第13話 男の決闘 ~in 水泳部~

 男には決して引いてはならない瞬間があるものだ。


 この学校に入学してまもなく。僕は水泳部同期の松岡と揉めに揉めることがあった。

 本当は水泳を辞めて他の部活に行こうと思ったが、ゴーレム先輩がいたから水泳を続けることにしたのだと入部早々僕らの前で宣言していた松岡はその日とても興奮していた。


 曰く、練習中に何かを探していたゴーレム先輩を見て、もしやと思いストップウォッチを差し出したところ「お、ありがとう。松岡は気が利くな」と言われたとのこと。それを理由に、一年男子で最も信頼が厚いのは俺! 俺! 俺俺俺俺ということらしい。

 あぁ〜真夏のジャンボリぃ〜なテンションで熱くまくしたてる松岡は勢いそのままにゴーレム先輩の良さについて語り始めた。


 正直僕はほとほと呆れていたが、ロッカーが隣であり数少ない同期でありまだ出会って数日と経っていなかったことから、無下にはせずとりあえず話を聞いていた。


「まあ確かに先輩は魅力的な人だよな。足とか凄い綺麗だしな」


 跪いて足をつたう水滴を舐めたいくらいな、といい感じに話を合わせていると松岡は急に冷めた顔になって、


「は? お前その程度かよ。浅い男だな」


 などとのたまった。

 この返答には仏の僕もさすがにカチンときてしまった。


 練習後の疲れ切っているタイミングでお前の嘘か本当かも分からない与太話に付き合ってやってたのに、その態度はなんだ。そんなに言うならお前の推しポイントを教えてもらおうじゃねえか。さぞ立派なんだろうな?


 そう啖呵を切る僕を余裕しゃくしゃくと言った表情で松岡は見ていた。その表情も僕の神経を逆なでさせた。


「ハッ、何も理解していない愚か者め。哀しいくらいに薄っぺらい人間だ。……仕方ない。いいだろう、教えてやる」


 松岡は必要以上にもったいつけて言った。


「……鎖骨だ」


 スレンダーなスタイルの良さに目が行きがちだが、水泳で鍛え引き締まった肉体美こそが先輩最大の魅力である。背が高いため目立ちにくいが、肩幅は優秀な水泳選手らしくガッチリと広めだ。


 それを支える鎖骨が良いのだ。鎖骨という部位特有の触れれば折れてしまいそうな、ガラス細工のような危うさとスポーツ選手の力強さが混じり合うアンバランスさ。相反する二つのイメージがあの鎖骨には共存している。


 どちらかに偏るのではなく、両方を兼ね備えることで全てを網羅する、そんなユートピアがわずか十数センチの世界に広がっているのだ。それこそが先輩の一番魅力的なポイントである。


 松岡は朗々とした調子で語る。あのくぼみに富士の清水を注ぎ飲み干したなら、きっと永遠の若さが得られるに違いない……! とのことだ。僕は心の底からこいつのことを変態野郎だと思った。


 正面切って睨み合う。僕はゴーレム先輩の足推しで、松岡は鎖骨推し。二つの道は平行線で決して交わることはない。

 男同士このような事態になってしまっては、もう取りうる道は一つ。決闘しかない。


 僕らは水泳部員だ。ならば、問われるのはどちらがより優れた選手なのかという一点のみ。勝者の意見こそが正義となる。弱者に開くことを許される口はないのだ。

 すぐにでも勝負と行きたかったが、監督者のいない場で万が一が起こった時は取り返しがつかないと、男子水泳部部長である久方先輩が半泣きになりながら必死に主張したので、翌日の練習中に決行することとなった。


 久方先輩は一晩寝れば僕らの頭も醒めるのではないか……と期待していた節があるが、それは見込み違いだ。男がプライドをかけたなら、その炎は決して消えることはない。先輩は少し優しすぎるきらいがある。


 翌日の自由練習の時間。僕と松岡は飛び込み台の上に並んで立つ。種目は百メートル自由形。お互いの専門種目だったためすんなりと決まった。

 その様子を部員が遠巻きに見守っていた。後から知ったのだが、久方先輩が上手いこと言ってくれたようで、手放しに歓迎とは言わないまでも僕と松岡の決闘は公認のものとなっていたようだ。


 本番さながらの緊張感。いや、決して負けるわけにはいかないというプレッシャーは本番以上のものがある。肌がビリビリとひりつく。首元を一筋の汗がつたうのを感じた。


 スタートの合図と共に僕らは水の中に飛び込む。視界が青く染まる。


 水の中は孤独な世界だ。外界の音は分厚い膜を通したように聞こえる。ここで聞こえるのは自分自身の息遣いと心臓の鼓動だけ。

 水面を切り裂くようにして水上に身体を出すと、鋭いクロールで泳ぎ始める。松岡とはほぼ同列で並んでいることを息継ぎの際に感じる。


 早くも二十五メートルを泳ぎ切り、スピードを殺さずにターンを決める。これをあと3本だ。

 水をかく。水を蹴る。最小限の動きで呼吸をする。だんだんとそのテンポを早めていく。


 そして迎えた二度目のターン。僕は違和感に気がついた。


 水着が……ずり下がっている?


 ば、バカな! 競泳水着だぞ!? ちょっと頑張らなくては履けないくらいにキツキツピッチピチだぞ? それがどうして……。


 ハッ……! まさか……ターンの時か!?


 僕はヒートアップしていた。ベストパフォーマンス以上の結果を求めようと、かかり気味になっていた。それが僕のフォームを僅かに崩していたのだ。

 理想的ではない力任せのターン。それでいて勢いはいつも以上。水流に負け、水着がずり下がるのも必然と言うべきか!


 僕は焦る。水着のリカバリをすれば失速は免れない。そうなれば最後、間違いなくこの勝負には負けるだろう。しかしこのまま泳ぎ続ければ最悪皆の前で生まれたままの姿を晒してしまうことになりかねない。一体どうすべきか――。


 いや、心は決まっていた。僕は男としてのプライドを守るために戦っている。そのためならば、命だろうとたった一枚身につけた競泳水着だろうと投げ捨てる所存だ。


 ペースは落とさなかった。

 以前松岡とは横並びだ。一瞬の緩みも許されない。


 水着はみるみるずり下がっていた。半ケツを通り越して四分の三ケツまでいってるのが分かる。ケツの谷間を流れる水流でわかる。


 そしてやってきた三回目のターン。

 ここにきて僕は素晴らしく理想的なターンを決めた。身体全体をしなやかに使い、抵抗を受けることなく水を切り裂く弧を描いた。


 そして、水着は完全に脱げた。


 股間のモノが水流に煽られる。僕は今、全身を余す所なく水に包まれている。

 こんなにも気持ちの良いものなのか――。


 この世界において僕と言う存在を確保している輪郭が、水の中に溶け出していくのを感じた。今この瞬間、僕は水であり、水は僕だった。


 泳いでいるのに泳いでいないような、キツイのに楽なような、そんな不思議な感覚だった。これがランナーズハイ、いやスイマーズハイ、むしろゼンラーズハイというやつだろうか。


 ダンッ! と、四回目の二十五メートルを泳ぎ切り、僕は激突するようにして壁にタッチする。同時に、隣のレーンで松岡もゴールするのが分かった。


 どっちだ……? どっちが勝った……?


 感覚ではほとんど分からない。ならば第三者のジャッジに委ねるのみ。

 僕らは久方先輩達を祈るように見つめる。

 先輩は周りの男子生徒と一言二言確認をすると、高らかに宣言した。


「ど、同着!」


 同着……。どうやら僕と松岡のゴールは完全に同時だったようだ。

 ここまで本気でぶつかって、決着つかず。なんだか格好がつかないが、不思議と気持ちはスッキリしていた。


 僕は松岡を見る。

 松岡も僕を見る。


 お互い、口元には僅かな笑みを浮かべていた。

 そして、互いの健闘を讃えるようにがっちりと握手をする。


 この感動的な和解劇に、男子部員は沸いた。池田が水泳帽を振り回して喜んでいる。久方先輩は涙まで流している。若干当惑した表情の女子部員も、手を叩いてこの結果を祝福しているようだ。


 ああ、気持ちいい。

 己の全てをかけ、出し切った勝負というのはこれほどまでに気持ちを晴れやかにするのか。


 僕らはその余韻をもう少し味わいたかった。僕と松岡は仰向けに身体を水に預けた。


 自分が今、フルチンだということを忘れていた。


 水泳場に女子の悲鳴がこだました。


 ちなみに松岡も全裸だった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る