第 一 回 ①

草原乱れてジョルチともに争いたお

族長しゅっしてフドウたちまのがれ走る

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 とある竜の年(注1)のこと。強盛を誇ったジュレン帝国ウルス(注2)の瓦解からおよそ百年、ここ草原ミノウルは群雄の割拠するところとなっていた。ひと口に草原ミノウルと云うが、まず舞台となるのは「中原」と呼ばれる一角。文字どおり草原ミノウル全体の中央に位置し、東の大ズイエ河、西のメンドゥ河の間に広がる平原タル・ノタグである。


 ここにジョルチ部という部族ヤスタンがある。かつては中原に覇を唱えたこともあったが、今や昔日の面影なく四分五裂して、すっかり乱世の時流に呑み込まれてしまった。そんなジョルチ部を形成する六氏族ゾルガーン・オノルのうちに、フドウ氏という小さな氏族オノルがあった。物語ウリゲルはそのフドウ氏の族長ノヤン、フウのゲル(注3)から始まる。




「私たちはいつまで堪えねばならないのでしょう」


 夜半、押し殺した声で問いかけたのは、フウのエメムウチ。


「もうしばらくだ。今はまだ堪えねばならぬ。やがて我がジョルチ部に英雄が出るだろう」


 フウは力なく言った。それはムウチに答えるというよりも、己に言い聞かせているようであった。


「その言葉、いつも承っておりますけれどもいっこうにそのしるしなく、ただただ敵襲に怯える毎日……。なぜ先祖ボルカイを同じくするものが争わねばならぬのですか」


 これには答えることができずにうつむくばかり。英雄はきっと現れる、そう信ずるほかない。


 それにしても憎むべきは、南方遥か長城ツェゲン・ヘレムの彼方にある中華キタドと、その走狗となったヤクマン部のハーン、トオレベ・ウルチである。


 つい十年ほど前までフドウ氏の属するジョルチ部は、ベルダイ氏やジョンシ氏を軸によく力を併せ、中原の北半をほぼほぼ制して、周辺のマシゲル部やタロト部を圧倒する勢いであった。


 ところが隆盛というのは続かぬもので、ヤクマン部が中華キタドと結んで勢力を伸ばし、謀略を駆使してジョルチ部内の離間を図ってきたことから何かが狂いはじめた。まず部族ヤスタンの中核であったはずのベルダイ氏が分裂する。これを契機に造反するものが続出、造反はさらなる造反を呼び、内紛でジョルチ部は多くの若者を失った。


 さらにヤクマン部は、大ズイエ河の東岸彼方を牧地ヌントゥグとするナルモント部を誘い、勢いの衰えたジョルチ部を攻めた。これに対してまとまった抵抗をすることができずに、ジョルチ部はほぼ崩壊してしまったのである。多くの若者がブルガの捕虜となり、モリホニデイなどの財産や婦女子は、略奪の対象となった。


 あれから十年になるのか……、よく今まで生きていたものだ。フウは今さらながらにそう思った。四散してしまったあとも部族ヤスタンは内部で争い続けている。加えてヤクマン部など外敵の脅威にも常にさらされている。「」とはまさにこのこと。


 フウはなおも思う。我らは狡猾極まる中華キタドやトオレベ・ウルチに踊らされているのだ。そもそも我々は朴訥ぼくとつに過ぎた。ゆえにむざむざと奸計にまったのだ。おかげでもとを辿れば同族だというのに本心から憎み合っているものもある。嘆かわしいことだ……。


 しかし、そう独りごちたところで、力がなければ何の意味も成さないのが草原ミノウルヨスである。


「力か……」


 思わず声に出して呟く。


「何か、おっしゃいましたか」


いやブルウ、何でもない。ところでムウチよ、腹の子はいつ生まれるのだ」


 あわてて言えば、ムウチは軽く首をかしげて、


「そう、あと三月か四月か……」


 フウはにわかに向き直ってムウチの両肩をつかむと、


「きっと英雄は現れる。この子が大きくなるころには再びジョルチはひとつになる」


「それまで生きておればよいのですが……」


不吉ベリクウダイなことを申すな。信じておれ」


 やはりそれは己に言い聞かせているようであった。フドウ氏の族長ノヤンとその妻は、今日も不安な夜を過ごす……。




 フウの言うところの「英雄」とは、ジョルチ部の伝承に由るものである。曰く「ジョルチ部が分かれて相争うことがあれば、必ず英雄が現れてヂャサを定め、草原ミノウルに君臨するであろう」と。だから必ずしも根拠のある言葉ではない。彼らはすでに伝承に頼らざるをえないほど疲弊していたのである。


 ところが歴史というものは不思議なもので、治世には必ず騒ぎを起こすものが現れ、乱世にはまた騒ぎを治めるものが登場するのが常である。


 ただし「才略アルガのみによって英雄たることはできない」と謂う。どういう意味かと言えば、英雄とは乱世においてその登場を望む声が高まって、初めて英雄として迎えられるということである。


 けだし英雄を待望するものが多ければ、これすなわち英雄登場の条件は整ったというところ。これをもってこれをれば、フウ夫妻の願いはまさに英雄が世に出でんとしている徴候と言ってよいのかもしれない。


 しかしさすがのフウも、よもやこれから生まれる己の子がその「英雄」になるとは想像もしていないが、それはまたのちの話。


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(注1)【竜の年】十二支における五番目の年。西暦1184年とする説が有力。ただ草原ミノウルでは、貴人の生年を竜の年に合わせて伝えることがあるため、インジャの生年については諸説ある。


(注2)【ジュレン帝国ウルス】952年にムルヤム・ハーンが興した遊牧帝国(~1097年)。


(注3)【ゲル】遊牧民族の住居。天幕。解体して持ち運べるため移動に便がある。中国語でいう「パオ」。

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