第16話 明千寺のディステニィから逃げた僕は殺されかけた!(僕 高校3年生)想いのままに・男子編


 風鈴(ふうりん)の透(す)き通るような涼(すず)しげな音色(ねいろ)が小さくなって行き、僕は其処(そこ)に異空間(いくうかん)を感じた。

「ごめんください」

 店の中を見回(みまわ)すけれど、誰(だれ)もいなくて返事が無い。

「こんにちはぁー」

 今度は、大きな声で呼(よ)んだ。

「はーい」

 奥の座敷(ざしき)の、其(そ)の奥から年輩(ねんぱい)の女性の声で返事が聞こえた。

 間も無く畳(たたみ)を踏(ふ)む軋(きし)むような摺(す)り音が近付いて来て、婆(ばあ)さんが現(あらわ)れた。

「はいはい、いらっしゃい」

 僕は、冷蔵(れいぞう)ケースから良く冷(ひ)えたショート缶のコーヒーを選(えら)んでみる。

(ラムネやコーヒー牛乳(ぎゅうにゅう)も、捨(す)てがたかったな)

 いずれも、僕の家の近所とは違う銘柄(めいがら)が置かれていて、帰りにも寄って飲んでいこうと思う。

 ケースの中をよく見ると、サイダーにマウンティンデューにセブンアップまで有って、水分を欲(ほっ)する僕の肉体が、今直(います)ぐに、それらを買って軒先(のきさき)の日陰(ひかげ)で飲みたいと訴(うった)えて来るけれど、ならば、もう少しで出会える彼女といっしょに買いに来れば、挨拶(あいさつ)の後が黙(だ)んまりにならず、此処(ここ)まで来た甲斐(かい)が有ったと思えるだろうと考えた。

 財布(さいふ)に小銭(こぜに)が無くて、御札(おさつ)で店の婆さんに代金を支払(しはら)う。

 レジスターへ行って、釣り銭を持って戻って来る婆さんの向こう、座敷の縁(ふち)に白い人影が見えた。

 缶コーヒーをポケットに捩(ね)じ込んで、更に、これも軒先で涼(すず)しい風に吹かれて食べようと、アイスクリームの冷凍ケースからアイスキャンディを右手で掴(つか)んで、婆さんに見せながら、その代金も差っ引いた釣り銭を受け取ろうと、掌(てのひら)を広げた左手を差し出す。

「この、アイスキャンディも……」

 何気(なにげ)に視界へ入った白い影を、習慣的(しゅうかんてき)な目の動きで追い掛けて見て、僕の婆さんに言い掛けた言葉が止まった。

 白い人影は、彼女に良く似た女の子に見えて……、コモ湖の湖畔(こはん)と同じデジャヴの匂(にお)いがした。

(……あっ! いや……、かっ、彼女ぉ~?)

 パチパチと反射的に瞬(まばた)きが繰(く)り返されて、クリアになった視覚(しかく)が鮮明(せんめい)に彼女の顔を認識(にんしき)する。

(しっ、信じられない……。ここが、そうなのか……?)

 それは、ノースリーブの白いワンピースを着た彼女だった。

 掴(つか)んでいた指の力が緩(ゆる)んで、アイスキャンディは冷凍ケースの中へ落ちて行く。

(お釣りを受け取ってから、婆さんに、ハガキの住所を尋(たず)ねようと思っていたのに……、此処だったのか!)

 刹那(せつな)、僕はついさっき、ヘルメットの中に低く響(ひび)いた囁(ささや)きを思い出す。

(飛び込み一発(いっぱつ)で、逢えるなんて有りえねぇー。すっげぇーラッキーだけど、心の準備が出来てねぇぞぉー)

 行(い)き成(な)り現れた彼女は、僕を見ていた。

(僕が来たのに気付いて、見に出て来たんだ……)

 直観(ちょっかん)した!

(これはディステニィだ!)

 そう思ったのに、そう感じたのに……。

 カーッと血圧が上昇して、過呼吸(かこきゅう)になった。

 瞬時に状況を把握(はあく)して理解した僕は動揺(どうよう)し、過剰供給された血液と酸素(さんそ)で太くなった血管が脳(のう)を圧迫(あっぱく)する。

(だっ、ダメだ。クラクラして来た)

 ケホ、ケホッ、咽(むせ)るように咳(せき)が出て息苦しい!

(この咳と胸(むね)の苦しさは、不整脈(ふせいみゃく)かも? 脈が飛ぶと閊(つか)えたように息苦しくなって、咳が出てるんだった!)

 心臓の拍動(はくどう)が不規則(ふきそく)になって、脈(みゃく)が乱(みだ)れているみたいだ!

 緊張の連続でのライディングで疲労困憊(ひろうこんぱい)の挙句(あげく)に、漸(ようや)く此処へ辿(たど)り着いた気の緩み、白昼夢(はくちゅうむ)の不安と恐怖、風鈴の音色と涼しさの安らぎ、缶コーヒーを手にした解放感、それと運命の出逢いへの驚愕(きょうがく)、再びの緊張、そして初めての不整脈と咳き込み!

(こんな連続なら、そりゃあ脈も飛ぶわな!)

 息が詰(つ)まる!

 眩暈(めまい)と動悸(どうき)がして、もう普通に立っていられない、だけど床に転がりたくなかった。

 さっと、彼女から視線を外(はず)して、僕は逃(に)げた。

(にっ、逃げるしかない。とっ、取り敢えず出直(でなお)そう……。だけど、出直せれるのか、自分?)

 婆さんが渡そうとした釣り銭は、受け取ることを忘(わす)れた僕の弛緩(しかん)した掌に当たりながら、次々(つぎつぎ)と滑(すべ)って零(こぼ)れて行き、コンクリートの床に落ちた幾(いく)つものコインが、チャリンチャリンと軽(かる)い金属音を響かせて転(ころ)がった。

(ああっ、僕は、何をやっているんだ)

 転がるコインをそのままに、表(おもて)に停めたホワイトダックスに向かって、僕は駆(か)け出した。

 爪先(つまさき)が床を蹴(け)っているのか、踵(かかと)が床から離(はな)れているのか、その感覚が無くて、僕は足を絡(から)ませて転(ころ)びそうだ。

 僕のストライクの行動で巡(めぐ)って来た僕の片想(かたおも)いがヒットする大チャンスを、僕は反射的に避(さ)けて逃げている!

 これまで積(つ)み上(あ)げられたプレッシャーに、行き成り新(あら)たな失望(しつぼう)が加わるのを怖(こわ)がって、僕は逃げ出している……。

 この一瞬が僕達の運命が交(まじ)わって重なって行く大事なターニングポイントだったのだが、……僕はホワイトダックスに跨(またが)り、ギアを入れ、アクセルを回した時に、それが分かった!

 軒先からダックスに跨るまでに、高まる気持ちの動揺と後ろ髪を引かれる心の葛藤(かっとう)が、息を詰まらせて心臓の拍動を乱して、喘息(ぜんそく)のような激しい咳き込みをさせていた。

(ああ僕は、こんなに気の小さい、臆病者だったのかあ!)

 彼女の叫ぶような呼び止める声が背後に聞こえるけれど、僕はアクセルを戻さずに、エンジンが噴け上がるのと同時にアクセルターンで向きを変え、僕はホワイトダックスを急発進させた。

 これまでの躊躇いばかりの二人(ふたり)を覆(くつがえ)して運命を切り開き、二人の関係を好転(こうてん)させるチャンスから僕は急いで離れて行く。

 バックミラーには、道まで出て来て僕を見ている彼女が映(うつ)っていた。

 気持ちは焦(あせ)った!

 兎に角(とにかく)、一旦(いったん)この場を離れて落ち着きたい……。

 彼女に逢いたかったはずなのに、今の僕は逃げたがっている……。

 彼女と向き合うという想いは、全く失せていた。

 僕は坂を下るトヤン高原の方には向かわずに、坂を上り海辺へと走る。

(あんな……、妖(あや)しげなトヤン高原へ向かってたまるか! 末恐(すえおそ)ろしい!)

 短い坂を登り切り、明千寺(みょうせんじ)の集落(しゅうらく)を抜(ぬ)けて、緑の田園(でんえん)が広がる台地を走っている内に、気持ちは落ち着き、乱れていた拍動と呼吸が安定して静かになると、自然と咳は止まってくれた。

 台地を下る頃には冷静な思考と判断になり、GPSの広域画面から下った先のT字路を右へ曲(ま)がった。

(この海辺の道は、海岸線をトレースするように、穴水町まで続いている。……はずだ)

 海沿いの町を幾(いく)つか過ぎて、殺風景(さっぷうけい)な砂浜沿いに出た。

 此処までは、夢中で逃げて来た。

(逃げて……、僕は……、逃げたんだな……)

 白砂(はくさ)の平坦(へいたん)な渚(なぎさ)を見た瞬間、後悔が噴き出した。

(引き返せなかった……、僕は……本当に逃げ出してしまった)

 砂浜は、仮設(かせつ)の更衣室やシャワーも、簡易(かんい)トイレも設置されていなかぅたが、どうも海水浴場らしくて海面にはフロート付きのロープで遊泳範囲を区切ってあった。

 スピードを緩め、僕はゆっくりと波打(なみう)ち際(ぎわ)まで進み、ホワイトダックスを停めた。

 白い砂は、とても木目細(きめこま)かく、車輪が全然沈まない。

 広い平坦な砂浜に大勢の足跡(あしあと)と、いくつもの焚火(たきび)の跡があった。

 150メートルほどの沖合(おきあい)に、消波と浸蝕(しんしょく)防止を兼(か)ねて、テトラポットで組まれた防波堤が二つ並んで在(あ)った。

 その間には、能登島(のととう)の北端(ほくたん)の岬が見える。

 テトラポットの向こう側の七尾湾(ななおわん)は、御盆(おぼん)を過ぎた8月の波が高い。

 でも岸辺沿いになる内側の水面は、漣(さざなみ)も立たないほど穏(おだ)やかだ。

 海は碧(あお)く透明に澄(す)み切って輝(かがや)き、僕を誘(さそ)うように艶っぽい。

 ポケットに入れて来た、まだ冷えている缶コーヒーを息を整(ととの)えて、暑さと緊張で乾(かわ)いた喉へと一気に飲み干(ほ)し、疲れと興奮で火照(ほて)る体を落ち着かせると、僕はザブザブと海に入って行った。

 毎日のプール通いの為(ため)に、Tシャツの下は直(じか)に七分丈(しちぶたけ)の水泳パンツを穿(は)いている。

 水泳パンツの生地(きじ)は、ちょっと通気(つうき)が悪くて、遅い乾きに蒸れて来るのを鬱陶(うっとう)しく思っていたが、今は履いていてラッキーだった。

 温(あたた)かい海水が、動揺して興奮した気持ちを静めるのと、逃げて目的を見失った想いを整理するのにちょうど良かった。

 歩(あゆ)みを進める、浅く透(す)き通った波の波紋(はもん)が刻(きざ)まれた砂地の海底を、黄色い斑(まだら)模様の渡蟹(わたりがに)みたいのが幾匹(いくひき)も逃げていく。

 キラキラ光る水面と、海原(うなばら)を渡って来る湿気(しっけ)を帯(お)びた風が、心地良い。

 渚から100メートルほど離れて、胸の深さでフロート付きのロープが張ってあった。

 遊泳範囲は此処までで、けっこうな遠浅(とおあさ)だと思う。

 試(ため)しにロープを超(こ)えてみたら、1メートルも行かない内に顔までの深さになり、足元の水が冷(つめ)たくなった。

 底の冷たい海水は、更に20メートルほど沖の防波堤へと流れている。

 足元を砂ごと流れに掬(すく)われて深みに嵌(は)まれば、テトラポットの隙間(すきま)に吸(す)い込まれてしまいそうな感じに僕は恐くなり、慌(あわ)てて戻った。

 半分ほど戻って深さが太腿(ふともも)の上端(じょうたん)辺(あた)りになる処(ところ)で水面に浮(う)かぶ。

 遠くにオートバイの爆音を聞きながら、耳は水面下になった。

 手足の力を抜いて水面に浮き、風と水の流れに弛緩した体を任(まか)せてみる。

 緩い大きなうねりが、ゆっくり、ゆっくり、僕を浜の方へと運ぶのを感じ取れた。

 心地良(ここちよ)いうねりに身を任(まか)せて漂(ただよ)いながら思う。

(彼女はアソコいた! 彼女に逢えて本当に良かった。でも、声を掛けられなかった。僕は挨拶(あいさつ)もできていない!)

 頭上に被(かぶ)さるように高く聳(そび)える白い入道雲(にゅうどうぐも)が、『それでいいのか?』と、問い掛けているみたいだ。

 このまま、逃げ帰ってしまいたい意気地無(いくじな)さと、やはり会いに戻って後悔したくない想いに、気持ちは葛藤して海面のうねりのように揺れ、『戻らなくてもいい』と言いたげに海水は粘(ねば)り着いて、僕の判断(はんだん)を迷(まよ)わしている。

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 ぼんやりと白く輝く雲の頂(いただ)きを眺(なが)めながら仰向(あおむ)けで浮いていると、6年生の音楽の授業で想像したピアノの調(しら)べに乗って、雲の峰(みね)を飛び跳(は)ね回る彼女を思い出した。

(よし、会いに戻ろう!)

 逃げない。

 僕は、迷いに踏ん切りを付けた。

 浮くのを止めて行動を起こそうとした其の時、突如(とつじょ)、真横の水面から音も無く、ゆっくりと白い影が立ち上がった。

 波が立ち、水面に浮かぶ僕の体を揺らして、顔を洗(あら)う海水が息を詰まらす、だけど、今はそれどころじゃない!

 暗い森の道で遭遇(そうぐう)した視界の隅(すみ)の影の気配が脳裏(のうり)に一閃(いっせん)して、漂う僕の体を金縛(かなしば)りに遭(あ)ったように固(かた)まらせた。

 もう顔は、恐怖に引き攣(つ)っているのが分かった。

 僕は、息を飲んだ。

 肩に、背に、戦慄が走り、真夏の海面が氷(こおり)のように冷たくなった。

 パニくる寸前で、泣き叫(さけ)ぶ、2秒前!

 影は、その暗い顔を俯(うつむ)くように傾(かたむ)けて、僕を見る。

 顔に貼(は)り付いて暗く見せていた濡(ぬ)れた髪が解(ほぐ)れて、水面に反射するの光を受ける顔が明るく照らされた。

 照らされた影の顔は、スマートフォンの着信画面にしている瞳(ひとみ)で僕を見ていて、恐怖は驚きに変わった。

(ああっ、彼女だ! どっ、どうして、ここに?)

 其の瞳の眼差(まなざ)しが細められたと思う間も無く、彼女は、僕の体に両手を着いて覆(おお)い被(かぶ)さって来た。

(グハッ! やっ やめろ! 胸と腹を押さえるなぁ!)

 沈む上半身に、足先が水面から持ち上がるのを感じる。

 波間に漂う為に広げた両腕は金縛りのまま、彼女を退(の)けるのにも、水底に手掛かりを求めるのにも、全く動かない。

(じょっ、冗談(じょうだん)だろ? もっ、もしかして、……そんなに、僕を嫌っていたのかー? 水の事故に見せかけての窒息死(ちっそくし)なのか! おいおいおいぃぃ、嘘(うそ)だろ! かっ、彼女に殺(ころ)される! うっわあー)

 脳から手足を動かす信号を遮断(しゃだん)されているみたいな無抵抗の仰向けで沈む体に、泳ぎを覚えたばかりの僕に水の怖さを蘇(よみがえ)らせる。

 有り得ない彼女の死神のような行動に僕は一気に沈められて、体を捩(よじ)って抗(あらが)う事も出来ないまま、逃げれずに背中が底の砂地に押し付けられた。

 背中が底に着いた事で、押さえ付ける力に彼女の重さが加(くわ)わって強まり、ゴボッと、止めた息の半分が出てしまう。

 完全に不意(ふい)を衝(つ)かれてパニくったけれど、思い出した友人の水の怖さを克服(こくふく)させたレクチャーと、着けていたゴーグルで水中を見渡せた事が、気持ちを急速に落ち着かせて手足の感覚を戻して行く。

 水中で見る彼女の口や頬(ほほ)が笑っている。

「ガババババッ、ガボッ、ボバババッ」

 ゴーグルを着けずに開けている目は、楽しそうに笑っていた。

 下弦(かげん)の三日月(みかづき)の形になる、僕の大好きな笑った彼女の目だ。

(なんて、嬉しそうに笑っているんだ!)

 大気中と変わらず、普通に笑い声まで聞こえて来る。

 楽しくて堪(たま)らない幸せそうな彼女の笑顔に、『彼女が、望(のぞ)むなら』と、納得(なっとく)しかけた刹那、酸素(さんそ)不足で息が出来ない苦しさに、パニックが治(おさ)まり切らない僕は、本能的に生命の救(すく)いを求(もと)め、彼女を撥(は)ね退けて水面に出ようと踠(もが)いた。

(諦めろ! 大好きな彼女に殺されるのなら、それは本望(ほんもう)だ! だっ、だけど苦しくて我慢(がまん)できないぃ!)

 生き残りを求めても、縋(すが)り付く物の無い海底に踵(かかと)は空(むな)しく砂を抉(えぐ)り、手は崩(くず)れる砂地しか掴めない。

 仰向けのままで進入を防(ふせ)ぎ切れなくなった鼻腔(びこう)と咽喉が、通る海水にツーンと痺(しび)れてヒリヒリする。

 反射的に咳き込みそうになるが、鼻を摘(つ)まみ、口を押えて、咳が出そうになるのを抑(おさ)える。

(咳き込めば、確実にアウトだ!)

 息を止めて、咳を抑え込み、その苦(くる)しさにキンキンと、頭が痛んた。

 息苦しさに、彼女の笑う目をみていた視界が、ジワッと滲(にじ)んだ。

(くっ、やばい! ふつう、底まで沈めるかよ? ゴボッ)

『や、やめろぉ……、やめてくださぁーいぃ……』

 音にならない自分の声は、泡(あわ)の連(つら)なりになって口から水面へ向かって行き、限界が直ぐ其処(そこ)まで迫っているを悟(さと)った。

(あと、数秒しかない! 視界が暗くなって来たらアウトだ!)

 次に肺へ吸い込まれてしまうのは海水だ。

 吸い込めば、肺が数回くらいは噎(むせ)せるだろうけれど、噎せても、入り直すのは海水だから酸素を取り込めずに意識を失って、僕の身体は活動を停止する。

 そうなれば、もう2度と、彼女を見る事は出来ない。

 失われそうな未来への思いに、焦って足掻(あが)けば足掻くほど、手足は砂地の海底に掘った溝(みぞ)を深くするだけで、救いは何も見付けれなかった。

(感激(かんげき)のディスティニーから逃げた僕は、こんな悲惨(ひさん)な運命で摘(つ)んで仕舞(しま)うのかぁ⁈)

 撥ね退けた彼女が、再び僕に襲い掛かるような水の動きは無くて、水中に救いを捜(さが)す僕の視界の端(はし)に、離れ去(さ)る彼女の白いワンピースの色が見えていた。

 もう直ぐ、息を止めている限界が来る。

(くそ! 溺れてたまるか! 落ち着け! 彼女を人殺しにするわけにいかない! 体の向きを変えろ!)

 もがきながらも速(すみ)やかに俯せになって、海底に両手を着いた。

(冗談で殺されて堪るかぁ! 生き延(の)びろぉ!)

 肺から絞(しぼ)り出した残り僅(わず)かな空気を口から漏(も)らしながら、僕は勢いよく立ち上がったが、もう既に酸素は残ってなかった。

 息継(いきつ)ぎの限界は、水面に顔が出る瞬間にブラックアウトといっしょにやってきた。

 吸い込む息といっしょに海水が入って来て、激しく咳き込みながら海水を飲んだ。

 ガバッと飲み込んだ海水が鼻腔を通り抜けて行きつ戻りしながら鼻水に変わると、鼻の奥までツーンと痺れさせて涙目(なみだめ)にしてくれた。

 そして咽喉のヒリヒリと焼けるような痛みを、更に強くしてヒィヒィ喘(あえ)がせた。

 垂(た)れ流す鼻水で、ネバネバする口の中が塩辛(しおから)くて気持ち悪い。

 涙(なみだ)でゴーグルが曇(くも)って何も見えなくなった。

 更なる仕打(しう)ちが有るかも知れなくて、状況を知ろうと急いでゴーグルを外して辺りを見回すと、彼女が波打ち際に立って僕を見ていた。

 僕が、水中から現れて安心したのか、ゲラゲラと腹を抱(かか)えて笑っている。

(なんか、……酷いな! やっぱり、……まだ恨(うら)まれているのかも?)


 つづく

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