第15話 暑中見舞いの葉書とトヤン高原の異空間(僕 高校3年生)想いのままに・男子編
「もう、お昼よ。いつまで寝ているの! 早く起(お)きなさい」
お袋(ふくろ)がお昼を食べさせようと、2階の自室で惰眠(だみん)を貪(むさぼ)る僕を起こす。
8月の盆過(ぼんす)ぎ、インターハイで負けてからは、何事にも遣(や)る気がでない。
登校日でもない限り、朝は起きられないし、動く気力が湧(わ)かない。
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毎日、大抵(たいてい)は昼近くまで寝ていて、早くに目が覚(さ)めても、昼頃までは部屋でウダウダしている。
午後からは、弓道部の友人に市民プールへ無理矢理(むりやり)つれて行かれた。
其処(そこ)で泳(およ)ぎの特訓を1週間以上も続けている。
「おまえ、この先、ずっと、泳げなくてもいいのか。大切な人を、守(まも)れなくてもいいのか」
(それは、嫌(いや)だ!)
水に入るのは、凄(すご)く怖(こわ)い。
嫌で嫌でしょうがなかったけれど、この言葉を親しい仲間から言われると、言い訳や逆(さか)らうのを諦(あきら)めて、覚悟(かくご)を決めた。
家族や親(した)しい人が溺(おぼ)れて沈んで行くのを岸で成(な)す術(すべ)も無く、叫(さけ)びながら呆然(ぼうぜん)と見ているだけの自分を考えたくない。
目の前で恋する女性(ひと)が水難に遭(あ)うなら、僕は迷(まよ)わず、直(す)ぐに飛び込んで救いに行く。
最期まで諦めずに、彼女だけは助けたい。
最悪でも、彼女を一人(ひとり)だけで逝(い)かせたくない。
毎日、溺れそうになる恐怖(きょうふ)でパニくり、気持ちが退(ひ)けて逃げ帰ろうとする僕に、その言葉を友人は、繰(く)り返し言って泳ぎを教えてくれた。
そして僕は、言われる度(たび)に何度も覚悟(かくご)を上書(うわが)きしている。
これまで潜(もぐ)ることも、水面に顔を着けることもできなかった。
特に耳が水に浸(つ)かるときの、『ゾクッ』として、『ゾゾゾゾゾー』と来るのが心底(しんそこ)不安にさせて、まるで水の底に引きずり込まれるように気持ちが悪くて堪(たま)らなかった。
コポコポと耳の孔(あな)の中の空気が、内側を擽(くすぐ)りながら抜(ぬ)けて行き、代(か)わりに、ズッ、ズッと水が入って来るのが、鼓膜(こまく)を濡(ぬ)れた障子紙(しょうじかみ)のように破(やぶ)られて浸透(しんとう)する水に頭の中を変にされそうで、僕には、拷問(ごうもん)に懸(か)けられているみたいに慄(おのの)いていた。
逃げようとする僕を、彼は、力ずくで水に引き込む。
半泣(はんな)きになりながら毎日、5、6時間は練習させられた。
毎回、ツーンと鼻を刺激(しげき)する次亜塩素酸(じあえんそさん)ナトリウムがいっぱいの水を、ガバガバ飲んだ。
鼻水を垂(た)れ流し、鼻の奥と咽喉(のど)はヒリヒリして、非常に気分が悪い。
でも御陰(おかげ)で水に潜れて、浮けるようになった。
平泳ぎで25メートルも泳げるようになったし、犬掻(いぬか)きも覚(おぼ)えたし、横泳ぎと立ち泳ぎも、少しはできるようになった。
それに、ほんの触(さわ)り程度だけど、背泳ぎまで出来て、今まで知らなかった、新しい世界を手に入れたみたいで嬉(うれ)しかった。
初めて自転車や原(げん)チャリに乗れた時のような、爽(さわ)やかな感動と達成感を感じて、凄く嬉(うれ)しい。
今まで、避(さ)けて知ろうとしなかった泳ぎを、指導してくれた友達に僕は心から感謝した。
同時に泳ぎを拒(こば)んでいた、小学校や中学校や高校の夏を後悔した。
言い訳や理由を作って避けたり、先延(さきの)ばしをしてきただけで、自(みずか)ら己(おのれ)自身を変えていく勇気が無かった自分に、嫌気(いやけ)が差している。
プールに行くのが嫌じゃなくなったけど、まだ楽しくはない。
消毒薬臭(くさ)い塩素臭(しゅう)は慣(な)れないし、嫌(きら)いだ。
それに背が立たない深い場所での練習も、これからは行うと言われている。
足先が届(とど)かない深さは、非常に怖い。
ほんの少しだけ、爪先(つまさき)が底に触(ふ)れなくなっただけの深さの違いで、ずっと底が無いような錯覚(さっかく)に囚(とら)われて、僕はパニくりそうになった。
まだまだ、克服(こくふく)しなければならない、水の怖さがたくさん有る。
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お袋の、1階のキッチン辺りからだと思う声は続いた。
「暑中見舞(しょちゅうみま)いのハガキがぁー、来ているわよー。女の子からぁー。リビングのテーブルの上に置いてあるからねぇー」
その言葉に跳(は)ね起きた僕は、急(いそ)いで階段を駆(か)け下りてリビングへ向かう。
暑中見舞いのハガキは、テーブルの上に宛名(あてな)が見えるように置かれていた。
家の住所と僕の名前が、角(かど)がへたったような丸っこい大きな字で書かれていた。
何処(どこ)かで見たような、無いような、不思議(ふしぎ)な形の文字だ。
僕は、差出人の女子の名を見ようと、ハガキに触れた瞬間(しゅんかん)、誰(だれ)から届いた暑中見舞いなのか分かった。
(彼女からだ!)
何故(なぜ)だか、分からないけれど、そう感じた。
急(いそ)いでハガキを裏返(うらがえ)して、差出人を確認すると、そこには、表の字体の縮小版(しゅくしょうばん)で彼女の名前と住所、そしてスマートフォンのデジタル文字には、決して打たれていなかったアナログのウエットな言い回しで、近況を知らせる文面が書かれていた。
『暑い日が続いていますね。元気していますか? ここは朝夕、涼(すず)しくて過ごし易(やす)いよ』
優(やさ)しい言い回しが繋(つな)がっていて、彼女らしくないと思う……。それに、手書きのイラストまで描(えが)かれている。
初めて見た彼女の描いたイラストは、淡(あわ)い青と光る緑の風に、髪を靡(なび)かせる少女の微笑(ほほえ)む顔だ。
たぶん、彼女自身を描いたのだろう。
隅(すみ)に名前と共に、小さく書かれていた差し出し住所は、『鳳珠郡(ほうすぐん)穴水町(あなみずまち)明千寺(みょうせんじ)』。
(鳳珠郡の穴水町って、……能登(のと)? 彼女は今、能登半島にいる?)
直ぐに、インターネットで地図を調べた。
気持ちが急上昇に舞(ま)い上がって、タッチキーをを操作する手と指先が震(ふる)えている。
(逢(あ)いに行こう。今すぐ、彼女に…… 会いに行くぞ! これは、彼女からのメッセージなんだ!)
彼女の切実(せつじつ)な意思を感じる。
優しい言葉の繋がりや空色と黄緑の風は、きっと、詰(つ)まらなさと寂(さび)しさを表しているのだろう。それに、一人だけの少女の微笑みは、『此処(ここ)へ、来てくれるでしょう』と、訴(うった)えているのだ!
探し迷って偶然(ぐうぜん)に巡(めぐ)り逢うのではなくて、ちゃんと、会える場所が彼女の文字で記されている!
彼女からは年賀状も、暑中見舞いも、クリスマスカードも、バースディーカードも、今までに送られて来た事は無かった。
彼女からの誘(さそ)いを感じるのは、……初めての事だ……。
暑中見舞いの裏面から、彼女が幸せを運(はこ)んで来る誰かを探(さが)しているのか……、待(ま)っているのか……、そんな気がした。
(今の君は、大人(おとな)への階段(かいだん)を上るシンデレラなのか?)
僕としては手を取り合って、伴(とも)に大人の階段を駆け上がりたいと考えているんだけれど。
(暑中見舞いで舞い上がる僕の勘違(かんちが)いなのか? いやいや、勘違いじゃないぞ。これって、もしかして……? 今度こそ本当に……? 間違(まちが)いなく……? 急速大接近に、密着(みっちゃく)ハグも有り?)
僕はそう勝手に解釈(かいしゃく)して、友人へ電話した。
「すまん! 今日は、プールへ行かん。行く事ができなくなった。これから、能登に行って来る!」
加速して来る焦(あせ)りに、どぎまぎして、息が荒くなって来た。
もう、信じられない出来事に、気持が急(せ)いてしまっている。
お袋に出かける旨(むね)を伝えて、朝昼兼用の食事も摂(と)らずに、ホワイトダックスのシートへ跨(またが)ると同時にキックペダルを踏(ふ)み込む。
同時に軽くアクセルを開(あ)けながら、エンジンを吹(ふ)かし上げた。
友人と電話で話す声も、お袋に断(ことわ)る声も、自分の声じゃなかった。
異様(いよう)に高く上擦(うわず)って、微妙(びみょう)にビブラートが掛かっていた。
(ウエットな暑中見舞いには、ウエットな行動で、手渡し宅配の返信だ!)
親父が、レストアしたこの古い原チャリのエンジンは、盛(も)り沢山(たくさん)の改造パーツを組み込まれていて、アイドリングが安定すると、猫(ねこ)が咽喉(のど)を鳴(な)らすようにコロコロとした音を立てるから、僕にとってダックスは犬じゃなくて、白い子猫だ。
そのアイドリング音は、いつも、ホワイトダックスが喜(よろこ)んでいるみたいな気にさせて、乗り回した後は、同じ事を言う親父といっしょに良く手入れをしている。
親父が、いろいろとチューンしている所為(せい)だろうけど、時々、喫茶店で連(つる)む仲間達の原チャリのエンジン音とは明(あき)らかに違う。
吹かすと、浮き上がるような鋭(するど)い音で鳴きながら、殆(ほとん)ど振動がしない滑(なめ)らかさで回ってくれて、仲間達は、今時(いまどき)の原チャリよりパワーが小さいのに、加速や走りの伸びの良さを不思議がっていた。
『オリジナルのシートは、緑と青の花柄だったけど、太陽光の紫外線による劣化(れっか)の破損が酷(ひど)くて、交換したよ』と、親父は、青と緑に薄(うす)いピンクが少し入るタータンチェック柄のシートを、ポンポンと敲(たた)きながら言っていた。
それは、耐UV性フェイクレザーに親父が、福井市(ふくいし)だか、鯖江市(さばえし)だかの知人の会社に頼(たの)んで、3Dプリント加工をしたらしい。
耐油性(たいゆせい)に耐薬品性(たいやくひんせい)、それに、超撥水(ちょうはっすい)の防水だと自慢(じまん)していた。
他(ほか)にも『原チャリの制限速度は30キロメートルだろう。それだと非常に鈍(のろ)いよなぁ。だからといって速度超過をすると忽(たちま)ち潜(ひそ)んでいる交通警察の速度検知器や背後から忍(しの)び寄るパトカーと白バイに取(と)り締(し)まわれて、減点(げんてん)と罰金(ばっきん)だ』と言いながら、親父はバックミラーの下に取り付けて有るもう一つのミラーを指差(ゆびさ)した。
『これは?』と、左右のモッズタイプの長いミラーポールに付けている丸いミラーが更に一つ増えているの不思議に思いながら、僕は訊(き)いた。
『逆探知(ぎゃくたんち)する秘密兵器だ。車輛のスピードを計測する方式は超音波の照射(しょうしゃ)、レーザー光の照射、極短波長の電波の照射などが有り、いずれも反射時間の計測で速度が分かる仕組(しく)みだ。他にも光電管による2点間の通過時間で計測する方法が有る。後方からの忍び寄りは速度を同調させての計測だ。これらは逆探知の機器が対応不能だったり、見逃(みのが)したりして、ドライバーやライダーが気付いてから減速していたのでは、違反を免(まぬが)れる確率が非常に低い!』
30キロメートルの速度を限界としたのは何10年前の事なのだろう?
せめて、道路に設置されている標識の制限速度までは出せるように法改正をして貰いたいものだ。
『うん、そうだね。減点も、罰金も、凄く腹立(はらだ)たしいよ』
制限速度に満たない低速では大型車両のドライバーの視界に走行車両と認識されなかったり、追突(ついとつ)や幅寄(はばよ)せでの巻き込みをし易(やす)い邪魔物(じゃまもの)の扱(あつか)いをされたりで、とても危険だと思っていた。
『なので、画像で検知するのがこいつだ。超高密度画素数の超解像度で超薄型の超小型、そして超軽量、これは近未来のCCDカメラなんだぞ。前方用と後方用の2個セットで、分解能は1000メートル離れた玉子の輪郭(りんかく)を瞬時(しゅんじ)に見分けれるほどだ。瞬時とは1/1000秒の超ハイスピードだ。警察の速度取り締まりの機器や車両、ポリボックスに警察官衣服、覆面(ふくめん)パトカーなども、警察関係の画像をインターネットからAI収蔵してある。まあ、正確に検知して知らせてくれる確実な距離400メートルから300メートルの距離で、検知した場所もスマートフォンのGPSに位置情報として記録してくれて、作動させる度(たび)に警告アナウンスをしてくれるんだ。はっきり言って、頼りに出来る優(すぐ)れモノだな。どうだ、素晴(すば)らしいだろう』
親父が仲間達と作った市販(しはん)されていない画像解析式探知だからか、親父は自慢(じまん)げで楽しそうに話してくれる。
『実際に何度か試(ため)しているが、いやぁーこいつは本当に優れモノだぞ。ソーラーバッテリーで充電作動するんだが、残念な事に全天候仕様じゃないんだな。画像での判別だから、見えていないとダメなんだ。だから雨や雪や霧(きり)の向こうまでは分からない。電波は透過(とうか)してくるからオーバースピードしてたら捕まってしまうな。』
他にも漂(ただよ)う煙で見えない事も有るが、そんな時と場所は視界不良の交通規制が行われているだろうと思っている。
『次のバージョンではフルフェイスヘルメットにステレオ式のナイトスコープと赤外線検知も備(そな)えたカメラを付けて、正確な距離や位置の画面をファイザーの前面への投影(とうえい)で知らせて、其の警告アナウンスも様々な声とイントネーションにチョイスできるようにするつもりだ』
確(たし)かに巡回パトロールや苦情調査や進入禁止に違法駐車などの治安維持に従事(じゅうじ)するのは真っ当(まっとう)な業務だけど、明らかに反則金と摘発件数が目当てだと分かる、待ち伏(まちぶ)せみたいな無作為の時間を過ごしながらの卑劣(ひれつ)な取り締まりは国家公務員の警察官のするべき事ではないと思う。
そのような絶対権力を笠(かさ)にした取り締まりは、公安(こうあん)や憲兵(けんぺい)のする事だろう。
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7月の最後の土曜の夜と、8月初めの土曜の夜は、花火大会だった。
別々のスポンサーが主催して、犀川(さいがわ)に架(か)かる大豆田(おおまめだ)の橋向うの河川敷で2回、2週連続の打ち上げ花火大会が催(もよお)される。
毎年、花火大会の日には、夕方早くに親父が帰ってきて、家族で揃(そろ)いの浴衣(ゆかた)を着て、団扇(うちわ)を帯(おび)に挿(さ)し、近くまでバスに乗って見に行く。
バス停から河沿(かわぞ)いの土手道(どてみち)を出来るだけ、打ち上げ場の近くまで歩いて行き、そこで筵(むしろ)を敷(し)いて、みんなで座(すわ)る。
夏の陽(ひ)で焼けたアスファルトが、まだ熱いけれど、筵の上はそれほど熱気を感じない。
毎回、僕は担(かつ)いで来たクーラーボックスから、冷(ひ)えた飲み物を出して配(くば)った。
親父とお袋には、それぞれの拘(こだわ)りの有るロング缶のビール、妹には水筒に入れてきた凍(こお)る寸前の冷たさの麦茶(むぎちゃ)、そして僕は、いっしょに入れてきた凍らせたグラスにカチ割り氷を満(み)たして、冷えたサイダーを注(そそ)ぐ。
超キンキンの極冷(きょくび)えのサイダーが、超美味(うま)いんだ。
親父が言う。
「花火は、大好きな家族といっしょに見るに限るなぁ。愛する妻と息子と娘の浴衣姿、団扇と豚(ぶた)の蚊取(かと)り線香(せんこう)とケツの下の筵、それに、キンキンに冷えたビール。やっぱ、こうじゃないとね。最高だね」
妙(みょう)な拘りを何かにつけ親父は持っている。
でも、こうゆうのは嫌(きら)いじゃない。
僕は此処(ここ)に彼女も、いれば良いと思っている。
彼女といっしょに仰向(あおむ)けに寝転(ねこ)ろんで、僕らの為(ため)に炸裂(さくれつ)するような花火を見たい。
雑学の化学知識で仕入れた炎色(えんしょく)反応の金色がチタンで、青色は銅、赤い色はストロンチウム、それから緑はバリウムで、黄色はカルシウムだとか、それに、物理知識も加えて、光の三原色(さんげんしょく)の緑、赤、青を重(かさ)ねると白になるから、大輪(たいりん)のスターマインが、数え切れないくらいに連発しても、花火の色が濁(にご)って、がっかりな様(さま)になったりはしないとか、濁って汚(きたな)くなるのは絵の具で、色の三原色の黄、赤紫、青緑を混(ま)ぜると黒になってしまう、などと、そんなロマンの無いウンチク話はしたくない。
ただ、黙(だま)っているだけでいいから……、いや、熱や匂(にお)いも、分かる近さの傍(そば)に彼女を感じたい。
(今宵(こよい)、何処(どこ)かで彼女も、……花火を見ているのだろうか?)
視界いっぱいに直上に広がる光の重なり、耳を聾(ろう)するばかりに轟(とどろ)く炸裂音、降(ふ)り注ぐように枝垂(しだ)れ落ちる光の粒(つぶ)、その、圧倒的な光の煌(きら)めく美しさに、眼を見開き、口を開け、耳を塞(ふさ)いで驚(おどろ)きながら二人で感じたい。
夜空の星が、このくらい鮮(あざ)やかに輝いて見えれば、僕らの世界は凄く浪漫(ろまん)に満ちて、より美しいのに。
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彼女との淡(あわ)い夢を思い描きながら、山側環状線から津幡町(つばたまち)、宇(う)ノ(の)気町(けまち)、羽咋市(はくいし)、七尾市(ななおし)と、一気(いっき)に抜けて七尾湾に出た。更に和倉(わくら)温泉を経(へ)て内浦(うちうら)沿(ぞ)いの国道をアクセル全開で走り続けた。
炎天下の夏の昼下がり、能登島の向こう朧(おぼろ)な水平線の近くにユラユラと陽炎(かげろう)が立つ富山湾(とやまわん)の上空に、大きな入道雲(にゅうどうぐも)が高く立ち上がって、地面に貼り付く様に重く淀(よど)んだ大気は、時折(ときお)り、分厚(ぶあつ)い熱気の壁を僕にぶつけて来る。
真夏の緑多い田舎の幹線道路は、フルフェイスのヘルメットの厚みを貫(つらぬ)いて蝉(せみ)の大合唱が、布を切り裂(さ)くような甲高(かんだか)いエンジン音と共鳴して、ヘルメット内の熱で半(なか)ば朦朧(もうろう)とした汗だくの頭へグワングワンと響(ひび)いた。
原チャリ……、原動機付き自転車の運転免許は、一昨年(おととし)の誕生日を過ぎた最初の日曜日に取得した。
部活の先輩から教則本を譲(ゆず)り受けて、3、4日、授業中に目を通して付属の問題集を解(と)いていただけで、あっさりと試験にパスしてしまった。
生徒手帳に記載されている校則には、運転免許の取得を禁止しているから学校へは当然、知らせてはいないし、親にも、親父がホワイトダックスをレストアした今年の春先まで隠(かく)していた。
原チャリは能登縦貫(じゅうかん)自動車道を走れないから、下道(したみち)の内浦(うちうら)と通称される七尾湾(ななおわん)沿(ぞ)いの国道を走り抜けるしかない。
勢(いきお)いで辿(たど)り着いた穴水町で、既にタンクの非常用分まで使う小さな燃料タンクのホワイトダックスへ給油(きゅうゆ)する。
(明千寺まで、あと、少しだ)
ガソリンスタンドに併設(へいせつ)されたコンビニで買ったサイダーを一気飲みし、冷えたボトル水を頭から被(かぶ)り、正常になった頭の僕は、スマートフォンのGPSで現在位置と残りの道程(みちのり)を確認した。
やはり、海沿いを走るより、トヤン高原を抜けた方が近い。
午後4時前には、明千寺に着けるだろう。
国道が山間(やまあい)へ入りかけたところの交差点を右へ折(お)れて、トヤン高原を横断する森の中の道を全速で明千寺へ向かう。
小学6年生の桜(さくら)の花弁(はなびら)が吹き込む教室で彼女に遭(あ)わなかったら、中学2年生の桜(さくら)吹雪(ふぶき)の光に包(つつ)まれる彼女に遭わなかったら……、あの日、あの時、あの場所で、素敵(すてき)な君に出遭えなかったら、こんなに胸がときめいて想い描く僕らの光輝く未来に心躍(こころおど)る事は無かっただろう。
(あと、ほんの数キロメートルで、彼女はもう、目前だ!)
殆(ほとん)ど、対向車が来ない整備されたトヤン高原の森を通るワインディングロードをフルアクセルで、かっ飛ばして行く。
カーブでアスファルトの路面に擦(こす)れるステップの先が激(はげ)しく火花を散(ち)らして、足許を明るくしてくれる。
(どうして、トヤン高原と言うのだろう? しかも、カタカナ表記だ! 能登半島の内浦は、遺跡の多い土地で、北陸は、神代(かみよ)以前の古代から大陸と盛(さか)んに交易(こうえき)をしていたと言うし、この辺(あた)りも栄(さか)えていたとしても、不思議じゃないよな。富山も、古くはトヤンと呼(よ)ばれていたのかも……。朝鮮(ちょうせん)半島の人名にも、同じ発音が有るし……。遥(はる)か昔に富山湾一円(いちえん)から越後(えちご)の沿岸を、トヤンと言う一族が支配していたのかも知れない。そして、彼女は、古代人の直系の子孫かも……⁉)
低い緩(ゆる)やかな丘陵が連(つら)なり、山奥の大きなスキー場のように広がる、山頂の高原のイメージじゃない。
途中、ワイナリーの看板を通り過ぎる。
(へぇー、こんな所に、ワイン工場が在るんだ)
こんな場所にと、辺りを見れば、確かに翌檜の森ばかりではなく、道沿いに栗(くり)と胡桃(くるみ)の木が目立って多くて、姫林檎(ひめりんご)や棒仕立ての葡萄(ぶどう)などの果樹園に適した土地みたいだ。
高原らしく海面より数10メートルだけ高くて、緩くうねる丘陵地全体を牧場(まきば)にしたら、どんな感じになるのだろうと考えた。
トヤン高原の森の木を伐採(ばっさい)すると、新(あら)たに鳳珠郡(ほうすぐん)能登町(のとちょう)の真脇(まわき)遺跡のような古代集落跡が発見されるかも知れない……。
そんな、とめどもない事を想像していると、突然、妙(みょう)に気が急(せ)いて心が騒(さわ)いだ。
蝉の鳴き声が、グワングワンと喧(やかま)しく響いている中、誰(だれ)かに呼ばれている気がした。
上(のぼ)り坂(ざか)の向こうから、カーブの先から、道の彼方(かなた)から、誰かが……、何かが……、僕を呼んでいる……。
『アクセルを緩めたら、彼女が、見付からないぞ』と、ヘルメットの中で誰かが囁(ささや)いている。
囁きに気を取られていたのは、ほんの僅かな時間だったのに視界が暗くなっていて、整備された明るい道が突然途切(とぎ)れて鬱蒼(うっそう)と生(お)い茂(しげ)る森に続く、暗(くら)く狭(せま)い林道に変っている。
後ろを振り返ると、遥か向こうに整備された道らしいのが、光の点みたいになって見えた。
(いつの間に、こんな奥まで林道に入ってたんだ? 迷(まよ)ったのか?)
忠告(ちゅうこく)のような囁きに反(はん)してアクセルを緩めてしまうけれど、非現実的な異様な状況の不安さに、一旦(いったん)停車してスマートフォンのGPSで現在位置を調べる。
現実に存在する場所らしく、電波は受信できて、此処までは標識通りに来ていた。
ショルダーバックから暑中見舞いのハガキを取り出して、彼女の居る住所を確認するが、間違えてはいない。
この道の向こうで、残りは500メートルも無いだろう。
ふと、誰かに、ハガキを覘(のぞ)き読まれた気がした。
気がした方へ、眼だけをゆっくりと向けると、隣に何かがいそう。
視界の隅(すみ)に、重量感の有る大きな影が見え、ゾクッと背中に戦慄(せんりつ)が走った衝動(しょうどう)で、行き成り顔を向けて見るけれど、……何もいない!
影が、消えた!
パパッと、後ろを見て、上下左右も見て、ぐるりと周(まわ)りを見回すが、別に何も、不思議で怪(あや)しい物はいない!
それよりも、怪しいのは前だ。
顔を上げ、森の奥へ消える道を見た。
まるで照明(しょうめい)の無いトンネルか、洞窟(どうくつ)のようだ。
……奥が真っ暗(まっくら)で、何も見えていない!
(さっきまで、あんなに陽射(ひざ)しが強かったのに、木漏(こも)れ陽(び)の一つも無いなんて……。こっ、これは、けっこう怖いぞ!)
異世界へ繋がるような迷路(めいろ)に入り込み、生還不能に陥(おちい)るかも知れない果(は)ての無い闇に、僕は怯(ひる)んでしまいそうだ。
(逃げるな。ビビってんじゃあないぞ! 戦え! 彼女に、逢いに来たんだろう!)
闇の先を睨(にら)んで、メゲそうな自分を奮(ふる)い立たせる。
ヘッドライトを点(つ)けると、アクセルを全開にして先を急いだ。
(くそ! 負(ま)けるか! 此処を抜ければ、彼女に逢えるんだ)
高く生い茂る翌檜(あすなろ)が、幾重(いくえ)にも陽を遮(さえぎ)って更に宵(よい)が深まっている。。
湿気を増(ま)したカビ臭い空気は蒸(む)して身体中に纏(まつ)わり付き、腹立たしいくらいに不快(ふかい)だ。
路面は所々(ところどころ)濡(ぬ)れて、苔生(こけむ)しているのか、時々、ハンドルが取られて、駆動(くどう)する後輪が滑(すべ)って空回(からまわ)りする。
バックミラーに映(うつ)る入口の光は、急速に小さくなって消(き)え入(い)りそうだ。
闇で出口が見えない前方とヘッドライトに揺(ゆ)らぐ左右の影から、何か得体(えたい)の知れない物体が飛び出して来そう。
まるで、現実に重なる違う場所を走っているような感じがして、不安で心細い。
この暗さは、怪物を閉(と)じ込めたラビリンスの様な迷宮(めいきゅう)ではなくて、入り組んだ地下回廊(かいろう)に魔物が棲(す)まうダンジョンにでも飛ばされた様で、今にも絶望感に苛(さいな)まれそうだった。
(どうか、デカい牛頭(うしあたま)や火を噴(ふ)くドラゴンが現(あらわ)れて、ミンチにされたり、消(け)し炭(ずみ)にされたりしませんように)
10秒も経(た)たない内に、蒸して粘っていた大気が、今度は重く冷たくなって纏わり付いて来た。
切り裂く冷気が、剥(む)き出しの腕を刺激して泡立(あわだ)つように鳥肌を立たせた。
更に先を急げと、囁きは頭の後ろからや脳天(のうてん)からも、右に、左に、耳の直ぐ傍からのように聞こえ続けている。
(……この感じは、似(に)ている……)
忘(わす)れもしない弓道試合の必勝祈願をした黒壁山(くろかべやま)の魔所の暗闇と同じ、いつ異形(いぎょう)が現(あらわ)れても不思議じゃなかった光と闇の混(ま)ざり合う時刻と、艶(つや)の失(う)せた暗がりが迫るように思い出されて、生(なま)ゴムのような臭(にお)いがした……。
まだ、夕暮(ゆうぐ)れには早い時刻のはずなのに、辺りは何時の間にか湿(しめ)りを帯(お)びた夜のように暗い。
益々(ますます)、狭(せば)まって来る気がする長く暗い坂を全速で上り、追い立てられて逃げるように、暗くて先の見えない下り坂に突っ込んで行く。
脇(わき)の茂みの向こう、暗く立ち並ぶ幹(みき)の間から、ずっと何かに見られて、何かが近くでいっしょに走っているような、不思議な気配がしている。
横を見回して、上を見た。
重なる木々の影の隙間(すきま)から小さく見える空は明るい青空(あおぞら)で、梢(こずえ)の先は陽光(ようこう)に照(て)らされて鮮(あざ)やかな深緑色(ふかみどりいろ)だ。
だが、緑色(みどりいろ)に見えさせる光は地表に届かずに、ずっと高いところで失われていた。
林道の入り口の光は、とっくに見えなくなっていてバックミラーには、森の暗い影が映っているだけだ。でも、何かを感じる。
(この場所にも、……何かが居(い)る)
そう思うと、不気味さと不可解さに襲(おそ)われ、ヘッドライトの光りで、揺らいで形を変える脇の木立ちの影へ視線を走らせる度に、怖(おそ)れ慄(おのの)く悪寒(おかん)が背中を走り回って、既に寒疣(さむいぼ)だらけの全身をゾクゾクさせ続けた。
森に入ってから、3分以上は経っている。
距離にして2キロメートルは走っているだろうか、それとも、もっと来ているのだろうか?
確か、GPSでは500メートル足(た)らずだったのに、それらしい場所には一向(いっこう)に到着しない。
辺りは、更に暗くなり、殆ど闇に近くなっている。
道は……、いつしか溝(みぞ)のような狭(せま)い切り通しになってU(ユー)ターンする余地(よち)も無い。
何かに誘導(ゆうどう)されて走っているのか?
(いったい、何処(どこ)を走っているんだ? 道を間違えたか?)
急に不安と焦りに襲われて、叫(さけ)びそうになったその時、ヘッドライトに照らし出されていた濡れた路面が、行き成り乾(かわ)いた路面と草木(くさき)の路肩(ろかた)に変わり、道は直角(ちょっかく)に曲がった。
必死のギアダウンと横滑(よこすべ)りで、辛(かろ)うじて転倒せずに曲がれたと安堵(あんど)する間も無く、唐突(とうとつ)に明るい陽差しの広がる眩(まぶ)しい世界の中へ、弾(はじ)き出されるように、いや、唾(つば)を吐(は)き飛(と)ばすような感じで戻(もど)された。
急ブレーキを掛けて停まり、僕は振り返って見る。
弾き出された場所は、入道雲の湧(わ)き立つ青空からの眩(まぶ)しい陽の光りを翳(かげ)らせる遮(さえぎ)りが、全く何も無いというのに……、ほんの5メートルほど離れて、今、出て来たばかりの道が真っ暗なトンネルのように、其処に在った。
其処は……、漆黒(しっこく)の内部へ次々と木漏れ日が差し込み、見る見る、光り差す森の道になって行く。
出て来て目の前に現れた明るい道路は、緩やかな上りで、ゆったりと右曲がりに延(の)びていて、その道幅は暗闇の森へ入る前と同じ広さみたいだったから、白線が引かれる整備されたワインディングロードの延長線上だと察した。
信じられない事に、今し方、光が差し込んで行った森の道の、転(ころ)けそうになった直角に曲がる急カーブも、トンネルような暗くて狭い道も、夢から覚(さ)めた後のように跡形(あとかた)も無く消え失せて、辺りの何処にも見付けられ無くなってしまった。
(ハッ!)
頭上に影のようなものを感じて見上げると、木立の頂(いただ)きの上に薄紫色(うすむらさきいろ)の雲のような霞(かすみ)が漂(ただよ)っていた。
気になって見ていると、霞は昇天(しょうてん)するかのように一筋の煙(けむり)になって上がって行ったが、上空高くで吹き寄せた風に散らされるように薄れて消えてしまった。
(どうなっているんだ? ……ぼっ、僕は、何処を走って来たんだ? たっ、確かめに戻るか……。でも、厭(いや)だ! 行きたくない! 怖い……。きっと次は、出て来られないぞ!)
白昼夢(はくちゅうむ)でも、見ていたのだろうか?
蒸されて熱中症になりそうな頭に、フラ付いて転倒しそうになったから停めて休んでいる内に、眠り込んでいたのか?
激しく瞬(まばた)きをする目で、陽炎の立つアスファルトの道を見詰めた。
僕は真夏の炎天下だというのに、寒気がして背筋が震えた。
鳥肌が立ち、魔法の呪(のろ)いの呪文(じゅもん)で固められたみたいに動けなかった。
どれだけ見ていたのだろう。
寒疣が消え、全身から汗を噴(ふ)き出していた。
いつの間にか、暑さが戻って来ている。
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クラクションを鳴らしながら直ぐ脇を自動車が通り過ぎ、右曲がりで登る坂の向こうへ見えなくなった。
気を取り直し、振り向いたままの顔を無理やり前に向かせて、前方に見える家並みを見た。
(やっと、着いたあ。ここが、明千寺の町だ!)
逸(はや)る気持ちを抑(おさ)え、アクセルを小さく開けて、ゆっくりと近付いて行く。
町外(まちはず)れのこんもりした小さな森は、地図に有った能登の古刹(こさつ)、明泉寺(みょうせんじ)だ。
暑中見舞いの差出人住所は、その寺の近くだった。
ゆっくりと、明泉寺の前を過ぎて家並に入って行く。今し方の戦慄と緊張は、これから起きる出逢いへの興奮と高まる動悸に変わり、それに加わる暑さで噴き出て来た汗が、冷や汗の寒疣を消して行く。
コンビニも無さそうな小さな町、……集落(しゅうらく)だ。
明泉寺を過ぎて、短い上り坂になる。
その坂の途中の左側には雑貨屋(ざっかや)が在った。
店の前は駐車スペースで、右手にガレージが有った。
お客さんが来ているのだろう、ガレージ脇にスクーターが停めてある。
正面脇にドリンクの自動販売機が置かれていたが、店の中が気になった。
(折角(せっかく)だから、涼しい店の中で選ぼう)
ホワイトダックスを入り口近くに停め、広く開(あ)けっ放(ぱな)しの間口(まぐち)を抜けて中に入る。
(開けっ放しなんて、なんて無用心なんだろう。冷房がされてないのか? 田舎は、これが普通なわけ?)
コンビニに慣れた僕には、異質な感じがした。
軒先(のきさき)の影に入った瞬間に、風が僕の周りを巻(ま)いて、戸口から家の奥に見える、開かれた縁側(えんがわ)の向こうの木陰(こかげ)へと吹き抜けた。
風は次から次と、絶(た)え間(ま)なく僕を包(つつ)む。
揺れる風鈴の音が涼やかに響き、構(かま)えて尖(とが)った心が安らいで優しく広がって行く。
(いい気持ちだぁ。ああっ、癒(いや)されるぅ)
店の中に舞(ま)うような空調の風が吹いていなくて、冷房は効(き)いていなかった。
それなのに、家の中を通り抜けて行く風は、剥(む)き出しの素肌(すはだ)にひんやりと纏(まとま)り付いて、僕は涼(すず)しく感じていた。
風の中に鼻の奥を満たす懐かしい匂いが混(ま)じっていて、僕は初めて彼女を見た小学6年生の教室を思い出していた。
初めて来たのに懐かしく、まるで家に帰って来たかのように安心している。
見た目も、広さも、大きさも、置いて有る物も、全然ちがうのに何故(なぜ)か懐かしく感じて、此処は不思議な空間だと思った。
つづく
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