第26話 命を燃やせ

 志門流道場での修行は厳しくも実りのあるものとなった。

 当然僕には水泳部の練習もあり、日によっては平日練習終わりに道場へ足を運んだりもした。体力にはかなりの自信がある方だけれど、流石にキツい時もあった。


 だって、ゴーレム先輩の指導が日に日に苛烈さを増してるんだもの……。それだけでも油断すると死を感じるレベルなのに、その後に修行なんかしたら……ねえ。

 予想した通り、道場の人達はマジで僕を殺すつもりの勢いでかかってくる。部活の練習でヘロヘロの時も一才気は抜けなかった。というか、気が抜けそうになると死にかけるので自然と身が引き締まった。


 文字通り命を削る鍛錬の日々。だけど、僕の心の炎は変わらず燃えていた。むしろますます勢いを増しているように感じる。日を重ねるごとに自分が強くなっているのが実感できたからだ。


 というかとにかくタフになった。ちょっとやそっとのことじゃ僕はもう倒れないぞ。

 フラフラになりながらも眼だけは爛々と輝かせる僕を見て、姉貴は少し心配になってしまったようだ。


「真尋……あんた、最近大丈夫なの……? ヤバいものに手を出してない……? お姉ちゃん、こう見えても大人だから、相談に乗れるわよ……?」

「心配してくれるのはありがたいけど、大丈夫さ。最初はちょっときつかったけど、命を狙われ続ける日々にも慣れてきた。最近じゃ、むしろ充実してると言ってもいいね」


 それを聞いた姉貴は涙を流しながらどこかしらに電話をかけようとしたので慌てて止めることとなった。


 ゴーレム先輩も最近の僕には若干引き気味だ。


「どうしたんですか先輩! そんな生ぬるい指導じゃ、生死の境を彷徨えないじゃないですか! もっと僕に、向こう側の景色を見せてくださいよ!」

「花岡……お前、最近おかしいぞ……? 元々おかしかったけれど、ヤバい方向におかしくなってる。いやヤバいのも元々か。言葉って難しいな」

「何をわけの分からないことを言ってるんですか? とにかく、もはや僕の身体はこれくらいの練習じゃびくともしない領域に来ているんです! 先輩ならもっとやれます! 普通の人が躊躇してしまうラインの先まで僕を追い込めるのは先輩くらいですから……!」

「やめろよ怖いよ花岡! あたしが悪かったよごめんよ! 海香のことでは負けたくなくて、意地張っちゃったんだよー!」


 必死な顔でそう言われるが、ゴーレム先輩は何を言ってるんだろう。謝ることなんてないのに。むしろ僕から感謝しなくてはならないのに。先輩の狂人的なスパルタ指導で、僕は壁を越えられたというのに。


 困惑していると、全日本剛田怜夢先輩連盟名誉理事を自称する松岡が「お前、先輩に何をしてるんだァー!」と僕に向かって猛然と突進してきた。

 あああ! プールサイドは走っちゃだめだよ! と久方先輩が制止するのも聞こえない様子だ。完全に血が昇っている。


 だが……ぬるいな。所詮はゴーレム先輩の恋慕から来る怒りだけか。僕の命まで届くような鋭い殺気は感じられない。


 だからこそ、これほどまでに鈍く感じるのか。


 駆けてくる松岡の足を素早く払うと、奴の身体は中に舞う。このままではタイルの床面に叩きつけられてしまうので、回転している松岡の背中をトン、とプールの方向へ押してやる。

 派手な水飛沫を立てて松岡の体が水の中へと消えた。


 今までに見せたことのない、洗練された僕の動きに部員たちはぽかんと口を開けている。

 うん、良い感じだ。思わぬところではあったけど、咄嗟の事態にもきちんと反応ができたし、よく見切れている。僕は着実に力をつけている。

 ゴーレム先輩が驚いた表情のまま聞いてきた。


「花岡……お前は、ひょっとして……」

「そうです。最近、鍛えてるんです。……そこまでする必要はあるかって顔ですね。あるんですよ。ゴーレム先輩にもそのうち分かります。大丈夫です。多分、もうそれほど遠くないうちに披露できると思います」


 ゴーレム先輩に言ったことを本当のこととするための機会が、予感した通り数日後にやってきた。

 道場での修行中、ふと悟ったのだ。「今がその時だ」と。


 当たり前だが、僕の実力が道場内で一番になったわけではない。たった数週間の修行で、年単位の鍛錬を重ねる人に追いつけたと思うのは傲慢だ。


 しかし、僕は誰よりも命を削った。濃密な時間を過ごした。その事実が、僕に一人前の勝負士としての風格を与える。このオーラだけは、間違いなく今道場内でトップに立っている自信がある。

 腹を決めたその日、僕は潮さんにお礼を言いに行った。


「稽古をつけてくださり、ありがとうございました。僕は明日、志島さんに挑戦します」

「そうか。そうだな、確かに頃合いかもしれん」


 ならばこれを持って行けと手渡されたのは、僕にはいささか小さいサイズの道着だった。


「海香のものだ。これをアイツに渡すといい。それから場所は……そうだな、やはり武道場がいいだろう。高校でも柔道などの授業はあるのだろう? ならばそこを指定するといい」


 道着……道着……。志島さんの道着……!


 以前までの僕であれば即座に匂いをテイスティングしたり、家に持って帰って裸の上に着ちゃうぞ〜と邪なことを考えていたかもしれない。

 しかし、今の僕は一人の武人だ。そのような下劣な真似は断じてしない。……今が武人モードでなければ良かったのに! ……なんてことは思ってないんだからね! 本当だぞ!




 運命の日はラムネ瓶のように透き通る気持のよい青空だった。鼻をくすぐる微風にはわずかに夏の匂いを含んでいる。じっとりと身体を舐めるような空気は過ぎ去ったようだ。


 来週にもなれば気温は右肩上がりとなり、衣替えによって薄着になった肌をジリジリと焼き始めるのかもしれない。つかの間かもしれないが、この穏やかな気候を存分に味わいたい。


 柔らかな空気を胸いっぱいに吸い込み登校すると、迷うことなく志島さんの教室へ向かって真っすぐ足を進めた。

 おはよう皆今日も一日頑張ろうねと、入学から時間を共にしているクラスメイトに話しかけるように自然に、僕は二年五組の教室をガラガラと開ける。

 当然のようにやってきた僕へ上級生達は一瞬チラリと視線を向けると、またすぐ元の方向へ向き直った。


 ……と思ったら急にガッ! と僕へ向けて目をひん剥いてきた。

 慌てて席から立ち上がり、どやどやと僕を取り囲みはじめる。


「花岡……! よくも抜け抜けとやってこれたものだな……!」

「すみませんお邪魔しちゃって。始業前には退散しますから」

「何をたわけたことを!」


 そう言いながら一人の男子生徒がいきなり掴みかかろうとしてくる。僕は彼が踏み込む瞬間を見て、一気に距離を詰めた。僕の肩と相手の胸がどん、と鈍い音を立ててぶつかる。


 出だしを潰された男子生徒は「うっ」と声を詰まらせて二、三歩よろめいた。

 後続も同様、駆け出すときに肩を上から押さえ込むことで止める。

 すると後ろから肩を押さえ込まれそうになったので、がっちりロックされる前に上に飛んで回避すると、そのまま腰で相手のおそらく顎あたりをぼんと押す。バランスを崩した相手は膝から崩れ落ちて尻餅をついた。


「な、なんだこいつの動き……このキレは……!」


 包囲網の間にどよめきが広がり、じりじりと僕との距離を空けていく。僕はそうして生まれた隙間を悠然と歩き抜けた。

 志島海香さんは、いつもよりも少しだけ瞳を丸くして僕を見ていた。碧海色の虹彩が眩しく輝く。


 隣にいるのはゴーレム先輩。これまでだったら先陣を切って僕を止めにきていたが、今日は志島さんの隣に座ったままだ。自分でもどうすべきか分からないような迷いが、その表情に浮かんでいる。


 僕は何も言わず、スッと一枚の封筒を差し出す。果たし上だ。これで通算何枚目になるだろう。

 しかし志島さんはそれをすぐに受け取ろうとしなかった。代わりに申し訳なさそうに首を振る。


「……ひょっとして、真尋君ならいつかはって思ってたけど、こんなに早いなんて。ごめんね、真尋君の挑戦は、もう受けられないよ」


 僕はその言葉には答えなかった。そして、もう一つ用意していた袋を手渡す。


「これは……私の、道着?」

「潮さんから預かりました」

「お、お父さんが……? まさか……だって……」


 戸惑う海香さん。そして僕は九十度に深く頭を下げる。


「お願いします。もう何回も何回も負けてますけど、やっぱり諦めきれないんです。僕に、最後のチャンスをくれませんか?」


 正直、志島さんに挑戦を断られることはうっすら予想していた。今まで受けてくれたのは、僕の未熟の故に志島さんにとって戦いの範疇に入らなかったからだ。

 逆説的に言えばその範疇に入れば、志島さんが武道家としての力を明確に行使する必要がある。そうなれば話は変わってくる。


 しかしこれは、ある種一枚壁を越えたということでもある。駆け出しではあるが、志島さんは確かに僕を武道家と見なしてくれているのだ。

 あとは全身全霊でお願いするだけだ。僕はより姿勢を低くする。今なら土下座だって辞さない勢いだ。


「お願いします! ラストチャンスでいいです! ……いやごめんなさい、やっぱりあなたに勝つまで何度も挑むかもしれません、それはごめんなさい! でもどうしても諦めきれないんです!」

「どうしてそこまで――」

「好きなんです!!」


 顔をあげ、彼女の深海色の瞳を射抜くように真っ直ぐ見据えて宣言した。


 群衆はざわついていたが、それだけだった。僕の言葉がストレートすぎて、物言いがつけられないのだ。それくらいの言葉が、今はちょうどいい。今はそういう言葉が必要だ。

 ゴーレム先輩が驚いた顔で僕を見る。そして、ゆっくりと口を開いた。


「受けて……あげなよ、海香」

「玲夢……?」

「もちろん、海香がそうしたくないって言うならこんな話受けなくていい。でも……海香の中で少しでも、ほんのちょっぴりでも迷う心があるのなら、花岡のお願いを聞いてあげて」


 ゴーレム先輩が、ためらいがちに志島さんの背中を押している。僕を志島さんには決して近づけまいとしていた、ゴーレム先輩が。

 僕は胸の中に何か温かいものが満ちていくのを感じた。じんわりと、その感覚が指先にまで広がっていく。


「それに知ってると思うけど、花岡ってバカだから。その上無駄に丈夫でしつこくて、諦めが悪いから。だから、あんまりすげなく断りすぎるのも良くないかも……? ほら、ヤバいやつってキレると何しでかすか分からないからさ」


 ゴ、ゴーレム先輩……? 今の今までいい感じだったのに、どうして急に直角に曲がって僕をディスりにくるんですか……?


 僕はじっとりとした目でゴーレム先輩を見る。その視線に気付いてか「悪かったよ」といささか軽すぎる気がしないでもない謝罪が帰ってきた。


「あたし達のこととか、お父さんから言われたこととか、今はそういうこと忘れてさ。海香の、したいように」


 僕には決して向けない優しい声と眼差しで、ゴーレム先輩は親友に話しかける。その声色に、祈りと贖罪の気持ちを感じたように思う。

 そんな先輩に促されるように、ゆっくりと、志島さんは僕に向けて首を縦に振って見せた。

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