第7話 危機

「もう上にいる!」


 弾かれたように天井を見上げると、巨大な黒い何かが視界の端を掠める。それを追って振り返ると、潰れたような悲鳴が上がった。イルマが血を流し倒れていく。


後ろのアナンシャを庇ったのだ。尻餅をついたアナンシャに、巨大な蜘蛛がギロチンの刃のような爪を振り下ろそうとしている。


「精霊レアリアルよ! 切り裂け!」


 詠唱と共に風の刃を化け物に向かって放つ。金属を削るような鈍い音が響いた。大したダメージではなさそうだが、狙いは晒せたようだ。巨大蜘蛛が滑るように壁を這い、ヘスティアから距離を取る。


威嚇行為だろう。前脚を振り上げ、上顎をカタカタと揺らしている。それは大黒土帯蜘蛛を何倍にもしたような姿をしていた。全長は人の背丈ほどある。


事前情報はない。恐らくダウデンたちも知らない、未踏破区域の魔物である可能性が高い。少なくともこんな中層を棲家とする存在ではなさそうだ。


二撃目に備え、ミコトとともに巨大蜘蛛の頭に切先を向け牽制する。


「アナンシャ! イルマは!? 退路はあるか!?」


 ミコトの矢継ぎ早な確認に、ややあってアナンシャが震える声で叫んだ。


「っ怪我は左腕! 意識もある! 特製の解毒剤もっ……効いてきてる! けど、」


 そこで報告が途切れ、アナンシャの狼狽し切った詠唱が聞こえてきた。物理結界を張る防御魔法だ。


「退路には小さい方の土帯蜘蛛が集まってきてる! 結界ももう長くもたないわ!」


 ミコトは即座に判断を下し、ヘスティアに指示を出す。


「任せたぞ」


「気をつけてね」


 言葉少なに呼吸を合わせ行動を開始する。全員手遅れになるまで接近に気づかなかった相手だ。二人で相手をしたとしても勝てるかはわからない。


それでもヘスティアは振り返らず後方に走る。女たちを守ると、約束したからだ。走り出した直後に背後で剣と爪の交わる音が響いた。



 女たちの元に駆け寄り、物理結界を張り直す。アナンシャがほっと肩の力を抜き、結界を解いた。


報告通り、小部屋の入り口は数十匹の大黒土帯蜘蛛が塞いでいる。巨大蜘蛛との間に指揮系統が出来ているわけではないのか、今のところまとまって攻撃してくる様子はないのが救いだ。


「状況は?」


 短く問うと、アナンシャの腕に介抱されているイルマが少し体を起こして答える。


「ま……っ囮ぐらいなら出来るっすよ」


 つい先程まで毒で倒れていたというのに、豪気なことだ。差し迫っているだけに、その無謀を叱ることも出来ない自分の無力さにぐっと拳を握りしめる。


「ヘスティア」


 何も言わず俯いていたアナンシャが静かな声で言う。


「今までくだらない嫉妬をして、歯向かって、ごめんなさい。どうすればいいのか教えて……ください」


 目を見開いてアナンシャを見つめる。顔を上げ、真っ直ぐにこちらを見上げる目には涙が滲んでいた。


「解毒剤は後一つ、私は後五回魔法を使うだけの魔力も残ってないわ。私なんかには、もうどうしようもない……!」


 いつもの強気が見る影もない。打ちひしがれる姿に、哀れみよりも苛立ちが優った。


「そうなの。私はね、もう散々見たからオドンディダエの毒魔法も使えるわ。そうね。十数回は大丈夫。特製のものほど効かないかもしれないけれど解毒剤も用意してある」


 挑発じみた言葉だが、アナンシャの目には光が宿る。正確には見ただけではなく、ミコトに習得の助言をしていたから使えるのだが、ここははったりを効かせた方がいいだろう。


ミコトの方を見ると、戦況は意外と悪くない。思ったより敵の動きが遅いのだ。岩の装甲を貫くことはできなさそうだが、蜘蛛の攻撃を余裕を持って受け流している。


(最初の動きがイレギュラーだったのかしら?)


 見た目そのままに大黒土帯蜘蛛が大きくなっただけの性能でしかないのなら、脅威には違いないが危険度が大幅に引き下がる。


「これなら、全員助けられる……?」


 同じく戦況を見ていたアナンシャの呟きに眉を顰める。恐らく全員の中には、時間的にまだダンジョン内にいるダウデンたちも入っているのだろう。


ヘスティアたちがリスクを負った脱出を選択すれば、ダウデンたちも無事では済まないかもしれない。


(欲張りなことね)


 本当に守りたいものを守るためには、なりふり構っていられないというのに。苦い思いを悟られぬよう、殊更に笑顔を作り釘を刺しておく。


「アナンシャ、私が決めていいならダウデンたちを囮にして逃げ出す方を選ぶわよ。」


「っどうして!」


 こちらを睨みつけるアナンシャに笑みを深める。


「それが一番確実だもの」


 アナンシャは言葉を詰まらせて黙ってしまった。それ以上反論出来そうにない様子に鼻白む。


全員助けようなんて甘いにも程がある。が、幸いミコトはまだ余裕がありそうなのだから頑張ってもらおう。


ヘスティアにはアナンシャをこんなところで挫折させ、萎れさせるつもりはなかった。アナンシャも、イルマも、元気なところが可愛いのだから。


「ねぇ。本当に諦めていいのかしら? この場で一番毒に詳しいのも、一番準備してきているのも、一番助けたいと願っているのも、あなたでしょう?」


 悠然と微笑みかける。なるべくいつも通りに、らしく見えるように。アナンシャが息を呑み、顔を強張らせる。


数秒、二人の女は無言で見つめった。そこに交錯するのは敵意か、信頼か。


やがてアナンシャが自分の両頬を強く引っ叩いた。腹を括ったようだ。


「ヘスティア、私の言う通りに動きなさい」


 その言葉にため息をつき、大袈裟に肩をすくめて見せる。


「せいぜい上手に使ってちょうだいね」


 かくして、女たちは立ち上がったのだった。

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