第14話 直ぐ其処に彼女がいるのに花束を渡せない(僕 高校3年生)想いのままに・男子編


 県立病院へのバスに乗る金沢駅ターミナルの近くの花屋で、彼女への御見舞(おみま)いに持って行く花束を作って貰(もら)った。

 此処(ここ)に来るまでに、何度も彼女に渡(わた)す場面を想い描(えが)いた、僕の愛の化身(けしん)となる麗(うるわ)しきバラの花束だ。

 彼女の希望は、『アップルタルト』ではなくて、『可愛(かわい)い薔薇(ばら)』だった。

 店の人が、此方(こちら)でバラを選(えら)んで下さいと、花だらけの店の一角(いっかく)を指(さ)した。

 其処(そこ)を見回(みまわ)してバラに多くの種類が有る事を、初(はじ)めて知った。

 バラには、様々(さまざま)な色、形、大きさが有る。

 一瞥(いちべつ)してから迷(まよ)わずに、彼女のイメージ色のと、ちょっとキザっぽい自分色のバラを選んだ。

 互(たが)いの歳(とし)の数にして、彼女の周(まわ)りを僕が護(まも)るように囲(かこ)むラッピングを頼(たの)んだ。

「御見舞いの…… いえ、告白(こくはく)のラッピングで……」

 恥(は)ずかし気(げ)も無い僕の大胆(だいたん)な依頼(いらい)に店の人は一瞬(いっしゅん)、驚(おどろ)いた顔をして僕を見たけれど、直(す)ぐに笑顔になって、バラの長さと水の吸(す)い上げ良くする調整をしながら包(つつ)み始(はじ)めた。

 僕は、僕自身の言った言葉に驚いていた。

 さり気なく、よく、恥ずかしさの躊躇(ためら)いも無く言えたものだ。

(そりゃあ、定員さんも、これから僕が彼女の前で跪(ひざまず)いて花束を差し出し、『好きです! 付き合ってください!』と告白する覚悟(かくご)なのかと、たじろぐだろう)

 今の感じで、なぜ彼女には、堂々(どうどう)と言えないのだろう?

(花束を渡しながら、気持ちを、言葉に…… 声に…… できるだろうか)

「あなたの…… 想(おも)いが叶(かな)いますように」

 店の人は、代金を払(はら)う僕に包み終えた花束を渡しながら、言葉を添(そ)えてくれた。

「はい。ありがとうございます……」

 添えてくれた言葉に、御礼(おれい)を言いながら、急(きゅう)に気持が萎(な)えて来る。

(彼女に会いたい! 彼女を見たい! 彼女の……、笑顔を見たい!)

 でも、嫌(きら)われたくないし、冷(つめ)たくされたくもない。

 折角(せっかく)、今は良い友達になっているみたいなのに、『告白のラッピングにして貰ったよ』なんて言葉に出来ないし、声に出したら絶対(ぜったい)に『今日は、サヨナラね』と返品されて嫌われる。

 眉(まゆ)を顰(ひそ)めて眉間(みけん)に縦皺(たてしわ)を刻(きざ)み、目尻(めくじら)を立てながら、花束を持(も)つ手が拳(こぶし)に変わるだろう。

 きっと、道端(みちばた)の石を見るような死んだ魚の目で、僕を見て避(さ)けるだろう。

 華(はな)やいでいたテンションが急落して3ヵ月分の小遣(こづか)い額(がく)のバラを、バス停に置いて家に帰ろうかと思った。

 だけど【試合に勝てば、見舞いに行く】と、彼女にメールを送っている……、伝(つた)えた責任は果(は)たさなくてはならない。

【いいよ。来ても……、花がいいな。可愛い薔薇の花。タルトは、魅力的(みりょくてき)だけどいらないよ。太(ふと)るからね。薔薇が好(い)いの! だから試合に勝ちなさい! これは命令よ!】と、返事が返って来ていた。

(う~ん、『命令』って……どうよ⁉)

 素直に受け止めれば、確固(かっこ)たる信頼と絆(きずな)で結(むす)ばれているみたいだけど、これは彼女なりの励ましで、決してアニメやラノベのようなツンデレの想いを認(したた)めていないのは分かっている。

 人心(じんしん)を操(あやつ)る魔族の言葉のように彼女からの『命令』の文字は、抗(あらが)えない励(はげ)みとなって試合で僕を追い詰め、凄(すご)くイキリ立たせてくれた。

 萎えた気持が、僕を迷わす。

(彼女は、喜ぶかな…… 喜ばせたい。嘘(うそ)付きには、……なりたくない)

 僕は弓とバラの花束を抱(かか)えて、彼女が入院する病院行きのバスに乗り込んだ。

 告白の意味を込めたバラを、彼女に渡すけれど、僕は『告白』と言葉にせずに、お見舞いの花だと言って渡すだろう。

 今までがそうだったように、想いを告げると、全(すべ)てが振り出しに戻ってしまう。

 出来るだけ明るく、今日の試合を報告しよう。

 話題が途切(とぎ)れたら、何を話そう。

 今は弓とアルバイトと彼女への想いしか、僕にはない。

 その弓とアルバイトも、彼女への想いに到(いた)ってしまう。

 僕の考えや行動は、全て彼女への想いに行き着く。

 それは、彼女が好きだという直情的(ちょくじょうてき)な想いだけで、好きの行き先や想いの横展開は、漠然(ばくぜん)とした思いでしかなかった。

(彼女は、どうなのだろう? 彼女の気持ちや考えは、どんなのだろう?)

 僕は、僕の想いを受け入れてくれない彼女しか知らない。

 バス事故でのパーソナルスペース・ゼロは、状況的に彼女の気の衝動的(しょうどうてき)な迷いでしかないだろう。

 事故以降の朝のバスでは、ムードが少し柔(やわ)らかくなったみたいだけど、話し掛けれるような態度をとってはくれていなくて、僕の想いは、突然に断崖(だんがい)へ辿(たど)り着く一方通行でしかない。

 僕は、彼女にどう接して良いのか、全然分からなかった。

(自分の事を、話してくれるだろうか? いや、彼女は、自分の内側を僕に見せないだろう)

 結局(けっきょく)、今まで遣り取りした、互いのメールの内容を繰り返すしかなくて、出来事(できごと)の上辺(うわべ)だけを書き留(と)めた提出したレポートか、箇条書(かじょうが)きにした公約(こうやく)を読み上げるように、味気無(あじけな)くてトキめく事は無いだろう。

 バスを降り、診療(しんりょう)時間が終了して人気(ひとけ)の無いロビーを、判決(はんけつ)が言い渡される罪人(ざいにん)のように、前へ進むのを躊躇(ためら)う足を引き摺(ず)るように歩く。

 足の裏からリノリュームの床を踏む感覚が伝わらない。

 それでも、金沢駅で……、 バスの中でも……、 そして、今も直ぐに霧散(むさん)して、消えてしまいそうな勇気(ゆうき)を奮(ふる)い立たせ、一直線にインフォメーションへ向かった。

 係(かか)りの人に、彼女の病室を尋(たず)ねる。

 彼女の名を告げる僕の声は、高(たか)ずり擦(かす)れた。

 僕の口ではなくて、違(ちが)う孔(あな)から音が漏(も)れ出ているみたいだ。

 小学6年生の時に、何度も遣り直されて歌わされた、音楽の時間を思い出す。

 花屋での然(さ)り気(げ)無い言い方が、今は出来ない。

 だんだんと、顔が赤くなるのがわかり、なんだかクラクラして来て、カウンター越(ご)しにいる係りの人の声が、ずっと遠くから聞こえて来るようだ。

「あのぅ……、本日…… 退院されています」

 聞こえた声が、耳の奥で熱(ねつ)っぽく感じて、風邪(かぜ)をひいたのかも知れないと思う。

  それとも、今日の試合の疲(つか)れが出ているのかも……?

(ん! ……退院……?)

「ええっー! 退院だって? それ本当ですか?」

(なぜ、僕に何も知らせず、退院する?)

「はい、確かに、現在、入院されている方のリストには有りません。その方は、本日の退院になっています」

(そんんなぁ……。勝てば、見舞うってメールしたのに。なんて事だあ……)

 直ぐに、携帯のメールをチェックした。彼女からのメールは届いていない。

(今日……、退院したのか……。やはり、……勝てないと、思われていたのか?)

 振り絞(しぼ)った勇気は、塩を掛けたナメクジのように溶(と)けて消えた。

 緊張が解(ほぐ)れて風邪を引いた感じや熱っぽい感じも、消(き)え失(う)せたけれど、替(か)わりに脱力感(だつりょくかん)と疲労感(ひろうかん)の重みが加わった大気で、ガクッと落ちた肩(かた)と折(お)れ曲がった腰(こし)が、そのまま砕(くだ)けて潰(つぶ)れそうな気がした。

(あーん、ショックだぁ~。床に転(ころ)がって休みたい~)

 重くなった空気は、上手(うま)く吸い込めなくて息苦しい。

「あっ、ありがとうございます。わかりました。退院していたんですか……」

 お礼を言いながら、約束の花束を抱えているのを思い出した。

(バカみたいに持って帰れないよな。……今もバカみたいけど)

 まして、彼女の家まで届ける勇気は無かった。

「すみませんが、彼女に連絡しておきますので、もし、明日受け取り来たら、渡して貰えますか? お願いします。来なかったら、それは自由(すき)にして下さい」

 そう無理(むり)を言って、インフォメーションのカウンターにバラの花束を置(お)いていた。

 入院原因の急性虫垂炎と、退院が延(の)びた理由の夏風邪くらいで、退院直後から通院するなんて、整形外科のリハビリ処方(しょほう)じゃ有るまいし、普通に無いと思う。

 だけど折角ラッピングまでして貰った花束を、捨(す)て置くに忍(しの)びない僕は、飾(かざ)ってくれるかも知れないインフォメーションのカウンターへ渡すのに、この口実(こうじつ)しか思い付かなかった。

 赤(あか)の他人(たにん)からすれば、ゴミになるだけなのに、通院や入院して来る患者、見舞いに来る患者、それぞれに様々な事情が有る事をよく理解(りかい)しているのだろう、『預(あず)かれません』とか、『ご自分で、お渡しになれば』なんて、非情(ひじょう)な言葉で断わらずに、対応(たいおう)してくれた女性は、『分かりました』と頷(うなず)いて、受け取ってくれた。

 アンブッシュを警戒(けいかい)しながら、ジリジリと敵に迫(せま)る先頭のポイントマンのように、緊張していた入院治療への御見舞いは、緊張が切れた退院の御祝いに変わってしまった。

 通院をするのかも知らない明日、彼女は花束を受け取りに来るだろうか?

 いや、必(かなら)ず取りに来てくれると、僕は信じたい。

(でも、明日まで、花束は持つのだろうか? まぁ、いいか……。約束は、守(まも)ったのだから……)

 張り詰めた気持ちが解れて、帰ろうと向きを変えた時、我(わ)が目(め)を疑(うたが)った。

 流れる視界の端(はし)に、待合ロビーの隅のベンチに座(すわ)る、彼女が写(うつ)り込んだ。

(あう! エッ、エネミー! じゃなくて、かっ、彼女ぉ~? ……なのか? なんでまだいるん? しかもなぜ、ここに?)

 退院したと係の人が言っていたのに、まだ、ここにいるのは、母親の所為なのだろう。

 母親らしき人が、会計窓口にいる。

 きっと迎えに来るのが遅(おく)れて、今はたぶん、入院費の精算中なのだ。

 そして、彼女は僕に気付いていない様子だった。

(どど、どうする? 声を掛けるのか? 花束を回収して、渡すのか? どうしょう?)

 溶けた勇気を急いで掻(か)き集めて、それから大事な花束を掴(つか)んで、声を掛けようかと思ったけれど、やめた。

 さっと、ほんの僅かな時間だけ見た彼女は、そんなパーマをしたんじゃないかと見間違(みまちが)うほど、見事にボサボサの髪だった。

 黒髪や白い肌に、艶(つや)が無い。

 相変わらずヘッドホンを掛け、古いポップスを聴(き)いているみたいだけど、元気も、無さそうに見えた。

 そんな姿を彼女は、僕に見られたくないだろうから、会いたくはないだろう。

 声を掛けて、話すのが怖い。

 意気地(いくじ)の無い僕は、勝手な仕様も無い言い訳を集めて、其の場を離れ、彼女を横目で見ながら、気付かれない内に帰ろうと出口へ向かう。

(直ぐ其処に、彼女がいるのに……)

 病室のベッドに、上半身を起こした彼女の横で、僕は、笑顔で試合の報告をする。

 試合中に過(よぎ)った想いを話して、二人で笑い合う。

 そんな事を何度も思い描いて、ここに来たのに……、真(まこと)に残念な自分だと思う。

 金沢駅行きのバスは、あと10分待ちだ。

 バスを待つ間に、しょぼくれながら退院祝いのメールを送る。

【退院、おめでとう】

 優勝した喜びを分かち合う声を掛けられなかった情(なさ)けなさの憤(いきどお)りを鎮(しず)めるように、読み返したメールの文字が覆(おお)って失(うしな)わせさせて行く。

 バスが来るころに、遠くのゲートを出て行く乗用車の助手席に乗っている女性が、彼女だと気が付くのと、ほぼ同時に、メールが着信した。

【ありがとう。退院したの、伝えなくて、ごめん】

 彼女からの、御礼メールだった。

【弓、勝ったみたいね。そっちこそ、良かったじゃん】

 彼女は試合に勝ったから、僕が病院へ来て退院を知ったと思っているだろう。

 そう思うだけで、覆われていた情けない気持ちが更に薄れていく。

 僕は花曇(はなぐも)りの気分で、メールを打ち返す。

【お見舞いの花は、インフォメーションの人に言付(ことづ)けました。明日、通院の時にでも、受け取って下さい】

 花束らしき物を彼女が持っているのを見えているのに、敢(あ)えて僕は惚(とぼ)けたメールを送った。

(やっぱり、声を掛ければ良かったかなぁ? あの、ボサボサ頭の彼女も、可愛かったなぁ)

 僕の想いと態度は、ガサツで図々(ずうずう)しい。

 鈍(にぶ)い僕は、繊細(せんさい)な彼女の心を踏み躙(にじ)りそうだ。

【素敵(すてき)! 薔薇の花だね。嬉しい】

(ふーっ… 声を掛けなくて、良かったぁ)

 声を掛けていたら、このメールは来なかっただろう。

【名前はたぶん、ファーストラブ。白いのは、スノードルフィンかな。綺麗(きれい)で可愛くて、好い匂いだよ。ありがとう】

 彼女の素直な気持ちが、僕は嬉しい。

(名を訊(き)かずに買ったピンクと白のバラは、そんな名前だったんだ。彼女のピンクは、ファーストラブ……。僕の白は、スノードルフィン……。……いいねぇ。……んん!? これって、やっぱり、僕に気付いてバラを受け取ってくれたのか?)

 僕に気付いていた……、僕を見掛けて、薔薇の花束も見て、インフォメーションへ言付けるのも、見ていた……。

 それなのに彼女も、彼女に気付いた僕も、お互いが声を掛けなかった。

(やはり、彼女は面白い。僕達は、似(に)た者同士なのかも知れないな)

 彼女に喜んで貰えたのが嬉しくて、僕は金沢駅へ向かうバスの中で、ずっとニヤニヤしているのが自分でも気付いて、口をキツく閉(と)じ直(なお)すけれど、また直ぐに緩(ゆる)んでニヤ付いてしまい、真面目(まじめ)な顔をするのを諦(あきら)めてしまった。

     *

 インターハイ開催地へ移動する前日に、メールをしてみる。

【全国優勝したら、交際してくれますか?】

 僕は、賭(か)けに出た。

 自分を追い込んで、集中力を高めようとした。

【いやよ! 私を、そんな、ギャンブルで大当たりするみたいな、対象にしないでよ。全国優勝すると、どうだって言うの? あなたが優勝するのと、私は関係無いでしょ! それに、今は、受験勉強で大変なの。そんな暇(ひま)は無いし、考えたくもないわ。私に構わないで! まあ……、応援はするけど、一人でがんばりなさいよ】

 翌日のインターハイ開催地へ向かう列車の中で彼女は、最近のフレンドリーな遣り取りから、思いもいなかった期待外れのツレない返信を寄越して来た。

(いや…… よ。……か。賞品のように扱(あつか)った事になのか、僕が嫌いなのか、どちらだろう? きっと両方ともで、僕の発想や考えも含(ふく)めて、全部が嫌なんだ)

 ツレない返信文は、ショックだったけれど、それより、僕は後悔(こうかい)した。

 気持ちを集中させる為とはいえ、彼女を利用しようとした。

 優勝を交際条件にして、迫ったのは大間違いだ。

 確(たし)かに、優勝する事と彼女の気持ちは、関係無い。

 自分のせこさと、小ささと、小賢(こざか)しさを呪(のろ)った。

 僕は、有頂天(うちょうてん)になっていたんだ。

 大勢の女子達に、チヤホヤされようが、たくさんのラブレターを貰おうが、彼女には知った事じゃない。

 自惚(うぬぼ)れと勘違いが、僕を錯覚(さっかく)させていた。

 いつしか、彼女の気持ちも、僕に向いている気がして、彼女を自分の物のように思い込んでいた。

 彼女は物じゃないし、彼女の気持ちも、僕に向いてなんかいない。

 僕は、彼女に相応(ふさわ)しいなんて思えるような男じゃなかった。

 彼女にとって僕は、それ以前の、話しにならない程度の人間だった!

 急速にインターハイに出場する魅力が失せて行く。

 『だが折角、此処までに至れたんだ。まだ失われていないし、終わってもいない、クヨクヨするな』と、自分に言い聞かせた。

(彼女は関係無い。いつも通り自分にできる事を精一杯(せいいっぱい)しろ。後悔しないように) 

 明日は午前中に開会式で、予選は午後からだ。

     *

 8月初め、石川県の個人戦代表で出場したインターハイは予選落ちした。

 予選は、4射して3中(さんちゅう)以上が通過できるけど、凄く残念な事に僕は2中(にちゅう)しかしなかった。

 普段より的が遠くに見えて、自分が緊張(きんちょう)しているのを知った。

 両足の膝下(ひざした)が水に浸(つか)かっているみたいで、其の水の中を幾匹もの得体(えたい)の知れない物が脛(すね)や膝(ひざ)や踝(くるぶし)に纏(まと)わり付きながら流れて行く感じがした。

 膝が笑い出して僅(わず)かに震(ふる)えている。

 水底の砂や小砂利(こじゃり)が流されて無くなって行く感覚に、しっかり立っていられないと焦るが、既に『足踏(あしぶ)み』と『胴造(どうづく)り』を済ませて『弓構(ゆがま)え』になっているから、遣り直しはできない。

 弓道八節の『弓構(ゆがま)え』までの動作を行っての遣り直しは、弦(つる)が切れた時と同じように一矢(いっし)を失ったのと同じだ。

 全国規模の大会は初めてで、レベルの高い試合に出られる事に気持ちが舞い上がってしまい、足腰(あしこし)と思考(しこう)が落ち着かなくて息苦しい。

 益々(ますます)足裏が流れて行き、まるで川底というよりも砂浜の波打(なみう)ち際(ぎわ)に立っている気分だったが、感覚の無さは無視して『打起(うちおこ)し』『引(ひ)き分(わ)け』と無難に繋(つな)ぎ、狙(ねら)いを定(さだ)めながら『会(かい)』に移(うつ)って行く。

 足裏の砂が流されて、とうとう立つ瀬(たつせ)は無なくなり、今にもよろけそうで踏(ふ)ん張(ば)れているのか分からない。

(しがみ付く浮(う)き輪(わ)が無くて、僕は溺(おぼ)れそうだ!)

 そして、弓を持つ左手の震えはシンクロしてくれなくて停(と)まらなかった。

 試合中は全く集中できていなくて、やっぱり僕は、彼女を身近に感じていないとダメだ。

 しかし試合に負(ま)けたのは彼女の所為(せい)じゃない。

 それでもと僕は思う、……せめて、『がんばって!』とか、『デートぐらいは……』なんて、直接的なメールが来ていたらと思った。

 取って付けたような、『まあ……、応援はするけど』ってのは、心が無い漫(そぞ)ろさで気持ち的に辛(つら)いと思う。

『いやよ!』、構(かま)える一矢、一矢ごとに彼女からの文字が言葉になって、頭の中で彼女の声が響(ひび)く。

 『離れ』、狙いを付ける手先(てさき)と呼吸(こきゅう)がシンクロしないまま、感だけで矢を放(はな)っていた。

 場数を踏める地方の試合じゃなくて、1度切りの全国レベルの大会では、精神(せいしん)鍛錬(たんれん)を怠(おこた)っていた僕の弓は通用しない。

 きっと、教(おし)えの道(みち)の無我(むが)の境地(きょうち)を悟(さと)らなければならないのだろう。

 僕には、こじつけと人に頼(たよ)ってばかりの軟弱(なんじゃく)な精神しかない。

 それとも、無我と真逆(まぎゃく)の何事(なにごと)にも動じない強烈な我(が)の心や考えが必要なのだろうか?

 予選落ちをしてしまった事が、心を暗(くら)く沈(しず)ませる。

(晩御飯に特上の鰻丼(うなどん)を御馳走(ごちそう)してくれた引率(いんそつ)の顧問(こもん)の先生、予選落ちして御免(ごめん)なさい)

 これで3年生の部活は終わりで、これからは、進学や就職活動に専念(せんねん)する事になる。

 これから先、社会人になっても、僕は弓道はしないだろう。

 以前から考えていた事だったが、この時にはっきり、そう決めた。

 本当に最後の試合だったのに、自分の不甲斐無(ふがいな)さが情け無くて、とても残念で悔(くや)しい。

 僕の弓は、満開の桜(さくら)の枝(えだ)を折った瞬間に、枝の花弁(はなびら)が綺麗さっぱり、全て散(ち)ってしまったような思いで終わってしまった。


 つづく

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る