第3話 眠る彼女へキスをしてしまった!(僕 高校1年生)想いのままに・男子編

 振動(しんどう)リズムで彼女が起(お)きてしまうかと思ったメールの送り主(ぬし)は、近所に住む中学生の時からのダチで、『あとで、遊(あそ)びに行く』とあり、『OK』と返信する。

 そのメールの直前に弓道部(きゅうどうぶ)の同級生からメールが着信して、『もうバスに乗ったか? まだなら次のバスでいっしょして、帰りに8番(はちばん)ラーメンか、チューで食っていこう』と誘(さそ)われたが、『すまん。もうバスに乗った。今日は帰る。明日(あす)行こう』と返信していた。

(8番ラーメンなら、味噌(みそ)・バター・チャーシューだな!)

 いつもオーダーする、『8番ラーメン』の味噌野菜ラーメンのバターとチャーシューをトッピングした大盛りは、とても魅力的(みりょくてき)な味噌味(あじ)にキャベツ主体の野菜の旨味(うまみ)がコラボしたスープを、バターの風味(ふうみ)とラー油の辛味(からみ)を加(くわ)えて、独特の太い縮(ちぢ)れ麺(めん)に絡(から)ませた味を思い出すだけで涎(よだれ)が出て生唾(なまつば)を飲み込んでしまう。

 パリパリな焼き餃子(ぎょうざ)のダブルと共に、部活で体力を消耗(しょうもう)して空腹(くうふく)になっている僕の食欲を大(おお)いにそそった。

 ラーメンがメインの大衆的中華料理の『チュー』は、パラパラっと一粒(ひとつぶ)一粒離(はな)れた御飯粒(ごはんつぶ)に、しっかりと旨味の絡んだチャーハンが捨(す)て難(がた)い。

(うーん、迷(まよ)うな……)

 だけど、今からは絶対にだめだ。

 今は、僕のメールを読んで金石の浜まで来て、僕のトレーニングや金波銀波(きんぱぎんぱ)の海と沈(しず)む夕陽(ゆうひ)まで見ていてくれた彼女の近くにいて、僕が降車するバス停で彼女を見送(みおく)りたかった。

 遠くの浜へ初めて行き、窓に凭(もた)れ掛かるくらいに疲(つか)れている彼女を、僕は大切(たいせつ)に護(まも)りたいと思う。

 横に座るのが僕だと気付いているはずなのに、姿勢(しせい)を正(ただ)さず、無防備(むぼうび)に背(せ)を向けたまま、無警戒(むけいかい)に僕を居(い)させてくれる彼女が愛(いと)おしい。

(……この場合、やはり、友情(ゆうじょう)や仲間意識よりも、恋(こい)だろう)

 彼女の横で、何も話し掛けず、顔も会(あ)わさず、前を見て座っているだけだけど、背中(せなか)に翼(つばさ)が生(は)えて舞(ま)い上がるかも知れないほど、気持ちが高揚(こうよう)して心が満(み)たされている。

 僕はこの至福(しふく)の時間を、誰(だれ)にも邪魔(じゃま)されたくなかった。

(これから先、こんなチャンスは、無いかも知れない……)

 そう思いながら、『まだ窓ガラスに映(うつ)る瞳(ひとみ)は、僕の一挙一動(いっきょいちどう)を見ているのだろうな』と、彼女の方へ顔を向け、『映る瞳と目が合えば、今度こそ、見返してやろう』とばかりに顔を寄(よ)せた。

(うっ!……?)

 突然(とつぜん)、好きになれないけれど、鮮明(せんめい)に臭覚(きゅうかく)に記憶(きおく)されている不快(ふかい)な異臭(いしゅう)が僕の鼻腔(びこう)を通り、肺(はい)に吸(す)い込まれた。

 とても良く知っている不快な臭いは、鼻腔の嗅覚細胞(さいぼう)を全部一遍(いっぺん)に針(はり)の先で突(つ)いたようにチクチク刺(さ)さして来て、思わず僕はツーンとした刺激(しげき)で痺(しび)れる様に痛(いた)む鼻を摘(つ)まんで息を停(と)めた。

 そんな息(いき)を詰(つ)まらせて呼吸(こきゅう)を苦(くる)しくさせる、ニンニクを食べた後の息の臭(にお)いがした。

 僕は、ぐるりと周(まわ)りを見渡(みわ)す。

 辺(あた)りの席は何処(どこ)も、うちの工業高校の生徒ばかりで、バスを待っている間にニンニクの臭いを嗅(か)いだ憶(おぼ)えは無かった。

(と、なると、ニンニク臭の犯人は、彼女か……?)

 鼻を近付けて確(たし)かめると、やはり、独特の空気を圧(あっ)する臭いで息が詰まり、チクチクと目に刺さる辛(から)さに涙ぐんで来た。

 この辛(つら)い異臭の発生源は隣の彼女に間違いないと確信した。

 仄(ほの)かに、ラーメンの匂(にお)いも漂(ただよ)っている。

 まるで、触れ合いを拒(こば)む彼女が、人を寄せ付けない無色透明な化学兵器のバリアーに覆(おお)われているようだ。

 彼女は、日没(にちぼつ)を見ていて遅(おそ)くなっただけじゃなかったのか?

(そうか、金石でラーメンを食べていたから、こんな時間になってしまったんだな)

 臭いの元凶(げんきょう)が彼女だと分かると、僕の意識はニンニクの臭さなんて、全(まった)く関係無くなってしまう。

 臭くても、身窄(みすぼ)らしくても、大好きな彼女に変わりは無い!

 もしも、無自覚(むじかく)で他人に迷惑(めいわく)や害(がい)を与(あた)え、見るに堪(た)えない事をする彼女になったとしても、僕は彼女を庇(かば)い、諭(さと)し、改(あらた)めさせなければならないだろう。でも、どうしてもと彼女が言うのならば、僕もいっしょに罪を被(かぶ)って責(せ)めを負(お)うと心に決めていた。

 人を好きになり、恋をするという事は、そういう事だと思っている。

 南町(みなみちょう)のオフィス街(がい)を過ぎ、バスは、乗り継(つ)ぎの為(ため)に降りなければならない香(こう)林坊(りんぼう)のバス停に近付いた。

 このまま家に帰るのならば、彼女は僕と同じ路線に乗り継いで、僕の降りる家の近くのバス停より、更に二(ふた)つ先だから、次でいっしょに降りなければならないはずだ。

 そっと彼女を見ると、相変(あいか)わらずイヤホンをしたまま、頬杖(ほおづえ)をして外を見ていた。

 規則正(きそくただ)しい静(しず)かな呼吸が小さく肩(かた)を上下させている。

 その、小さく揺(ゆ)れるような動き以外は微動(びどう)だにしない……。

(……これは、もしかして……、やはり、寝(ね)ている?)

 僕は体を回(まわ)して、彼女の横顔を見た。

 ニンニクの臭いがキツくなるけれど、僕は構(かま)わない。

(やっぱり、寝ていた…… 目を瞑(つむ)っている)

 閉(と)じた瞼(まぶた)の睫毛(まつげ)が愛(あい)らしい。

 僕の荒(あら)い息で彼女の髪(かみ)が揺れて、清涼感(せいりょうかん)あふれる柑橘系(かんきつけい)の整髪料が香り……? いや、トロピカルな花の香りに擽(くすぐ)られた。

(僕に凭れて眠(ねむ)ってくれれば良いのに)

 僕は今、キスができるほど、彼女へ大接近している。

 リップグロスやシャインリップを使っているのだろう、潤(うるお)った艶(つや)やかな唇(くちびる)が愛くるしい。

 触れるくらいの近さを意識するだけで、僕の興奮した荒い息は震(ふる)え、心拍(しんぱく)は突撃や非常呼集を促(うなが)す軍楽隊のドラムのように急連打して、部活のトレーニングと弓道場の後片付けで疲労(ひろう)した身体にアドレナリンを駆(か)け巡(めぐ)らせた。

 いつもの通学コースと違って、遠くの町まで来て疲れたのだ。

 きっと金石の浜まで行ったのも初めてで、夕陽が沈んでも、小さな砂丘の上から黄昏(たそがれ)の海を見ていたのだろう。そしてラーメン屋で空腹を満たして心地良(ここちよ)くなり、安心感と疲労感も加わってウトウトしている。

 疲れて眠る彼女の髪を撫(な)で上げて、少し陽に焼けた感じの綺麗(きれい)な頬を慈(いつく)しみたい。

(ゴックン!)

 無意識に唇を舐(な)めて生唾を飲み込んだ。

 バスは香林坊界隈(かいわい)の外(はず)れに在る新聞社前の交差点を越(こ)して行く。

 降車する香林坊のバス停まで、あと200メートルほどだ。

 僕は震える息を深く吐(は)き出して、彼女の息でニンニクの臭いが充満(じゅうまん)するバリアーの中の空気を大きく吸い込んだ。

(いっ、今がチャンスだ!)

 彼女の耳に付けた、インナータイプの光るイヤホンから小さく音が漏(も)れていた。

 その小さく漏れ聴こえる急テンポなスイングダンス風のリズムは、まるで、エンターテインメントやサーカスショーの、クライマックスに集中させるドラムロールのように響(ひび)いて、恋焦(こいこ)がれる想いに後戻(あともど)りできない焦(あせ)りの意識がプラスされた僕を、激(はげ)しく突き動かす。

(しょっ、しょうがないなぁ……。うう……、やっ、やるぞ!)

 明確(めいかく)に自分が欲(ほっ)する自己中(じこちゅう)で淫(みだ)らな望(のぞ)みなのに、腹黒(はらぐろ)い欲望に塗(まみ)れたエセの自分と魅惑的(みわくてき)に僕を惑(まど)わす誘う彼女のリップの所為(せい)にできる免罪符(めんざいふ)が欲(ほ)しい。

 アドレナリンの興奮に、疲労で分泌(ぶんぴつ)された脳内麻薬物質のエンドルフィンが合わさり、僕の自制と冷静さを麻痺(まひ)させてトキメキの衝動(しょうどう)へと走らせて行く。

 バスの揺れに合わせ、かなり無理な捩(よじ)れた体勢で顔を窓ガラスに摺(す)り付ける。

(揺れのタイミングを誤(あやま)ると、顔ごと、ぶつけてしまいそうだ……。……あっ! うっ!)

 慎重(しんちょう)にしなければと思った瞬間、大きく振(ふ)られるような揺れが、車窓のガラスで反射(はんしゃ)した車内灯の光りに、青白く照(て)らされる妖艶(ようえん)な唇の直ぐ横の頬と、くすむピンク色の悩(なや)ましい唇の端(はし)に、強く印(いん)を押すようなハードタッチのキスをさせた。

(げっ、げげっ!)

 キスを気付かれたら、終わりだ!

 キスに動揺(どうよう)した彼女は、怒(いか)りだすだろう。

 僕の頬を力任(ちからまか)せに思いっ切り引(ひ)っ叩(ぱた)き、軽蔑(けいべつ)され、未来永劫(みらいえいごう)嫌われる。

 僕は一巻(いっかん)の終わりで、サドンデスだ!

 そう思ったけれど、この卑怯(ひきょう)でも、巡り逢(あ)わせたチャンスを失いたくないと、己(おのれ)の中の脅迫めいた、どうしようも無い衝動を抑(おさ)え切れなかった。

 彼女の閉じた瞼が僕の眼前……、ほんの数ミリ向こうの焦点(しょうてん)が合わないゼロ距離の近さに迫ったままだ!

(た、頼(たの)む…… 今、目を開けないでくれ……。気付いても、気付かないフリをしてくれー)

 彼女の閉じた瞼の脇と眉間(みけん)に皺(しわ)が寄った刹那(せつな)、揺れの頂点(ちょうてん)で瞬間的なキスは終り、揺れ戻しで窓ガラスに押さえ込まれないように、先にガラスへ後頭部を擦り付けてずらしながら唇をソフトに離し、タッチ・アンド・ゴーのタイミングで、さっと身を翻(ひるがえ)す。

 直ぐに彼女が、ビクっと身体を震わせて起き出したのが分かった。

 僕は急(いそ)いで体勢を整(ととの)えながら、バスの揺れの不可抗力(ふかこうりょく)で体が当たったフリをして、彼女の背中を押す。

 いや、押すというより、突くように当たってしまった。

 背中を押されたのに気付いて覚醒(かくせい)した彼女は、慌(あわ)てて顔を起こし、バスの中を見てから窓の外を見た。そして、勢(いきお)い良く振り返って、涎を拭(ふ)くような仕種(しぐさ)をしながら僕を見る。

 その表情から今、自分のいる場所、状況、すべき事を瞬時(しゅんじ)に理解したようだった。

 僕を見る彼女の顰(しか)めっ面(つら)は、背中を押された事が、かなり痛くて驚(おどろ)いた様子で、僕は彼女から恨(うら)みを買ったかも知れないと察(さっ)した。

 視界の隅(すみ)に映る彼女の姿に恨みが混(ま)ざって行くのを感じながら、僕は立ち上がり、天井(てんじょう)の手摺(てすり)を掴(つか)む。

 天井にも設置(せっち)されている降車ブザーを押して彼女を見ると、彼女は僕を追(お)うように急ぎ立ち上がったところで、更に怪訝(けげん)な目付きを僕に向けて来る。

 その互いに見合った目を反射的に逸(そ)らし、僕はバスの前部に在る降車口へと視線を流す。

(さぁ、僕に付いて来い。バスを乗り継ぐぞ! フォロー・ミー!)

 僕の唇の半分はを彼女の唇へキスをして、もう半分は食(は)み出して頬へとキスをしてしまい、その被った頬の温(あたた)かさが嬉(うれ)しく、頬肌(ほおはだ)の張(は)りの有る柔(やわ)らかさが愛しくて、僕は自分の掌(てのひら)と頬で、もう一度、ちゃんと彼女の許可を得て彼女の頬に触れ直したいと、有りそうもない妄想(もうそう)を描(えが)いてしまう。

 それは強い『やっちまったか』感で後悔(こうかい)する事になる1回で2度美味しい、少し拉麺(ラーメン)と餃子の味と両方の匂いが香る、僕の一撃離脱(いちげきりだつ)のファーストキスだった。


 つづく

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