第21話 瞬殺からのスタート

 ハッ! と目が覚めると、僕は先ほどまでの校舎裏で横になっていた。いたた……体が痛い。なるほどコンクリの上で寝てたからか。

 腰をさすりながら体を起こして横を見ると、校舎の壁にもたれてちょこんと体育座りをした志島さんがいた。「あ、起きた?」と優しい微笑み。なにこれ、コンクリの上なのに思いつく限りで最高級の目覚めなんだけど。


「ごめんね、体痛くなっちゃった? 土の上よりはいいかなと思ったんだけど」


 うん、だんだん記憶が戻ってきたぞ。確か僕はこの校舎裏で志島さんに勝負を挑んで、それで……なんでここで寝てるんだ? 途中の記憶が全然ないが……。


「ひょっとして僕……瞬殺でした?」

「えと……。まあ、一撃で気絶してくれた、という意味では……」


 なるほど瞬殺も瞬殺だったらしい。その場で倒れた僕を、気を利かせて制服に土のつかないここまで移動させてくれたようだ。


「一応聞いてもいいでしょうか? 僕、何されたんですか?」

「んーと、真尋君の足に力が入るのが見えたから、次に動いてくるなーって分かって。で、目線の動きから多分背後に回ってくるんだろうなと。だとすると一気に距離を詰めるための力が必要だから、そのぶん序動作も大きくなるので……そこを、突きました。真尋君が動く前に動いて、背後から首をこう……トン、と」

「そ、それで気絶? そんな漫画みたいなことが……」

「漫画じゃないよ。首の後ろには神経がたくさん通ってるから、適切に突けば気絶させるのなんて簡単だよ。……あ、でも慣れてない人が下手にやると危ないから、真似しちゃダメだよ」

「しませんしませんできません……」


 は、恥ずかしい……! ちょっとでも「言うて少しは食い下がったりできるんじゃないか?」などと考えていた自分が恥ずかしい!


 何これ。何この差は。次元が違うとはこのことか。志島さんにとって今のは勝負でも戦いでもなんでもなく、肩についた埃をはらう程度のものだったんだろうな……。きっと天津飯もこんな気持ちだったんだろうか。


「僕が動くのを察知して動いたと言っていましたけど、つまり僕の何倍も早く動いたってことですよね。何かコツはあるんですか?」


 後学のために教えを乞うと、「うーんとね……」と前置きしつつも教えてくれる。


「イメージは猫のようにしなやかな感じで、リラックスした柔らかい状態を作るの。それで、身体の先端まで意識を集中させて、全身の繋がりを感じる。すると、自分の力をフルに効率的に使えるから、最小限のエネルギーでも爆発的な力が出せるの」

「分からないようで分かる感じがしますね。確かに水泳でも、体の力は抜いてしなやかに動かすことを意識します」


 力を入れて固めた体で水を切り裂くのではなく、水を感じて体を前に進める。弛緩状態からの爆発は、スタートの飛び込みみたいなものか……。

 ふんふんなるほどと思案していると、そんな僕を興味深そうに見つめている志島さんの視線に気づいた。


「な、なんでしょう?」

「ああごめん、なんでもないよ。……そっか、真尋君は本気だったね」

「……? 僕はいつでも本気ですよ」


 志島さんのことに関しては、と続きは心の中で呟く。それを知らない志島さんは「そうだったね」と言ってくすりと笑う。

 さてと、何はともあれ僕は挑んだ決闘に負けた。その対価を払わなくてはならない。


「さて、どうしましょう? 志島さんが勝ったわけですが……」


 やっぱ脱ぎますか? いつでも行けますよとズボンに手をかけると、いやいやそれは流石に、と制された。


「多分捕まっても厳重注意くらいで、すぐ釈放されるんじゃないかなと思うんですよね」

「うーんと、そういう問題じゃなくてね」


 どうしようかな……と志島さんは思案する。


「やっぱり、元通り私と付き合い続けてみない? 真尋君は少し納得がいかなかったのかもしれないけど、私は私の基準で真尋君を選んだし、そこに後悔も妥協もないの。だから、どうかな?」


 つまり、元通りの関係が希望であると。そう言いたいわけだ。


 僕はその関係にどうにも納得がいかなくて、それで別れを切り出し、果たし状を突き出したわけだ。

 だから、志島さんの要望に対し素直にうんと言えるかと言われたら……そうではない。そうではないんだけど……。


「僕は負けました。勝ったのは志島さんです。志島さんの要望に従いますよ」


 そうだ。僕は負けたのだ。ならばこの結果にガタガタ口を挟む権利はない。


 それに、最初から覚悟の上で挑んでいたことだ。僕は人生を賭けのテーブルに捧げたのだから、この程度で済んでラッキー(いやむしろ一般的な通念で考えると有り余るほど十二分にプラス)と言えるだろう。

 負けの代償は潔く支払う。僕は負けをぼかさない。それが、勝負に挑んだ男としての最後のプライドだ。


 そっか、じゃあ元通りってことで! と、志島さんがほっとしたように呟いた。




 翌週の昼休み、僕は志島さんを校舎裏に呼び出した。僕が志島さんに衝撃の告白を受けた、あの校舎裏だ。


 今日も青空が気持ちよく、空に浮かぶ雲がふわふわと美味しそうだ。

 こんな日に校内カップルが向かう場所といえば中庭が普通だろう。そんな中で校舎の影がこの場所に志島さんを呼んだ理由は、二人の思い出で心を温めたかったわけではなく、ここならば他に人がいないからだ。


「すみません志島さん。こんなところに呼び出して」

「う、うん。大丈夫だよ。ところで、先週もこんなことがあったような……?」


 うーん、それは実際に同じようなことがあったからかもしれないですね。

 僕はスゥッと息を吸い込み、用意してきた言葉を口に出す。


「僕と……別れてください」


 志島さんは頬をぽりぽりかいて苦笑いしながら聞いてきた。


「えーと……。それは、どういう……?」

「恋人関係を解消したい。という、意味です」

「それは分かってるんだけど」

「志島さんに何か問題があったわけじゃありません。これは僕の問題で、こうしないと前に進めないと思ったんです」

「そ、それもこの前聞いたなあ……」


 うーんと唸る志島さん。僕はそこに畳みかけるようにして続ける。


「ところで、僕は志島さんのことが好きなんです。僕と付き合ってもらえませんか?」

「え、えーと……」

「そういえば、志島さんは志島さんより強い男がタイプだと聞きました。というわけで、これを……」


 僕は懐に忍ばせた封筒を志島さんにスッと手渡す。封筒の表面には気合いの入った筆文字で書いてある言葉がある。


「うん、果たし状だね。えーと……Dear Umika……。おお、洋風の書き出しだ。あなたの髪は青空に艶めき、さながらヴィーナスのごとく……。なんか、文学的になったね」

「参考文献の違いですね。この一週間、慣れない図書室に通った成果が出ました」

「なるほど……。努力の成果が出てるね」


 お褒めに預かり光栄です。


「そういうわけで、あなたに勝負を挑みます。僕が勝利した暁には、僕の強さを認めて交際すると共に、武道を再開してください。敬具 花岡真尋。……Dearから始めたのに結びは敬具?」

「英語版の敬具が分からなかったんです。ところで、そこに書いてある通りです。志島さん、僕と戦ってください!」

「は、ははあ。なるほどそう来たか……」


 少し戸惑い気味の志島さん。まあそうだろう。先週からの今週で、僕は全く同じようなことをやっているわけだ。怪訝に思われても仕方がない。……でも!


「僕は、諦めないですよ」


 志島さんの目をまっすぐ見据えて宣言する。僕の瞳に揺らぐ炎が、志島さんにも燃え移ることを信じて。

 バチリと視線がぶつかる。発生した火花は志島さんの虹彩を撫でて、落ちた。

 フッと視線を逸らし志島さんは告げる。


「分かったよ。じゃあ早速始めようか」


 言いつつも志島さんは構えるそぶりがない。いや、これが志島さんの構えなのか。あくまでも自然に、ニュートラルに、リラックスした状態で余裕の表情を見せる。


 多分意識をしているわけではないんだろうけど、この時の志島さんは余裕かつ不遜な空気感もまとっている。それは勝負士としての気概であり、プライドだ。こうあうところからも、僕は彼女の中に一本通る武人としての柱を感じる。


 僕は半身引いて構える。この前は動き出しを突かれた。だが志島さんは別に瞬間移動したわけじゃない。体重移動の時、僕の動きが止まるタイミングで動かれたから物凄い速さに感じたが、分かっていれば目で追えるはずだ。


 じり、と足を動かす。志島さんは動かない。まあ、さすがに付け焼き刃の撒き餌には引っかからないよな。

 ならばこちらから攻めるしかない。先日の教訓を生かし、最低限の動きで距離を詰める。


 志島さんはまだ動かない。視線をバチバチに合わせつつ、視界の外で僕は志島さんの足を狙う。志島さんは全く避ける動作をしない。これは捉えた!!


 ……いや、空ぶった? 期待された衝撃がなく僕は若干バランスを崩す。見ると志島さん、頭の位置を変えず体感を一切ブラさず、足だけを上げて僕の攻撃を避けている。


 マジかよ、と思わず驚嘆してしまった僕の耳元に、普段と変わらぬ涼やかな声が飛び込んでくる。


「よそ見はダメだよ」


 ビリビリと全身の毛穴に痺れるような感覚が走る。身体が危機を知らせてくれているのだ。僕は反射的に上半身を引く。

 瞬間、顎先を志島さんの掌底が掠める。あっぶねえ間一髪! 


 そして再び視線が合う。少しだけ見開かれた眼にはわずかな驚きと共に火花の欠片が走ったような気がして、勝負のさなかにも関わらず僕は少しだけドキッとしてしまった。


「やるね」


 その言葉を耳にしながら、僕の視界は回る。


 ズシっと背中に鈍い衝撃、そして目の前に広がる校舎に切り取られた空。

 今度は気を失わなかったが、僕は仰向けに転がされていた。やはり今回もダメだった。だけど、


「よし、前回よりは持ったな!」


 そう、前よりも進歩した。その結果こそが最大の成果だ。

 地面に大の字になりながらも満足そうな僕を見て、志島さんが問うてきた。


「真尋君は、何かを諦めようと思ったことはないの?」

「そりゃもう、いくらでもありますよ。でも……」


 言いつつ、よっこらせと立ち上がる。


「自分の心が求めているうちは、諦めたくないんです。全力で足掻きたいんです」


 自分が心底欲しているもの。それがやっと分かったんだ。


 僕は当初、短絡的な欲望のままに志島さんと交際を始めた。あの瞬間も疑問に思わなかったわけではないが、それ以上に僕の心が、このハイパー可愛い先輩と付き合えることを喜んでしまったのだ。


 しかし、少なからずも志島さんと同じ時を過ごして気づいた。僕は本当の意味で志島さんに選んでもらうことを望んでいるのだと。

 ある種、その資格は一度志島さんから授けられた。でも、僕が欲しているものとは少し違った。

 それが欲しいと、僕の心は喉が破れるほどに叫んでいる。ならば僕はそれに従いやり抜くだけだ。


「そうか……。真尋君は強いんだね」

「ただしつこくてワガママなだけです。本当に強かったなら良かったんですが」


 さて、それはさておき、今回も僕は負けてしまったわけだ。

 どうします? 脱ぎましょうか? と言うと、志島さんは苦笑いしながら首を横に振って「じゃあジュースでもご馳走してもらおうかな」と言う。


「そんなもんでいいんですか? 対価として安すぎる気が……」

「う〜ん、本当に喉は乾いてるし、他に思いつくこともないしなあ……」


 志島さんはしばし考えたのち、「あ、それなら」と呟くと、イタズラっぽい笑みを浮かべて言った。


「まあ、ひとつ貸しってことで」


 その仕草に、僕はおもわずまたドキリとしてしまった。

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