらねこ)みたいな人懐(ひとなつ)っこさを感じさせないイントネーションで、彼女は『何か』を発音して、別に驚きもしていない。
彼女に触れられて、僕の全身がビクッと萎縮(いしゅく)する後退(あとずさ)りの痙攣をした。
以前、高校への進学相談した時に、お袋は言っていた。
分岐(ぶんき)する世界へ繋がる、多次元(たじげん)宇宙(うちゅう)の平行世界(へいこうせかい)。
全ての平行世界に必(かなら)ずしも、僕が居(い)るわけじゃない。
お袋が、僕の存在する平行世界は、きっと、とても少ない希少(きしょう)な世界だろうと言って、フルカラーにステレオ音響(おんきょう)で感触が残るリアル過ぎる目覚めの夢は、たぶん、平行世界の僕の現実とリンクしているのではないかと、そんな荒唐無稽(こうとうむけい)で根拠(こんきょ)の無い仮説も語っていたが、それも今なら信じられそうだった。
来る途中(とちゅう)の何処を走っているのか分からない真っ暗な場所が、向こう側へ行けるゲートが在るボトルネックなポイントなのかも知れない。
ラストのカーブを曲(ま)がらずに直進して宵闇(よいやみ)から真の闇へ突入(とつにゅう)していたら、どうなっていただろうか?
壁や土手(どて)は無くて、溝のような道が続いていて、もしも、其処へ入っていたりしていたら、僕一人では、あの深い暗闇の中から元の此の世界へ戻って来れるのか疑問だ。
スマートフォンのGPS画面を覗(のぞ)き見した重い影の気配は、ゲートのガーディアンで、異次元(いじげん)に入り掛けた僕を拒(こば)んで元の世界へ戻したのだろうか?
それとも、闇から異世界へ連れ去る物(もの)の怪(け)の類(たぐい)だったのだろうか?
今の、この現実は、狭くて暗い林道へ入る前の世界と同軸上の同一平面で繋がっているのだろうか?
不可解(ふかかい)さの疑問符(ぎもんふ)だらけは、僕を不安と怖れに戦慄させるだけで、超常現象の情報を何も得(え)ないばかりか、何の対策や解決にも至(いた)らない。
(彼女も、ゲートに触れたり……、何かを体験しているのだろうか?)
「神隠(かみかく)しの噂(うわさ)も有るしね。滅多(めった)に体験する人はいないのに。特別(とくべつ)なのね、あなたは。選(えら)ばれたのかもね」
(ギョッ! ななっ、何を言っているんだあ? なっ、何が特別ぅ? 僕を選んだぁ? 誰が何の為にぃ? 彼女は、なんなのだぁ。スッゲー寒い事を言ってくれる!)
『特別』、『選ばれた』の、個別限定たっぷりな優越感(ゆうえつかん)に浸(ひた)れる言葉は、その前の『滅多に』で中和(ちゅうわ)され、更に『神隠し』で、この世界から失踪(しっそう)する対象が僕になり、そして絶望(ぜつぼう)要素たっぷりの恐怖(きょうふ)の代名詞にしている。
ブルッ、最後の直角のカーブが、再び蘇(よみがえ)る。
あそこで転倒(てんとう)でもしていたら、本当に、どうなっていたのだろう?
サッと体験シーンが過(よ)ぎるだけで、背筋(せすじ)に戦慄が走り、全身に寒気がして、体中に寒疣が一斉(いっせい)に立つ。
何か、思い詰めた顔をして僕を見ている彼女が、僕の不安を煽(あお)る。
「もう止(や)め! 話したのが失敗だった。今の話は、……忘れよう」
自分から話題にしたのに、からかわれて引っ込めるなんて、男らしくないと思われるだろうか?。
いいや、彼女はからかっていなくて、真面目(まじめ)に聞いてくれていた。
たぶん、彼女も、何かを体験しているのかも知れない。
黙(だま)って海を見ている彼女の憂(うれ)い顔が、僕にそう思わせた。
深々(しんしん)と雪が降る夜の寒気が、地吹雪(じふぶき)の襟元(えりもと)から入り込む極寒(ごっかん)の寒さに変わり、僕と彼女の安全を確保する警戒感(けいかいかん)が増大した。
視線だけを辺りに移し、全周囲に異変(いへん)がないかと様子を探(さぐ)る。
緑(みどり)の田畑(たはた)や木々や道路が陽炎(かげろう)に揺れる中にも、浜辺の白砂(はくさ)や渚の白波(しらなみ)や漣(さざなみ)が立ち出した波間(なみま)にも、朱(しゅ)に染(そ)まりかけている湧(わ)き上る大きな入道雲(にゅうどうぐも)と青空にも、怪(あや)しげな影は見えない。
探り見た彼女の憂いた横顔で、僕の全身に再び戦慄の冷たい電流が走り、寒気に震える体を冷え切らせてしまう。
だけど、僕は…… 異世界の物の怪に選ばれたなんて、考えたくはなかった!
(いや……、やっぱり、あれは、炎天下の酷暑(こくしょ)に、フルフェイスヘルメットの中で、蒸(む)し過ぎの泡立(あわだ)ちに鬆(す)の空洞(くうどう)だらけになった茶碗蒸(ちゃわんむし)のような、ボソボソに思考の抜けた脳味噌が、造り出した幻聴と幻覚だったんだな)
きっと、そうだと僕は思いたい。
見られているのに気付いた彼女は、僕を見返して、座り位置を変えるように、僕へ擦(す)り寄って来る。
その拍子(ひょうし)に、彼女が被っている帽子の鍔が、僕の顔にコツンと当たる。
「あっ! ごめん。これ、あなたが被っていて。その影に入るから」
彼女はそう言って、白い大きな鍔の広い帽子を僕の頭に被せてから、僕の肩に凭れ掛かってくる。
彼女の陽に焼けた熱くて乾いた肌がぴったりと、戦慄で汗ばみ冷えた僕の肩や背に触れて、まるでヒーリングされているような気持ちがいい温かさで、湧き上がる抱き締めたい衝動(しょうどう)を、僕は抑えるべきか迷ってしまう。
パッションはキスの方に有ったけれど、幸せ感は圧倒的に今までで最高だ!
でも、この嬉しさを否定しそうな事ばかり思い出してしまう僕は、辛(かろ)うじて衝動を抑え込めている。
そんな思いに葛藤(かっとう)する僕と、体が触れていることを気に留(と)めるようすも無く、彼女は眩しそうに目を細(ほそ)めて遠くの海を見ていた。
つづく
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