第11話 覆い被さる彼女の四角い爪が愛おしい(僕 高校3年生)想いのままに・男子編

 負(お)った怪我(けが)の程度は不明だが、身体(からだ)を捩(よじ)ると激痛が全身に響(ひび)いて身動きが出来ず、僕はまだ破損(はそん)したバスの構造物の中から脱出できずにいる。

 周囲では、僕を救出する作業が始(はじ)まっているみたいだ。

(早々とマスコミが来て、事故現場の実況報道で僕を大写(おおうつ)しにしていなければ良いんだけどな。それに、この情(なさ)けない姿をプロの報道カメラマンによってパチパチとズームで撮(と)られて、個人が特定されるのは勘弁(かんべん)して欲しいぞ)

 パトカーがバスの周囲を取り囲んで通行を遮断(しゃだん)する中、何台もの救急車が負傷者の収容を終え、サイレンを響かせて病院へ向かって慌ただしく走り出して行った。

 まだ取材のマスコミは来ていないみたいだけれど、遠巻きで見ている通行人や住民達がスマートフォンで撮っているのが見えた。

 だが蜘蛛の巣状態のフロントガラスや歪んだ車窓のガラス越しで暗い車内の僕はハッキリと見えないだろう。

 バスはジャッキで固定されたのか、僕の救助にドカドカと何人ものレスキュー隊員が乗り込んで来ても揺れなくなり、隊員の人達は僕を気遣いながら、背中と被さったフロントガラスの間に緩衝材(かんしょうざい)や分厚いビニールなどを手際良く次々と詰(つ)めて行く。

 緩衝材を詰め終わり、頭にヘルメットと保護マットを被せられると、直ぐに合図を掛ける隊員の大声が聞こえ、背後にエンジンカッターの物騒(ぶっそう)な唸(うな)りが鳴り始めて、暫しの振動で痛みが疼いた後、不意に脇腹の痛みと圧迫が消えてしまう。

 なのに、脇腹を圧迫していた物が取り除かれても、まだ、僕は挟まれたままで抜け出せていない。

 下がり落ちるの防いでいた何かを取り除(のぞ)かれたフロントガラスが強く被さり、その重みに圧し着けられる僕は全く身動きができずに、一気に苦しさの限界が迫って来たのを知った、その刹那(せつな)、エアーバックの脹(ふく)らんでいく大きな音が背中でして、足元から……、たぶん、ぶつかっていたトラックが離される金属同士の擦(す)れる音が聞こえたと思うと、いきなり背中のフロントガラスが後ろへ崩(くず)れ落ちて、重みに耐え兼(か)ねて息の止まる寸前状態から、僕は完全に解放された。

 倒れ落ちそうになる僕を隊員の人達が左右から支(ささ)えて助け出してくれると、頭から顔へタオルを掛けられて待機しているストレッチャーに寝かされた。

 直(す)ぐ様(さま)、救急隊員が怪我の程度や身体の状態を診(み)てから、僕は救急車へ運ばれる。

 搬送先の病院も、既に受け入れが決まっているみたいだ。

 ストレッチャーに寝かされた僕は、ブルブルと全身が小刻(こきざ)みに震えていて、それはきっと、助けられて気が緩んだのと、挟まれた身動き出来ない状態に鬱積(うっせき)した極度のストレスが開放されている所為だと思う。

 運ばれながら僕は、掛けられているタオルの隙間(すきま)から彼女を探(さが)していた。

 彼女は歩道に立って立ち並んでいる人達と同じ様に、救急車へ乗せられる僕を硬(かた)い表情で見ている。

(本当に怪我が無くて、元気そうだ。彼女が無事で……、護(まも)れて良かった)

 初めて入った救急車の中は、いろんな救命医療機器が所狭(ところせま)しと並ぶ圧迫感で息苦しい。

 それに引っ切り無しで入る無線のノイズ混(ま)じりの遣り取りが喧(やかま)しく、僕の不安を煽(あお)って来る。

「乗せて下さい。私も、彼といっしょに行きます」

 後部ドアの閉(し)まる間際(まぎわ)にバタバタと足音がして、彼女が自分のバッグと、衝突後は行方不明(ゆくえふめい)になって忘れていた僕の鞄(かばん)を抱(かか)えて飛び乗って来た。

 衝突の後、彼女のバッグは足元に転(ころ)がっていた。

(でも、僕の鞄は何処に有ったのだろう?)

 挟まれていた僕の目が届く範囲には見当たらなかったから、死角になっていた降車階段の1番下まで落ちていたのか、バスの外まで飛ばされていたのかも知れない。

 それを、彼女がバスの中から探し出して来てくれたんだ。

 全く、彼女の言葉と行動に驚くばかりだ。

 そして、感動しっぱなしの僕は感謝に堪(た)えない。

 救急車に乗り込んで来てくれた彼女は傍(かたわ)らで、じっと、僕の脇腹を見ていて、。その、俯(うつむ)き加減の顔の瞳(ひとみ)は、キラキラと涙に潤(うる)んでいるように見えた。

(どこか怪我をして、痛いのを我慢しているか? ……んん? 違う! 僕の所為(せい)だ! 僕が泣かせたいる……。だめだ! いけない! ……彼女に自責の言葉を言わせてはいけない!)

 早く彼女が負担(ふたん)に思わない言葉を、僕は掛けなければならないと思う。

 それも今直ぐ、素直でシンプルに、さり気無(げな)く。

「……ありがとう。いっしょに、……いてくれて……」

 震える声で呟くように感謝の言葉を言うと、その潤んだ瞳から大粒の涙が幾つも落ち、とうとう僕は彼女を泣かせてしまった。

 走り出した救急車の中で肩を震わせて嗚咽(おえつ)する彼女を僕は見詰めるだけで、続く言葉を探せない。

「私こそ、ありがとう」

 ポロポロと涙が零(こぼ)れる瞳で僕を見詰め返しながら、彼女は言った。

 朝の渋滞の間を縫(ぬ)うように左右に揺れながら加速して走る救急車の中で、寝かされているストレッチャーの簡易ベッドからズリ落ちないように、掌(てのひら)で溢れる涙を拭いながら彼女は僕を支えてくれる。いや、支えるのじゃなくて、動かないように押さえてくれていた。

 揺れに身を捩り、その痛みに耐える僕の身体と、僕の彼女を見詰める顔が、余程、不安気(ふあんげ)に見えたのか、いきなり、抱(だ)き付くように僕へ覆い被さって、ズレ動かないように彼女の上半身の重みで押さえられた。

 彼女の顔が、胸が、腰が、腕や手が、僕にぴったり触(ふ)れているのが分かる。そして、涙に濡れる瞳が僕を見る。

(頬と口許(くちもと)、鼻筋と唇も濡(ぬ)れているのは、涙を拭(ぬぐ)ったから?)

 彼女の優しい温もりと重みが、僕から魂を離脱させそうだ。

(すっごいぞ! 僕に抱きついて来るなんて! ……いやいや、これは違うでしょう)

 嬉しさと感激のあまり、妄想(もうそう)が過ぎる。でも、勘違(かんちが)い男になっちゃだめだ。

 今、僕の心臓は全力疾走(しっそう)を繰り返した後のように、バクバクと大きく早鐘(はやかね)を打っている。

 水色の制服にヘルメットを被って横に座る救急隊員の人が、彼女の行動に驚きながら、僕と目が合ってニッコリ笑ってくれた。

 いつも、思い描(えが)いていたシチュエーションなのに、もう、何も考えられない。

(ああっ、ダメだ。こんなにバクバクしたら、彼女に聞こえてしまう。治まってくれ!)

 気持ちを落ち着かそうとすれば、するほど、冷静さは遠のき、更に興奮して心臓が高鳴った。

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 これまで彼女に触れたことは、中学2年生の体育祭でのフォークダンスだけだ。

 掌にべったりかいた汗を拭ってから手を繋いだ。

 それも軽く添えるように、指に触れるだけだ。

 手を繋ぐ彼女に、一瞬の躊躇いが有った。

 彼女は、僕を意識しているみたいで、ダンスの動きが僅かに遅れてしまう彼女を、思わず僕は見詰めてしまう。

 初めてマジマジと、間近で見る事ができた彼女の横顔。

 目許(めもと)に睫毛(まつげ)、鼻筋と頬の色、眉毛(まゆげ)と額、キリッと結んだ口許と唇、顎の形と首筋、耳とうなじ、髪の生(は)え際と眉間に寄った皺。

 ジロジロと観察するように見て、しっかりと一生(いっしょう)忘れないくらいに脳裏に焼き付ける。

 自分に顔を向けている僕に気付いて、彼女の瞳が動いた。

 その上目遣いの瞳は、『なに、ジロジロ見てんのよ』と、非難するように僕をジロリと睨み、少し遅れて回された顔が僕と向き合ってしまう。

 リズミカルな楽しいフォークダンスのメロディーなのに、ニコリともしない無表情さに落ち着かなく動く目だけが、互いに相手を探(さぐ)り合っていた。

 僕に向けた笑わない顔で見詰め合ったまま、彼女は飛び跳(は)ねるように僕の周りを1周する。

 バラードを聴くみたいに思い詰めた無言の表情で楽しげにステップを踏む彼女は、テレビ画面の中で演じるパントマイムのように見えて、不思議(ふしぎ)な感じがした。

 もう、僕の心臓はレッドゾーン域を振り切りそうな急連打の鼓動を打ち鳴らし、悴(かじか)んだ手の皮膚のように指先や掌から感覚が消えて行く。

 無感覚になった身体がメロディーに合わせて反応して、繰り返した練習で覚え取り込まれた動きをした。

 僕も颯爽(さっそう)とステップを踏(ふ)みながら彼女の周りを1周して、視線を離し難い彼女の表情から進行方向へ泳がせつつ、次の男子へと彼女を導(みちび)く。

 掌から指先へと粘るように離れて行く手が距離を開かせて、視界の隅に暈(ぼ)やけて映る彼女の姿を余韻のように楽しみながら、僕は糸を引くように離れた手を伸ばして次の女子と手を繋いだ。

 彼女と踊る1分弱ほどの至福のダンスは、その1回だけで、2周目を待たずに曲は終わり、彼女と再びダンスをするチャンスは無くなった。

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 今までに携帯電話のメールと手紙で告白していたが、2回とも、無碍(むげ)にされた。

 今も、好きで、好きで、堪らない。

 その彼女が、僕にしがみ付いている。

 痛みを忘れるくらい高揚している僕は、何度も躊躇いながら空(あ)いている手を震えるままに、そっと、彼女の背に添えた。

(このまま、時間が止まってくれ!)

 お風呂(ふろ)の匂いがした。

 シャボンの香(かお)りに混じって、良い匂いもする。

 これが、彼女の匂いなのだろう。

 僕の身の回りには無い匂いで、初めて嗅(か)ぐと思うけれど、初めてなのに何処か懐(なつ)かしい。

 なんだか、心が落ち着いて安心する匂いだ。

 香水なのだろうか?

 ほんのりと甘い花のような匂いを感じて、ゼロ距離の彼女との相乗で、僕は凄い幸せ感に気が遠くなってしまう!

 バスの中で彼女の横に立つと、いつもシャボンの匂いがした。

 彼女の香り立ち、艶(なま)めかしく光る、サラサラな髪は毎朝の洗髪を僕に教えていた。

 その艶々(つやつや)の髪が揺れて、僕の唇や鼻をシャボンの香りで擽(くすぐ)る。

(花のような彼女の匂いに、髪から香るシャボンの匂い……、ああっ、堪らない!)

 顔に触れる髪の、こそばゆさが、気を失う寸前まで高まった、僕の興奮と震えを静めて気持を楽にしていく。

 雨の日は、傘を閉じてからバスの乗車ステップを踏む。

 この、僅かなタイミングに降り掛かった雨滴(うてき)で、彼女の後ろ髪の雫(しずく)や制服の襟と肩に点々と付いた丸い小さな染みが、ゆっくりと乾いて消えて行く様を見ていた。

 その髪と制服の布地が、僕の顔に触れて埋もれる、彼女の色と匂いに心と身体が蕩けるように安らぐ僕は、ずっと、このままでいたいと、切に願う。

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 今、僕の肩を動かないように掴む、彼女の指の爪は短くて四角い。

 『私、ピアノ習(なら)っているの』、初めて彼女に声を掛けた小学6年生の時に、僕は彼女から、そう言われた。

 それは、僕がした彼女の四角い爪への不躾(ぶしつけ)でぶっきらぼうな質問への返答だ。

 不思議な気がしたけれど、ピアノのキーを敲(たた)き続けると爪の先が平(たい)らに変形するのだと、素直に僕は信じてのだ。

 しかし、それは違った思い込みをさせられていたのだった。

 高校1年生の時にブラスバンドメンバーのクラスメートが、上手(じょうず)にピアノを弾(ひ)いているところへ偶然に通り掛り、近くへ行って、そいつの指先を見てみた。

 そいつの指は太くて短いけれど、爪の先は平らじゃなかった。

 弾き終わったそいつに、『おい、なぜ、爪の先っぽが平らになっていないんだ? ピアニストは、みんな爪が変形するんだろう?』って、普通に失礼な事を訊いてみた。

 『あはは、アホか、おまえ! からかわれたな。それ、騙(だま)されているぜ。多少の変形は有るかもしんないけど、爪先が平らになるほどに、形は変わらないね。指先も潰れないし、爪切ったのを、見間違えじゃないのか? ははは』

 そいつは、大笑いしながら僕を小突(こづ)いて教えてくれた。

 音楽雑誌のピアニストの写真で確認したプロの爪の先端は、真っ直ぐに切り揃(そろ)えたような平らな変形などはしていなくて、老若男女、どの人の爪の先も、普通の人と変わらなかった。

(そうだよな。キーを敲き続けて指先が潰れても、直線に切ったように平らにはならないよな)

 でも、あれは爪切りでワザと作った形じゃなかった。

(彼女が、僕に答えた言葉は……、嘘(うそ)だ!)

 四角い爪は、彼女のコンプレックスだったのだ。

(そんな事を、気にしていたのか?)

 でも……、僕にはそんなことでも、彼女にとっては、とても悩(なや)んで苦しむことなのだろう。

 聞き流したり、生まれ付きだとか、さらりと言えずに、わざわざ嘘を吐(つ)くくらいに……。

 それを知った僕は、爪の形なんかを気にして悩む彼女につまされて、更に彼女が愛おしくなった。

 だから今も、間近に大きく見える四角い爪が愛おしい。

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 大きく息をして、胸一杯に彼女の匂いを吸い込む。

 全身を、彼女の匂いで満たしたい。

 この匂いを、ずっと覚えていたい。

 息を吐き出して、また、大きく吸い込む。

 僕の動きに気が付いた彼女が、少し顔を起こして上目遣いで見る。

「寒い……? 苦しい? 痛いの? それとも重い?」

 心配そうな顔で、矢継ぎ早に訊ねてくる彼女の瞳が、まだ涙でウルウルしていた。

(かっ、可愛(かわい)い!)

 でも、君の笑顔の方が百万倍好きです。

 急に救急車が右に曲がり、サイレンを止めて停車した。

 直ぐに降車した救急隊員が後部ドアを開くと、彼女は静かに僕から離れて何も言わずに降りて行く。

 その、薄まる彼女の匂いに、一時(ひととき)の至福の時間は終ってしまう。

 運び込まれた金沢(かなざわ)医療センターで、彼女は積極的に動いてくれて、看護師から渡(わた)された検査リストの用紙と院内の案内地図を頼(たよ)りに、ストレッチャーに寝かされた僕を、リストの検査場所へ次々と運んでくれた。

 レントゲン、CTスキャン、超音波エコー、心電図、脳波、赤外線サーモへと、驚くほど手際良く最短コースで移動して、彼女は、医療技師や医師に僕の事故状況や患部を説明し、最優先すべき状態だと急がせて、検査を速(すみ)やかに済まさせて行く。

 ストレッチャーを運ぶ、スピーディで流れるような動作にも、僕が痛がらないようにと気を配る彼女の心遣(こころづか)いを感じる。

 全(すべ)ての検査が終わり、ストレッチャーに寝かされたまま通路で治療待ち順番についていると、廻(めぐ)って来たドクターが、検査結果を見ながら僕を診察して何か書き込み、聴き取り難(にく)い声の早口で彼女と話してから、足早(あしばや)に次の患者へと行ってしまった。

「今の、解(わか)ったのか?」

 息継ぎをしない途切れ無しの長い話し方は、まるで、御経(おきょう)のような外国語みたくて、彼女が適当に入れているとしか思えない相槌(あいづち)以外、僕は一つも解らない。

 彼女が理解できているのなら、僕の聴覚がおかしいのか、言語を理解する頭脳部位に障害が発生したのかも知れない。

「全然!」

(やっぱりねぇ)

 彼女も理解できていなかった、というよりは聞き取れていなかった。

 僕は難聴でも、事故の症状でも、何でも無くて、ほっと安心する。

 僕達二人の検査結果を暫く眺(なが)めていた彼女は、忙(いそが)しく急ぎ通る看護師の一人を呼び止めて、ドクターの書き込んだ内容を、それぞれ説明して貰う。

「ありがとうございます」

 じっと神妙な顔で記述内容を聞いていた彼女は、検査内容を伝え終わって記述の確認で僕の患部を看(み)ると、求(もと)められた要件は済んだと立ち去る看護師へ礼を告(つ)げてから、検査用紙を僕へ見せて言った。

「良かったね。中身が無事で……」

 零(こぼ)しそうで零さなかったカップのジュースや、落としたレジ袋の中の玉子が割れなかった時のような軽い、その嬉しそうに弾(はず)む声と笑顔に、『僕の中身は、本当に無事だったんだな』と、安堵(あんど)の長い溜め息を吐くと、心身の隅々まで強張っていた緊張が、すうーと解(と)けて行った。

 心配していた内臓の損傷は無く、腰背部打撲(ようはいぶだぼく)と診断された過度の局部圧迫の所為での脇腹と背中の痛みや腫(は)れや痺れは、痺れや痛みが徐々に薄れて無くなり、1週間程度の投薬で腫れも退(ひ)くと書いてあるみたいと、彼女は続けた。

「因(ちな)みに私の方は、御蔭さまで全然問題無し。外傷も全然無いよ」

 彼女の検査はレントゲンだけで、身体の内部に異常は無く、外身(そとみ)にも傷一つ無かった。

 もう、僕の『好きだ』なんて想いなど、どうでもよくなり、そんな想いなどを超(こ)えた気持ちが、僕を満たしていく。

 僕は無事な彼女と、彼女を護れ切れた事に改(あらた)めて感謝した。

 検査用紙を僕の脇へ置くと彼女は、ゆっくりと僕の耳許(みみもと)に笑顔の口を近付けて小さな声で言った。

「家に帰ろう」

 そう言ってストレッチャーを押し出す彼女の意図は、直ぐに理解できた。

「逃げよう。裏口から出るよ」

 至極当然に躊躇(とまどい)無く言う彼女は、通路の案内標識から時間外通用口を目指しているようだ。

(帰ろう、逃げようって、僕と二人でって意味なんだろうな? 誘(さそ)っているんだよな?)

 ストレッチャーを押しながら、彼女は診察の用紙か、受診の用紙か知らないけれど、記入欄に嘘の名前と住所を書いた事、制服の記章を外した事、監視カメラに写らないようにしてきた事、このような事に関(かか)わるのが大嫌いな事を僕に話す。

(彼女が速(すみ)やかな脱出を促すのは、僕の内臓が無事で、外傷は打ち身や擦過傷(さっかしょう)だけだったからだ。このままだと僕の容態が危険な状態になり兼ねなくて、緊急なオペが必要だったとしたら、彼女は何処まで僕に付き添うつもりだったのだろう?)

「はい、これ」

 彼女の言葉と渡された小さなバッジ類に、いつの間にか、互いの制服の校章や徽章が外されているのに気付いた。

(彼女だけがバックれても、僕から身元がバレてしまうって事か……。全く用意周到だね、君は。それって、もう、僕は共犯にされてるじゃんか!)

「いいよ。それで」

 彼女から看護師に説明された処方箋(しょほうせん)は、患部を冷(ひ)やして安静にするだけだと聞かされていたから、僕は素直に彼女の提案に従(したが)ってエスケープする気になった。

「君の好きにすればいいよ。僕もいっしょに家に帰るよ」

 そう言いながらも、身体の向きを少し変えようとしただけで、ズキンと痛みが来た。

 彼女に助けられながら、僕は通用口近くに停めたストレッチャーから降りる。

 彼女に支えられても、姿勢を変える度に背中一面に、血流の滞(とどこお)った筋肉特有の重い痛みが走った。

 特に左の脇腹へ鋭い痛みが、何度も身体の中に深く抉(えぐ)るように来ている。

(どれだけ勢い良く、僕の脇腹を突いたんだよ、あの曲ったサイドミラーは!)

 奥歯を食い締めて無表情に痛みに耐えているけど、引き締めた唇と鼻から吐く息は震えた。

「凄く痛そうだけど、大丈夫?」

 両手を僕の頬に添えて間近に覗き込む彼女の瞳は、苦痛に泳ぐ僕の瞳を探っていた。

 今のシチュエーションは、正(まさ)に望みが叶(かな)っているのだけど、全然健康的じゃなくて背中の痛みが楽しむ余裕を与えてくれない。

「痛くても、少しだけ我慢してね。これから一人ずつ、其処の通用口を通り、病院の敷地をから出て、兼六坂(けんろくざか)へ出るのよ。間隔は5分ほど空けるから、防犯カメラに映っても、直ぐには、私達だと分らないと思うよ。あなたから先に行って。向こうのゲートを出るまでは、お願いだから、颯爽(さっそう)と歩いて欲(ほ)しいの。兼六坂に出たら左へ進んでちょうだい。ゆっくりでいいよ。でも、途中で痛みに耐えられなくて蹲(うずくま)ったり、倒れたりして人目を誘ったら、絶対ダメよ」

 よくまあ、この短時間で作戦的になれるものだと、僕は彼女に感心した。

 僕は彼女の作戦の主役だから、期待に応えなければならない。

(ヒーローは、痛みに耐え、颯爽と、格好良くだ!)

「オーケー、ノー プロブレム。行けるさ」

 返事をした声が、震えた。

「ゆっくりと、県立美術館へ向かっていて。通りに出たら、本当に休みながらでいいから、くれぐれも、怪我人だと言わんばかりに歩かないようにね、休む態度にも、歩く姿勢に気を付けてよ。私も、出たら通りの薬局で、痛み止めと冷やす湿布(しっぷ)を買って来るから、直ぐに、私は追い付くから、それまで、我慢しててよね。目的地は本多(ほんだ)の森を抜けた21世紀美術館よ。其処で休んで、お昼を食べましょう」

 彼女へ頷(うなず)いてから、息を止めるように痛みに耐えて僕は外へ出た。


 つづく

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