第10話 頑張って…と励ましてくれる彼女は本当に優しい(僕 高校3年生)想いのままに・男子編
暫(しば)し、気絶していたかも知れない……。
(……僕は目を閉(と)じている。閉じた瞼(まぶた)の裏が、明るくて紅(あか)い……)
目を瞑(つむ)っている理由(わけ)が分からないまま、ゆっくり瞼を開けると、目の前の座席に合いの制服を着た彼女が座(すわ)り、びっくりしたような、困(こま)って戸惑(とまど)うような、唇(くちびる)を僅(わず)かに開いて、顰(しか)める目付きの唖然(あぜん)とした顔で僕を見ていた。
(えっ、ええっ! どうして、僕は彼女の前にいるんだ? なぜ、彼女は、僕を見て驚(おどろ)いているのだろう? 何か躊躇(ちゅうちょ)させるような迷惑を僕は掛けて仕舞(しま)ったのだろうか? うーん?)
目の前に彼女を見た瞬間、この大胆(だいたん)な立ち位置が僕らしくない不自然さで有り得なかった。
そして、驚き顔の彼女に凝視(ぎょうし)されているのが恥(は)ずかしいと思った。
直(す)ぐに、いつもの彼女の横の立ち位置へ戻(もど)ろうと、顔と体を左へ向けるけれど、幾許(いくばく)も向けない内に頬(ほお)にゴツゴツした硬い物が当たり、僕が試(こころ)みていた動作を初っ端(しょっぱな)から、その真横に存在していた覚(おぼ)えの無い物体が遮(さえぎ)ってくれた。
諦(あきら)めず、頭を傾(かたむ)け、無理に左へ捻(ひね)ろうとしたら、首の付け根辺りが傷付きそうなくらいに痛(いた)くて動かせない。
ならばと、右側の降車ドアの方へ顔を向ければ、行き成り、ゴツンと米神(こめかみ)をぶつけて左側よりも向ける事ができない。そして、右肩に密着して焦点(しょうてん)が合わせられないくらいの近さに、バスの内壁が迫(せま)っていて、体を捻(ひね)ろうにも右側へ微動(びどう)もしない。
ずっしりと、何かが重く僕の体に被(かぶ)さっていて、左肩を強く圧迫(あっぱく)している感覚が有った。
その後ろからも何かが背中を圧(お)し付けて来ていて、左へも、右へも、向きを変える事も、此処(ここ)から抜け出す事もできない。
左右とも得体の知れない障害物とバスの内壁に密着されて、下(お)ろした覚(おぼ)えの無い手を上(あ)げて来る事も出来やしない。
これじゃあまるで、エロマンガで見た身動き出来ない様に縛(しば)り上げたSMの放置(ほうち)プレイみたくて恥(は)ずかしい。
差(さ)し詰め彼女はSMのエロい女王様になってしまうが、僕は一向(いっこう)に構(かま)わない……などと、痛みと貧血で朦朧(もうろう)とする頭が妄想(もうそう)で遊びだした。
僕は背後から圧し付けている重量の有る何かと、彼女の座席の前の手摺(てす)りとの間に挟(はさ)まれてしまっていた。
(何が起きて僕がどうなっているのか、全然理解できていないが、これはどう考えても重大アクシデントだ! 彼女は? 驚き顔で呆然(ぼうぜん)としている彼女は大丈夫(だいじょうぶ)そうに見える! 彼女が無事で良かった!)
背中全体が、強い圧迫(あっぱく)でズーンと痺(しび)れている感じだ。それは、深く息をする度(たび)に体の中のどこかがキリキリと痛んで、呼吸をし辛(づら)くしている。
この、かなり激(はげ)しい勢(いきお)いで、訳が分からない物に挟まれた自分の、どう仕様(しよう)も無いくらい無力の悲しい状況にクラクラと目眩(めまい)がして、再び意識が霞(かす)みそうになった。
(この…… 重くて硬(かた)いのは何だ? 僕は挟まれて潰(つぶ)されているのか? 上手(うま)く脱出できるのか? 速(すみ)やかに抜(ぬ)け出せても手当の甲斐(かい)も無く……ってなりそうな状態なのか?)
挟み潰される恐怖(きょうふ)から来た、本能的な危機回避(ききかいひ)の重さの圧迫を感じない右側への反射的な咄嗟(とっさ)の身体(からだ)の捩(よじ)りは、左の脇腹に抓(つね)って引っ張るような激痛が走らせて、思わず叫(さけ)びそうになった。
瞬間、激しい不安の動揺(どうよう)で血の気が引て、ブラックアウトしそうになった。
(くぅ~……、痛い……、すっごく痛い……)
鋭(するど)く深い痛みと得体(えたい)の知れない何かが、ズッシリと後ろから被さり、挟まれて身動きの取れない状態が不安を強め、今にも潰されそうな状況から抜け出せない焦(あせ)りを、更なる恐怖に変えた。
(ぼっ……、僕はどうなってしまったんだ? もう、……ダメなのか? 身体のどこかの痺れて痛みを感じない部分の傷からドクドクと出血していて、次また意識を失(うしな)うと、もう目を覚(さ)まさないかも知れない……、まだ……、彼女と何も始まっちゃいないのに……)
現状を理解できずに、動転する脳が思考を停滞させる。
(うう、いっ、いやだぁ! だっ、誰(だれ)か、助けてー)
翳(かげ)りそうな意識に、視界の周りが暗くなって、気持ちが悪い。
(逃げ出したい! 叫んで、喚(わめ)いて、助けを呼(よ)ぶんだ! 誰でもいいから、早くここから出してくれーっ)
初めての体験する、人生が終了しそうな危機に、もう、僕はパニックに陥(おちい)る寸前だ。
(彼女の驚きと、悲しげな顔……、この痛み……、どんなに酷(ひど)い傷を、僕は負(お)っているんだ? このまま僕は、ここで……、息も、心臓も、本当に止まってしまうのだろうか?)
僕から見えない僕の何処(どこ)かが、血だらけなのかも知れない……。
膝下(ひざした)がプルプルと震(ふる)えて、直(じき)に身体全体も震え出しそうなのが分かるけれど、それでも引き攣(つ)りそうになる眼に映(うつ)る彼女の不安げな顔に、情(なさ)けない醜態を彼女へ曝(さら)すわけにはいかないと、辛(かろ)うじて崩壊直前の神経を繋(つな)ぎ止めた。
(……彼女がいる、直(す)ぐ前に、彼女がいる……。彼女が目の前にいるんだぞ。彼女が見てる……。彼女に見られてるぞ。おおっ、おっ、落ち着け! 我慢(がまん)しろ! ちゃっ、ちゃんと息をしろ! そうだ、大丈夫だ……。彼女が居(い)てくれる。このまま逝(い)っても、彼女が看取(みと)ってくれるんだ。……彼女に看取られながら、僕は逝けるんだぞ! いつも望(のぞ)んでいた事だろう。最高に幸せじゃないか!)
突かれたような痛みを、歯を食い縛(しば)りながら耐え抜いて、噛(か)み殺した無言の悲鳴を静かに吐(は)き出すと、息をする度の痛みも同じ左の脇腹辺りから来るのが分かった。
脇腹の皮膚(ひふ)に何かが、グリッと食い込んでいると思う……、でも、皮膚を破(やぶ)って突き刺(さ)さってはいなさそうだ。
知覚(ちかく)した眼前の彼女と突くような鋭い痛みで、次第(しだい)に意識は鮮明(せんめい)になり、徐々に記憶が戻ってはっきりして来る。
(ああっ、ここは、バスの中だ……。そして、事態は非情に悪くて、身動きができなくて、息苦しい!)
床に多くの乗客が、折り重なるように臥(ふ)して呻(うめ)いている。
吊り革や手摺りに摑(つか)まっていた立ち客達は一人(ひとり)残らず床に倒れてしまい、幾つか見える空の座席も、座っていた乗客が床へ投げ出されているからだ。
更(さら)に視線を左へ向けると、両手で血だらけの顔を押さえている運転手が見えた。
昨年の秋の『REACH OUT』からは、親密な気分で彼女の横に立てて気持ち良くメールを交換できてはいたが、クリスマスも、年末も、正月も、年明けも、春休みも、高校3年生へ進級後も、全く誘(さそ)いも、誘われも無い儘(まま)、4月下旬の肌寒(はださむ)い今朝(けさ)に至(いた)っていた。
(だが、今は其の空白を埋めても、余り過ぎて苦しいくらい、僕と彼女は瞬(まばた)きもせずに見詰(みつ)め合っているけれど、超ドキドキの心臓とジンジン痺れる背中で息の詰まる僕は、大丈夫じゃないかも知れなくて、とても悲(かな)しい!)
はっきりと戻って来た意識に、自分の現在状況を確認する。
僕の動きを阻(はば)んでいる左真横の硬い物体は、細かく罅割(ひびわ)れて拉(ひしゃ)げた積層ガラスの塊(かたまり)で、バスのフロントウインドーだった。
蜘蛛(くも)の巣状に皹割れて、波打つように変形したフロントガラス越しに、衝突したトラックの白いボディカラーが見えた。
(そうだ、思い出したぞ! 飛び出して来たトラックに、バスが衝突する直前、体が勝手に瞬発して、僕は、彼女の前に立ったんだ!)
彼女が、投げ出されて大怪我(おおけが)をしないように直ぐ前の降車口に瞬発(しゅんぱつ)で立った僕は、衝突の衝撃を背中で受け止めようと、左肩をポールバーに掛け、柵状の手摺りを両手で力一杯(ちからいっぱい)に握(にぎ)り、全身の筋肉をフルパワーで硬直(こうちょく)させた。
……そこまでは思い出せた。
だが、そこから先は気を失っていたのか、今し方の、ほんの少しの時だけだと思うけれど、意識が戻るまでの記憶が欠落している。
それでも、恐(おそ)ろしい衝突の瞬間と、その衝撃で挟まれ押し潰される悲惨(ひさん)な体験記憶が無いというのは幸(さいわ)いだ。
(覚えていたら、彼女の前で、泣き喚いていたかも知れないな……。今も、泣きたいくらいだけど……)
僕は、朝の通学のバスの中で彼女といっしょになると、必(かなら)ず、彼女が座る座席の横に立つ。
彼女は、僕よりも先に降りるから、いつでも、彼女が座席から降り易(やす)いようにと、少し横へズレて立っていた。
彼女が、降車するまでの10数分間の僅かな時間だけれど、僕は、不測の良くない事態から彼女を守っているつもりだった。
何か不慮(ふりょ)の災(わざわ)いが、彼女を襲(おそ)いそうになった時、僕は、僕自身を盾(たて)にして彼女を守り通す覚悟でいた。それなのに、挟まれて気を失っていた。
(僕は、彼女を、ちゃんと守れたのだろうか?)
衝撃に圧迫された肺の息苦しさと、薄(うす)れ切らない痛みから、声が震えて掠(かす)れてしまう。
「だっ、大丈夫か……? ううっ」
心配そうに僕を見上げる彼女へ訊(き)いた自分の声が、途切(とぎ)れて呻き、知らない誰かの、細くて弱々しい声に聞こえた。
額(ひたい)には、僕にぶつかった所為(せい)なのか、ほんのりと赤く丸い痕(あと)が付いている。
彼女のフワッとした髪に掛けていたはずのヘッドホンは、たぶん、僕にぶつかった際に頭頂から外(はず)れたのだろう、ズリ落ちて首に掛かっていた。
外見をマジマジと見ても、それ以外に異質な変化は無くて、やはり特に怪我をしているようには見えない。
取り敢(あ)えず今は、火災の発生や燃料が漏(も)れたりしている臭(にお)いもしていないので、彼女に差し迫る新たな危険は無いようだ。
(良かった。顔に傷は無い。僕は、彼女を守れている)
彼女を守れていた安堵感(あんどかん)に気負(きお)った緊張が緩(ゆる)んだからなのか、背中と脇腹の強まって来る痛みに耐える僕は、顔を顰(しか)めていたのに気付いた。
痛みを我慢して歪(ひず)めた顔は、頬と唇が引き攣り、強く噛み締めている奥歯で眉間(みけん)に縦皺(たてじわ)が寄っていると思う。
(だめだ! 彼女に心配させるな。普通にしろ)
僕の問い掛けに、有り有りと、どうしょうって不安を浮かべた黙り顔で、僕の様子を見ていた彼女が、静かに応(こた)えてくれる。
「私は…… 大丈夫。そっち……、あんた……、……あ、あなたこそ、大丈夫じゃないでしょう」
彼女の視線は下がりながら、左右に流れ、そして、左の脇腹辺りで止まった。
どうやら、その辺りが、とても酷い状態に見えるらしい……。
僕の背中には、歪んで罅割れた、バスのフロントガラスが被さっていた。
圧迫されて血行が悪くなり、痺れの増した左半身に、ずっしりと感じていた重みが薄れて来ている。
手摺を握る左手は細くなった血流で青白(あおじろ)く、自由な右手は青紫色に変色して、血中の酸素量が減っていると判断した。
身動きできない体は浅く息をしても、背中にズキンと痛みが刺して来る。
このまま長時間も挟まれ続けたらヤバイ事態になりそうだと、焦りが込み上げて、内心、一刻(いっこく)も早くレスキューされる事を願う。
僕を見詰める彼女の背後に、車外へ逃(の)れて行く人達が見え、倒れている人が次々と助け起こされたり、抱(かか)えられたりして運ばれていた。
歪んだ窓ガラスの向こうに見える歩道に、バスから運ばれた怪我人達が並んで寝かされて行く。
「血は、出ていないみたいだけど、どうなの? それ、痛くないの?」
挟まれている僕の脇腹の具合が分ったのか、下げた視線を戻して、僕を見上げた彼女が言った。
「コン、ゴホッ、ゴホッ」
彼女が、苦しそうに咳(せ)き込んだ。
余りにも突然の災厄(さいやく)に驚いて、気持ちが圧迫されているのだろう。
一過性(いっかせい)の軽い呼吸不全だから、安心させる事を言って少し落ち着かせれば、きっと、直ぐに治(おさ)まってくれるはずだ。
「ちょっと痛いかも……。いや、けっこう痛い……。でもこの痛みは、挟まれている外傷の感じだよ。動かなければ、痛みが和らいでいる。もし、内臓が潰れているのだったら、叫(さけ)んでいるか、意識が無くなっているかだね……。激痛だろうな……、たぶん。刺(さ)さっているのなら、熱い感じがするんだよ。その感じも無いよ」
この不測の現実に慣(な)れて来ると、彼女に過度の心配をされないように、不安を退(しりぞ)ける気概(きがい)を持ち直(なお)したからなのか、少し長く話せた声が自分の声らしく聞こえているけれど、乏(とぼ)しい経験からのあやふやな推測しか言えていなかった。
実際は痛みで気付けないまま、更に、深刻な状態へ急変しようとしているのかも知れない。
(あれ? 落ち着かせれる事を、言えているのか……?)
--------------------
小学校の頃、建ったばかりの親父(おやじ)の工場で遊んでいた時に、怪我をした事が有った。
まだ、整理を終えていない敷地内を走り回っていたら、突然、何かが足に絡(から)んで来て脹脛(ふくらはぎ)に鋭い痛みが走ると、僕は勢いよく転んで蹲(うずくま)って仕舞(しま)った。
一瞬(いっしゅん)の鋭い痛みは熱さに変わって行り、見ると、太い針金が脹脛を貫通していた。
呆然(ぼうぜん)と見入る傷に、痛みではなく、熱さを感じていた。
針金が貫(つらぬ)いている状態のまま、父に病院へ連れて行かれ、レントゲンを撮り、貫通状態を診断してから針金を抜き、消毒と化膿止めと破傷風(はしょうふう)の予防をして事なきを得ていた。
それ以来、親父の工場は、整理・整頓・掃除が徹底されている。
--------------------
「だっらぁー! そんな状態で、なに、呑気(のんき)に痛みの分析してんのよ。横にずれて、抜け出せないの?」
その言葉に、再び、体が勝手に反応して僅かに捻(ひね)ると、ズキンと筋肉を掴まれたような強く深い痛みに息が停まり、脇腹がヒクヒクと痙攣(けいれん)した。
(耐えろ! 顔に出すな。ダラと言われたのはショックだけど、ポーカーフェイスでいろ。彼女を不安に…… 心配をさせるな)
痛みに奥歯を噛み締める僕は、そう自分に言い聞かせて耐えながら、彼女に悟(さと)られて、余計な心配をさせないように無表情を装(よそお)う。
(くそぅ…… 倒れる時は、彼女の見えないところで倒れろ、……がんばれ、自分!)
「抜け出そうとしているんだけど、なんか、筋(すじ)や内臓が潰れそうな感じで、無理っぽい」
声が震えたり、途切れたりしないように一気(いっき)に言った。
彼女は僕の表情から状態を読み取ろうと、真剣な顔で僕を見詰めていて、その顔は悲しそうに見える。
そんな、顔を突き合わせる近距離で、僕を心配そうに見ている彼女に、僕はドギマギしながら嬉しいと思う。
激痛の脇腹が致命傷じゃないと判断したのに、休まらない痛みの疼きで、イライラ感が治まらない。
この時になって初めて、脇腹以外にも痛みが有るのに気付いた。
それは後頭部からの痛みで、脇腹のようにキリキリする尖(とが)った痛みじゃないけれど、さっきからズキズキと疼いて、僕をイラつかせて来る。
「あとね、頭の後ろを、ぶつけたみたいで、痛いんだ。どうなっているか、ちょっと、見てくれるかな。割れたり、陥没(かんぼつ)はしていないと思うけど」
間近で僕を見ていた彼女の顔が、『ぎょっ』と目を見開いて、視線が僕の頭へと移った。だけど、直ぐに、拉げたフロントガラスに阻まれて上手く見れないと知ったようだ。
「ちょっと、俯いてみて」
言われるままに、そっと、軽く顔を前に倒してみる。
旋毛(つむじ)が見えるくらいに倒して行くと、やっぱり、脇腹が抓られたみたいに痛み出し、頷くように顎(あご)を引く程度しかできない。
「あたっ! ううっ、……痛いから。そんなに強く触るのは、無しにして欲しいな? んで、傷……、酷い?」
位置的に高くて後頭部が良く見えないのか、彼女の手が僕の頭に触れると、ガサゴソと髪を掻(か)き分けてダメージの程度を探し始めた。
何度も髪を分けたり、押しやったり、引っ張ったりして地肌を見ているみたいだ。
時々、ヒリッと触れられるのが、けっこう痛くて、触れた後もヒリヒリしている。
黙って頭の傷を見てくれる彼女は、ちっとも、そっと触ってくれなくて頻(しき)りと痛くして来る。
「頭痛がしたり、頭の中から、小さな、変な音が聞こえたり、首が痛かったりしてる?」
彼女は頭の天辺(てっぺん)辺りで手の動きを止めて、ヒリヒリするところを指先で揉(も)みながら訊く。
「してない。ぶつけたとこが、痛いだけ」
痛いって言ったのに、尚(なお)も、僕の頭を見ながら弄(いじく)る手を戻そうとはしない。
「気持ち悪い?」
僕の顔を見ずに、伸ばした両手で髪を掻き分けるまま、指先でヒリヒリしたところを、更に、ぐいっ、ぐいっとなぞりながら訊いて来た。
(うっひぃー! いっ、痛いっちゅうねん! ワザと、やってるのとちゃうん?)
あまりの痛さに身を捩ると、今度は、左の脇腹がギリッと抉(えぐ)られるように痛い。
両方の強い痛みに不安が増して、顔や手足から血の気が失せて行くのを感じてしまう。
何か凄く恨(うら)みを買っているのではなかろうかと彼女を見ると、早く答えなさいとばかりに、ギロッと睨(にら)んでいる彼女の目と合ってしまう。
その瞳の深い光に、くっ付きそうなくらいに大接近しているのも気付かないほど、自分の指先の感触に確信が持てないのか、彼女はズイズイと懸命に何度も背伸びをしていて、僕の頭の傷を真摯(しんし)に調べようとしているのが分かった。
「この状態に、クラクラしてる」
(うひゃーっ、彼女の真剣な瞳が堪(たま)らなくて、空元気(からげんき)と余裕を咬(か)ませたくて、つい言ってしまった!)
あまりに緊張感の無い寒いジョークは、エマージェンシー状態の僕を見捨てさせるかも知れないほどの詰まらなさだった。
悔(く)やみと恥ずかしさに、頬骨辺りがヒクヒクと引き攣ってしまう。
ヒリヒリさせていた指の動きが止まり、彼女の手が僕の頭から離れると、触られていたところがヒリヒリからズキズキと、痛みが強くなって来た。
(おい、おい、傷口を広げたんだろう?)
「真面目(まじめ)に、答えて!」
笑わない顔の険(けわ)しい眼差(まなざ)しが僕を睨み、低く抑揚(よくよう)の無い脅(おど)すような声で、僕を冷たく戒(いまし)める。
「ごめん、吐き気はしてないし、視界が暗くなったりもしてないよ」
今、吐き気がするとすれば、痛みから来る胃のムカつきだと思う。
目が回ったり、頭痛を伴う吐き気なら、頭の中が損傷しているからで、その感じはしていなかった。
「眠い?」
眠気も無い。
眠気は、クラッと来て目が霞むようなら、其処で人生が終わりになっちゃいそうだ。
脳にダメージが有って、それっきり意識は戻らないと思う。
眠るとしたら、此処から出た後に、君の膝枕(ひざまくら)で眠りたいです。
(膝枕、してくれますか?)
「いや、眠くなるどころじゃないし。ねぇ、頭はどうなってる?」
それにしても、触られてズキズキと痛み出した頭の傷の状態が気になった。
「大きな……、タンコブができてる。切れていないし、血も出て無い。凹(へこ)んでもいないよ」
頭をぶつけているのだから、皮下で内出血すれば、当たり前にタンコブが膨(ふく)らむ。
血が出るほども切れていない傷なら、鋭い物で突かれてはいないだろう。
これだけ触って陥没が見付からなければ、きっと、骨は大丈夫で割れていないし、脳内の出血も無くて、心配は無いと思いたい。
「話してて、意識は飛んでいない? 本当に、眠くなっていないの?」
そう言いながら、ぐいっと彼女は顔を近付けて、その瞳は、表面に浮き出る粗(あら)を探すように僕の顔の隅々(すみずみ)までジロジロと動き回ると、僕の目を覗き込んで来る。
(ちっ、近い! けど、すっげー嬉(うれ)しい! それに、チョー気持ち好い匂(にお)いだ!)
焦点が合うギリギリの顔の近さに蕩(とろ)けるどころか、キスができそうで却(かえ)って緊張してしまう。
だけど、この悲惨な状態を心配する故(ゆえ)の近さだから、キスをされる気配は無く、間違った反応をしては大(おお)いなる反省に至っちゃうから、此処は最高レベルの警戒をすべきだろう。
胸の高鳴りを抑(おさ)えて気持ちは冷静にすべきだが、……でも、これからの為に何か啓発(けいはつ)しておきたい。
(瞼を閉じて眠りたくない。このままずっと君を見続けていたい。もし、これで最期になるとしても、突然に真っ暗になって、遠くに聞こえた君の呼びかけが掠れ失せるように、僕の身体から魂(たましい)が離(はな)れて行って欲(ほ)しい)
切(せつ)に、この先の将来も、君を護っていたいけれど、これが最初で最後の護りになったとしても、仕方が無いと思っていた。
「大丈夫! 気を失うなんて、勿体無(もったいな)いだろ!」
2年前の初めて下校のバスでいっしょになった時くらいの超間近にいる彼女の、あの時と同じウェットに魅惑的な唇を見ながら僕は、またまた、彼女を安心させたくて仕様も無い冗談を言った。
「ふっ♪」
今の僕が言える精一杯の冗談に、言葉を返そうと開き掛けた彼女の口が、言葉の代わりに鼻で笑う息を吐き出して閉じてしまう。
和(なご)み狙(ねら)いが軽くスルーされてしまった空(むな)しさを誤魔化(ごまか)すスマイルもできずに、僕は吊り上げて歪(ゆが)めた口角(こうかく)だけでテレていた。
冗談が詰まらなくて気に入らなかったのか、再び、彼女は僕の頭のダメージ部分を、僕の『痛い』と抗議する呻きを無視して、さっきよりも強く虐(いじ)めるようにゴリゴリと触れてから、脈を診るつもりなのか、項(うなじ)と首筋を指の腹で触れて来る。
血の気が失(う)せた僕の首へ触れる彼女の指の温(ぬく)もりは、現在、過去、未来の恐れを全て取り除いてくれたような安心感を与えてくれて、僕は、そっと首を寄せてしまう。
通り掛かりの人や付近の人達が救助に来て、怪我やショックで動けずにいた乗客達の殆(ほとん)どを運び出し終わり、残る運転手と彼女に降りるよう促(うなが)した。
人が降りて軽くなるにつれ、バスの伸びるサスペンションに脇腹の圧迫位置は下り、押さえて擦(こす)るような痛みも混(ま)ざって来た。
(痛(つ)ぅー、……もうちっと、バスを揺(ゆ)らさないように、そぉっと、動いてくれー)
助け出せそうにない僕よりも、直ぐに助けれる多くの人を優先するのは当たり前の事だ。
「降りろよ。もう直ぐ、レスキュー隊が助けに来るだろうし、大丈夫さ。きっと、この後ろの白い奴をどかせば、出られるから」
血だらけの顔を押さえながら運転手は、小さくて良く聞き取れない声で、『最後に降りる責任が有る』と言って、大層(たいそう)な怪我に見えるのにバスから降りるのを拒(こば)んでいた。
「怪我は有りませんか? さあ、あなたも降りてください」
傍(そば)に来た救助の人は、彼女にも、優しく降車を勧(すす)める。
その人は、僕に向き直ると、僕の下から上まで、まじまじと観察してから、青褪(あおざ)めた顔で言った。
「さっき、消防と警察に連絡して救急車を呼びました。君の状態も伝えたので、間も無く消防からレスキュー隊が来ると思います。もう少しの辛抱(しんぼう)だから頑張ってください」
丁寧(ていねい)な言葉遣(ことばづか)いの落ち着いた声は、直ぐに救援が来ると励(はげ)まして安心させてくれた。
明(あき)らかに年上の人なのに、小生意気(こなまいき)そうな年下の高校生へ対しても、相手を気遣う言い方が嬉しい。
確(たし)かに僕は、自分では身動きができなくて抜け出せなくて、励ましの『頑張れ』は『諦めるな』の意味だと理解した。
自分じゃ良く分からないけれど、傍目(はため)には僕の状態が、かなり深刻に見えるみたいだ。
「彼の傍にいます!」
きっぱりと彼女は、そう言い切って動かない。
彼女の言葉に、救助の人は強制せず、それ以上は何も言わなかった。
僕の傍にいるなんて、これまでの彼女の言葉や態度を思うと、涙が出そうになるくらい嬉しい。
(でも、それじゃあ、君が降りるまで、運転手を救出できないじゃんか)
嬉しさを裏返した皮肉を思い付いていると、僕へ向き直った彼女が悲しい顔をして言う。
「後ろの白いのって……、何よそれ、いやよ! レスキュー隊が来るまで、……私は、ここにいるわ!」
(おおっ、なんと! リッ、リアリィー?)
本当ですか?
あまりにも意外な彼女の言葉に思わず、日本語より英語で疑(うたぐ)ってしまった。しかも、いつの間にか僕を『あんた』や『あいつ』じゃなくて、『あなた』とか『彼』と呼んでいる。
(これは、どうしたことだろう? なぜ? 僕などと……)
戸惑(とまど)う僕は凄(すご)く嬉しいのに、彼女の突然の変化が信じられなくて素直に喜(よろこ)べない。
今の彼女は有り得ないくらい優し過ぎて、漸(ようや)く得た望んでいた嬉しさとチャブゃぶ台返しをされるかもの疑りで、僕は戸惑っていた。
(僕の呼び方を変えたのは、このヒーロー的な僕の活躍の所為なのか?)
これを機に彼女の気持ちが僕へ向き、二人の仲は急接近するかも知れない……。
(なーんてね。今までの彼女の態度や性格から鑑(かんが)みると、有り得ない! ……有るはずが無い! 有り得ても一時的な事で、思わせ振りな親しい態度は、彼女の気が動転している、今だけだろう)
こんなデンジャラスな状況下なら、中学校の同級生が近くに居れば、例(たと)え、無視し続けた嫌(きら)いな異性でも、不安からの気の迷いで話しもするだろう。
明日になれば、昨日までと同じように互(たが)いに声を掛ける事も無く、僕はオフで無視されるメル友のままだ。
(だけど、今の僕に明日が来るような望みを持てるのだろうか?)
僕は淡(あわ)い期待を振り払い、心配そうに僕を見詰める彼女を見ながら、そう考えていた。
エンジン止まったバスの中で、バタバタと助け出される負傷者の呻き声に混ざり、小さくシャカシャカとリズムが聴こえる。
彼女は3年生になってから以前の光るイヤホンを、新しいガンメタリックのスリムなコードレスのヘッドホンに換(か)えた。
指向性が強くて音漏(おとも)れの無いタイプだけど、今は、その彼女の首に引っ掛かったヘッドホンからのオールディーのようなポップスと、激突して挟まれた衝撃で僕の耳から抜けたカナルタイプのイヤホンのスピーカーからのアニメソングがハモるように流れていた。
だんだんと静かになって行くバスの中で、僕達は互いの聴いている楽曲に聞き耳を立てる。
すぅーと彼女の手が伸びて、僕の胸ポケットから垂(た)れ下がって手許(てもと)の手摺りに絡(から)まるイヤホンを摘み、顔を寄せて近付けた耳介(じかい)に嵌(は)めて聴く。
コードレスタイプではなくて、有線の古いタイプだったのが幸いして、彼女の耳に嵌められたのが嬉しい。
コードレスのイヤホンだったなら衝撃でバスの床に落ちて転がって行き、彼女の目に留(と)まる事は無かっただろうが、今(いま)し方(がた)まで僕の耳に嵌(はま)り、耳垢(みみあか)が付着して汚(よご)れているだろうに、彼女が汚れのチェックも、不潔だという躊躇(ちゅうちょ)も無く、自身の耳に挿(さ)し込んだのは驚きだった。
僕も勿論(もちろん)、彼女のイヤホンならば、大喜びしてノーチェックで使い、耳垢をブレンドするだろう。
(……そうか、彼女は、僕を毛嫌いしているわけじゃない……)
もう、僕は痛みと感動で泣きそうだ。
視界の下縁に溜(た)まる熱いモノが彼女の姿を滲(にじ)ませて、ゆらゆらと揺らす。
彼女は暫し聴いた後、イヤホンコードを指に巻いて纏(まと)め、作動しっぱなしのプレーヤーを僕の胸ポケットから取り出して電源をオフにすると、纏めたコードといっしょに、再び胸ポケットに戻しながら言った。
「へぇー、こんなの聴いていたんだぁ」
怪我をした僕を心配する不安と緊張で強張(こわば)っていた彼女の表情が、少しだけ緩み、小さく笑った唇が切なくて愛(いと)おしい。
僕の聴いていたのは『♪ いろは(わ)、にほへ(おえ)ど……』に始まるゲームソングで、弾幕ゴッコの巫女(みこ)さんが歌う曲だった。
オタッキーな歌を彼女に聴かれてしまった恥ずかしさが、脇腹の痛さを紛(まぎ)らわしてくれる。
首に掛かっていたヘッドホンを外して、彼女は言う。
「私のも、聴かせてあげるね。ジャンルはフレンチオールディーよ」
そう言いながら、僕の耳に片方のスピーカーを押し当てた。
丁度(ちょうど)、曲のラストのフレーズが先細るように綺麗(きれい)に消えて、次の歌が愉(たの)しげに始まる。
とても、透明感が有る女性っぽい声なのに、これって男性ボーカルかもと、性別が判断できない伸びと切れの良い声の歌唱に、思わず引き込まれ聴き入ってしまう。
『♪ トゥー トゥー プゥ マ シェリー マ シェリー……』
10数秒ほど僕に聴かせてから、彼女はパタパタとヘッドホンに畳(たた)むと、床に落ちていたバックを拾(ひろ)い上げて中へ仕舞った。
そのバックのファスナーを閉じ終わる頃、遠くからいくつものサイレンの音が近づいて来てバスの傍で次々と止まり、バスの車内が回転する赤色灯の光で溢(あふ)れさせてくれる。
車内灯が消えて、乗客達の手荷物が散乱する無人の車内を、いくつもの赤い光が駆け回って交差していた。
拉げたフロントガラスに挟まれて取り残された僕は、大好きな彼女に寄り添(そ)われる嬉しさと安らぎに、其の赤い光が乱舞する光景を、ドーモの赤い系統色でコーディネートしたステンドグラスみたくて美しいと思ってしまう。
慌(あわ)ただしく到着したレスキュー隊は直ぐに駈(か)け寄って来て、応急処置を施(ほどこ)す救急隊の人といっしょに質問をしながら僕の状態と状況を把握(はあく)すると、考え得(う)る最善の救出方法を説明してくれた。
本当に乗客が退去するまで運転席に座り、血だらけの顔を押さえていた運転手は、レスキュー隊員に担(かつ)がれて運び出されて行く。
顰めっ面で歯を食い縛り、無言で痛みに耐える運転手の顔と姿が、感動的に格好良(かっこうい)い。
僕の傍から離れようとしない彼女は説得され、其の躊躇う足取りに隊員が付き添ってバスから降す。
傍にいたいと言ってくれるのは、凄く嬉しくて心強いけれど、かなり危険を伴(ともな)う救出作業になると思うからバスを降りてくれたのは、割れたガラス片やフレームの金属部品が飛び散って、彼女に怪我をさせる心配をしなくて済(す)むので有り難(がた)い。
「彼は、私を守ってくれたの! お願いだから助けてあげて!」
降り際に彼女が振り向いて、大きな声でレスキュー隊員に僕の救助を頼(たの)んだ其の感激する言葉は、溜まっていた僕の涙を溢れさせて両頬に熱く流れ落とした。
「頑張(がんば)って……!」
身体が震えて泣いてしまうほど、懇願(こんがん)する彼女の声は僕を感動させ、心の中で強く僕は彼女に誓(ちか)う。
(今も、これからも、僕の身が、最悪な結果に陥ろうとも、僕は、絶対に君を守る!)
つづく
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます