第16話 どうなんですか志島さん

 穏やかな春の陽気も過ぎ去り、肌に触れる風にまとわりつくような印象を感じるようになってきた。もうすぐ梅雨だ。運動部にとっては辛い時期になってきた。


 こういう時水泳部の僕は「涼しくていいなあ」と言われがちだが、それは大きな間違いだ。皆だってプールに入った後は凄く疲れるし、身体もホカホカしているだろう。


 そう、水泳っていうのは全身運動なのだ。そして僕らは一日の練習で何キロも何キロも泳ぐことになる。当然、汗をびっしょりかいているのだ。水の中にいるので気が付きにくいけど。


 だから体はしっかり温まるし、喉もばっちり乾く。シャワーを浴びて制服を着ても、体内にこもる熱ですぐに汗が吹き出してしまうんだ。この辺りはその運動部と一緒なんだよ。


 なので練習後は大抵部室の中で全裸かパンイチになり、ストレッチをしつつ身体を冷やすのだが、いかんせんこの時期は空気自体がべたついているもんだから、裸になってもじっとり気持ち悪い感覚がぬぐえない。

 残念ながらエアコンなんて素敵なものは部室に整備されてないんだよな。夏は地獄やで……。


 まあでも、汗をたっぷり吸った練習着が基本的には生まれないという点では、やっぱりほかの運動部よりは幾分かマシなのかも。水着も洗えばいいしね。


 という水泳部事情を志島さんに話すと「そうだよね。泳いだ後って凄い疲れるもんね。プール授業の次の時間とか、眠くてたまらないよ」と納得してくれた。


「志島さんは部活やってないんですか?」

「うん、今はなんにも。入ろうとは思ったんだけど、どれもピンと来なくて」


 私って無趣味なのかな……? と頬をかきながら志島さんは言う。そこに僕は、用意してきたセリフを続けた。


「そういえば志島さんちは道場でしたよね? 家で稽古をしてるとか?」


 そう、この会話の流れ。シミュレーション通りだ。

 姉貴との問答で、気になってることを志島さんに聞くと僕は決意した。だけど、いきなり聞くのはなんだか不自然だろう。


 それを解消するためまずは自分の話をした上で、会話の流れとして志島さんの家の話、つまり武道の話に持っていった。我ながら完璧な流れだ。自分のトーク力が恐ろしい。ホストになったら天下取っちゃうかも。ならないけど。だって志島さんがいるし。


 これから伝えたいことは要するに、「いつもの君も素敵だけど、あのデートの日に見た君はさらに素敵だったよ。この世の理では推しはかれぬほどの美しさ。そしてサファイアのような気高い輝き……。それを、もっと広い世界に届けてみないかい? この輝きを僕が独り占めするのは、罪だと思うんだ……」ということになる。ん? 全然要せてない気がするな?


「いや、今は全然やってないかな」


 あれ、そうなんだ。ちょっと意外だ。


「現役の武道家なのかと思ってました」

「まあ、実家が実家だからね。前もちらっと言ったけど、ちょっとは武道の心得があるんだよ。でも中学二年生くらいからは全然稽古してないな」

「ほんとですか? でもこの前の投げ、すごく綺麗だったので。流れるような感じで無駄がなくて、むちゃくちゃカッコよかったです」


 素直にそう伝えると、志島さんは少し目を丸くして照れくさそうに笑った。


「この前のは全然ダメだよ。ブランク感じちゃった。力任せだし体幹もブレブレだし、身体がついていかなかったよ」


 あ、あれで、ですか……。


「でもそう言ってもらえるのはちょっと嬉しいな。中々そういう人いないから」

「そうなんですか?」


 あれだけ見事な技だ。きっと褒め称える人も多かろうと思っていたが。


「そうだよ。怪我してない? とか、危ないよ? とか。心配の方を先にされちゃう」

「なるほど……。まあ分からなくはないですね。もし志島さんの顔に傷でもできたら、僕なら卒倒します」


 そしてどんな手を使ってでも見つけ出し、地の果てまでも追いかけ、己の罪を全て懺悔するまで激詰めするけどな。

 大げさだな、と笑う志島さん。


「そう、だからね。私、もっと強くなろうと思って」


 うん? どういうことだ?


「もっともっと鍛錬して、誰と戦ってもかすり傷ひとつ負わないくらい強くなれば、みんな心配しなくてもよくなるでしょ?」


 ケロッとしたお顔でなかなかハードな武人思想を述べてくるので、思わず面食らってしまった。

 この人、僕が思ってたよりもずっと武道家としての血が濃いのかもしれない。


「だけど、みんなはそれを喜んでくれなかったな。お父さんからも、一度武道から離れなさいと言われて、それっきり稽古させてもらえなくなっちゃった」


 自嘲気味に笑いながら志島さんは続ける。


「代わりにみんなの勧める通りに髪も伸ばして、玲夢に聞いてオシャレもして、丁寧な感じに振る舞ったらすごく喜んでくれて、褒めてくれたりもして。それで思ったんだよね。きっと私、何か間違えちゃってたんだな、って」

「間違いなんてことないと思いますけど。だって志島さん、武道が好きなんですよね? 好きに正しいも間違いもないはずです」


 なんだか我慢できなくなって口を挟むと、志島さんはきょとんとした顔を作る。僕、なにかおかしなことやっちゃったかしら。


「好き……か。考えたことなかったや。そうかー、好きかー……。うーんどうなんだろ?」

「好きだったから続けてたし、頑張ろうと思った……んじゃないんですか?」

「なんだろう。私にとっては生まれたときからそこにあって親しんできたものだったから。例えば玲夢とお出かけしたり、真尋君とお話する時間はとっても好きな時間なんだけど。武道で考えると……うーん……」


 思いっきり頭にハテナを浮かべながら小首を傾げて考え込む志島さん。

 非常に可愛らしい所作だけど、この言葉にはかなりの重みがあると僕は思った。


 さっきは謙遜していたが、やはり志島さんの技量はかなりのものがあると思う。素人目ではあるが、少なくとも一朝一夕に身につくものではないはずだ。

 それだけのものについて、志島さんは好きとも嫌いとも明言しなかった。考えたこともないという。


 息をするのと同じくらい当然に、心臓を動かすのと同じくらい意識するまでもなく、彼女は武道に触れてきたのだと思う。三代欲求以前の、「生きる」という行為に内包されている基礎プログラムなのだ。


 だけど、僕には忘れられない顔がある。

 父である志島潮さんをぶん投げたあとに見せた、あの顔。瞳に一瞬ともった火花。


「勝手なこと言ってたらほんとすみません。でも、多分志島さんは武道が好きなんだと思いますよ」

「そう……なの、かなあ」


 でも、辞めちゃったしな……と志島さんは続けて呟いた。


 胸の中でぐるぐると何かが渦巻くのを感じる。これは怒りでもなくて悲しみでもなくて、形容するなら……そう、僕は納得がいかないのだ。


 こんなに可愛い女の子が危険なことをしていたら止めるのは当然だ。誰だってその容姿を活かせるような方向をお勧めするだろう。


 そうして生まれたのが今日この日の可憐な志島海香さんだ。その輪郭はきらめく光彩を放ち、あふれ出すマイナスイオンで周囲の人を安らげる。そんな超美少女だ。育成大成功だ。みんなにお礼を言いたい。


 でも……。だからって、あの練り上げられた技量を隠してしまうのは……もったいないじゃないか。生きることと同じくらい、考えるまでもなく当たり前に身につけたものを手放してしまうなんて、そんなの悲しいじゃないか。

 今の彼女は文句なしに素晴らしい。でも、あの姿を殺してしまってよいのか。


「僕は、あの日見た武道家の志島さんは最高に素敵だったと思いますよ。もちろん今の志島さんも素敵ですけどね!」

「真尋君はマイノリティだねえ。すごく嬉しい意見だけど、日本は民主主義だから、多数派に従わないと……」

「い、生き方と社会の仕組みは関係ないのでは……?」

「そう? そうだよね。でも……」


 私、もうよく分からなくなっちゃったんだよね。


 志島さんはそう言ってからりと笑った。


 その声に、寂しさと諦めが混じっていたように思えるのは、単なる僕の気のせいだろうか。

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