第27話 決戦の時
ついに放課後がやって来た。僕は一歩一歩しっかりと、自分の足運びを確かめるようにして武道場へと向かっていた。
普段であればこの時間は柔道部が使用している。しかし今日は頼み込んで一日だけ貸してもらったのだ。
頼むお願いだお願いします。僕の人生がかかってるんです。武道場の掃除でもなんでもやりますだから今日だけ貸してください。……そこを何とか!
……なるほど、あくまでもそういう姿勢であれば僕も対応を考えなくてはなりません。受け入れてもらえないのなら、全裸になってこの武道場を隅から隅までほふく前進しなくては。僕はやります。やれる男です。よーくご存じでしょう?
そう言うと柔道部部長の生徒は快く場所を貸してくれた。僕の見事な交渉術が実を結んだわけだ。代わりに何かを失っているような気がしないでもないが、そんなのは些細な問題ってやつだ。
昼休みにゴーレム先輩とばったり出会したので、朝の礼を言うと、「別にあんたのためじゃない。海香のためだから。勘違いすんなよ」とぶっきらぼうに返してくれた。テンプレのツンデレセリフだったので少しおかしくなってしまった。
その感想をそのまま伝えると尻に鋭い蹴りを喰らったが、鍛えた今の僕の身体はビクともしない。
「せっかく海香の時間を使うんだから、少しは根性見せろよ。しょうもない感じで終わったら殴るからな」
それだけ言ってゴーレム先輩は去っていった。僕はその言葉を激励と受け取った。
さて、この渡り廊下を過ぎれば目的地につく。
聞くところによると高校創立当初から残っている数少ない建物を、目を細めて僕は見上げる。
ここが決戦の場だ。既に道着に身を包んでいる。心身ともに準備万端だ。
神妙な気持ちで僕は武道場の扉を開く。すると、中には既に結構な数のギャラリーが詰めかけていたので驚いてしまった。その人数にではなく、その静まり返った空気に。
中に入るまでこんなに人がいるとは気が付かなかった。それに普段であれば入場曲よろしく罵詈雑言の嵐が浴びせられているところだ。
その理由は、道場の中心に座る一人の女子生徒の存在にある。
志島海香さんが背筋を伸ばして膝を揃え、正座をしてそこにいた。その瞳は今は静かに閉じられている。まつ毛の一本一本が儚く緩やかな曲線を作っている。
先日志門流道場で相見えた時には制服姿のままだったが、今は真っ白い道着に身を包んでいる。
その息を呑むような美しさといったら、僕は他に例えられるようなものが思いつかなかった。彼女の周りだけ空気も分子も全ての動きが停止しているように思えた。世界から切り取られて、彼女の存在が鮮明にそこにある。
それでいて自然にも感じるから不思議な感覚だ。この空間を形作る、当たり前にそこにある一要素にもなっている。志島さんと武道場は一体となって見えた。
やはり、志島さんはこの世界で生きてきた人なのだ。そしてその血は今なお彼女の中に流れている。
彼女はスッと目を開けて、真っ直ぐに僕を見据える。その温度はいつもよりも冷たい。夜の海を思わせた。
「来たね、真尋君」
その声に若干震えが混じったように聞こえるのは僕の気のせいだろうか。
きっとまだ迷いがあるのだ。だけどこうしてこの場に来てくれた。だから僕はそれに応える。彼女に残る最後の迷いを、僕の力で拭い去ってみせるのだ。
「お待たせしました。……では、お願いします」
志島さんはこっくり頷くと、ゆっくり立ち上がる。いつから正座をしていたのかは分からないが、一切のブレがない。今ならこの立ち姿からも彼女の実力を感じることができた。
いつぞやデートで行ったゲームセンターで分かったことがある。志島さんはこと勝負ごとにおいては結構な負けず嫌いだ。それならば、もしかしたら負けるかもと思わせるくらい僕が粘ることができれば。志島さんが胸の奥に深くしまい込んだ闘志を呼び覚ますことができるのではないかと思うのだ。
行きます! 一声と共に僕は仕掛けた。狙うはその足下。武道における身体の使い方を学んだ僕はこれまでにない勢いで志島さんに襲いかかる。
当の志島さんといえば、微動だにしない。まだ動かない。まだ、動かない――?
不審に思った瞬間、その両目が僕の目を真っ直ぐに捉えた。……瞳の水面が揺らぐのを見た気がした。
一切の無駄がない動きで、志島さんは僕の懐に潜り込むと当て身で力の向きを変えてくる。さすが、狙うポイントが的確だ。ほとんど衝撃はなかったのに、僕の狙いは逸らされバランスを崩してしまう。
その綻びを見逃す志島さんではなかった。とどめとばかりに後頭部をぐいと押し出された僕は、そのまま前につんのめってしまう。
洗練された志島さんの技に、観衆から「わぁ……!」と深い感嘆の声が上がる。凄いね、志島さんって本当に達人なんだ。知らなかったよ。
でも、まだだ。まだ僕は志島さんの本気を引き出せてはいない。あの刺すような武神の瞳を、そして美しくも力強い技を、僕に向けさせてやる。
体制を立て直して再び向き直る。志島さんは相変わらず涼しい顔だ。鍛えたとはいえ正攻法では力の差は依然果てしない。だけどそんなことは折り込み済みだ。ここからは絡め手も含め、やれることはなんでもやってやる。
僕は再び志島さんに正面から仕掛ける。ぶつかる寸前に、全身をバネのようにして思いっきり跳躍した。
何度も言うが、僕は身体能力には自信がある。確かな助走と踏み切りがあれば、女子高生くらいなら飛び越えられる。
僕の大ジャンプに観衆は「おぉ……」と声をあげる。志島さんの目が驚きに見開かれる。上手く意表をつけた。
一気に背後をとり、着地の衝撃を身体を捻ることで回転エネルギーに昇華。その勢いで足払いを仕掛ける。
しかしその狙いは阻まれる。志島さんは足の裏で僕の攻撃を防いだ。前を向いたままなのに、よく反応できたな……。
「凄いね真尋君。ちょっとびっくりしたよ」
「まだまだ! これからです!」
そう言って一度距離を取って呼吸を整える。クールダウンだ。大丈夫、まだ手はある。やれることをやろう。
リズムを変えてゆっくりと、孤を描くようにして志島さんとの距離を詰めていく。表情を変えずにそれを深く澄んだ瞳が追ってくる。
一歩、二歩、やがて手を伸ばせばギリギリ届くか届かないかくらいのところまで近づいてきた。志島さんはなおも変わらず僕を見据えている。あくまでも僕の攻撃を受け切るつもりだ。この勝負において挑戦者は僕。ならば攻めるのみ。
ヒュっと息を吸いこむと、足をほとんどスライドさせるようにして瞬時に距離を詰める。意識するのはノーモーション。踏み込みも踏み出しもほぼ完全に平行に。
それと同時に両手を突き刺すように志島さんの顔の前へ突きつけ、両手のひらを鋭く打ち合わせた。
パァン! とけたたましい破裂音が武道場内に響き渡る。その音に何人かの生徒がビクッと身を固くした。
そして、それをほぼゼロ距離で受けた志島さんは――。
「ッ…………!」
効果、アリだ! 流石の志島さんも顔をしかめて動きが一瞬止まる。そしてこの一瞬が勝利への糸口となる。
何回目かの挑戦にして、僕は初めて志島さんの腕を捕らえた。観衆の女子生徒の悲鳴が上がる。やかましいわ。
志島さん本人も言っていたことではあるが、純粋な力比べでは流石に僕に分があるはずだ。組めば負けない!
……そう確信したのも束の間、視界がぐるりと回る。気がついた時には僕は地に組み伏せられていた。
「いっ……あれ? 何が起きた……?」
「猫だましは結構良かったけど、掴んじゃったらだめだよ。反応できちゃうから」
僕の上でそう言うと志島さんはスッと降りて解放する。
マジかよ……と思いながら立ち上がる僕に、観衆の容赦ない罵声が飛んできた。
「そんな姑息な手を使ってでも勝ちたいのか!」
「志島さんの腕を、あんな汚らわしい男の手が掴むなんて……! 耐えられないわ!」
「ズルい! 妬ましい! 俺も志島さんに組み伏せられたい! 涼しい笑顔のまま折れるギリギリのところまで腕を捻り上げられたい!」
そんな連中に向けて僕は「じゃかあしいわ! こうでもしなきゃ勝てないし、どんな手使ってでも勝ちたいんじゃ!」と負けずに言い返す。
志島さんは心配そうな表情を見せる。
「真尋君、大丈夫?」
「何の問題もありません。僕は五体満足です。まだまだやれます」
しつこいぞ花岡! と周りから野次の嵐が襲い来るが、そんなものは無視だ。
他の連中のことなんてどうでもいい。それより問題は志島さんだ。今の僕の眼中にあるのは彼女だけだ。
なんの成果も残せずあっさり瞬殺されるのはいい。表情一つ変えずに転がされるのもいい。
だけど、同情するような顔をされるのが、一番悔しい。
「誰に何を言われようと関係ないです。何度でも言います。僕は志島さんのことが好きなんです。だから志島さんに相応しい男になりたいんです」
そうだ。僕は胸を張って志島さんの横に立つ資格が欲しいんだ。そのためには彼女に挑んで、文字通り勝ち取らなければならない。だって……。
「志島さんは、志島さんより強い男が好きなんだから!」
どよっ、と武道場内にざわめきの輪が広がった。
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