第31話 4ーD】逃走:強奪(2)

「邪神母船アザトースが加速を開始しました」

 地球近傍天体観測衛星群からの情報を見て、管理AIのアイが報告した。

 井坂技官長たち四人はカールを連れて技術局管制室に移っている。ここには世界中の情報ネットワークが集まっている。

 画面には最大望遠で捉えたアザトースの姿が映っている。糸巻きを思わせる紡錘形の全長420キロの船体が加速を開始している。

 日本の本州の半分が宇宙を飛んでいるようなものだ。井坂技官長はそのスケールに圧倒された。

 もし何事もなければ人類がこれほどの大きさのものを作り、ましてや宇宙空間を飛ばすことができるようになるのは何万年後になることか。

「物凄い加速だ」デュラス技官が興奮して言った。

「6000Gに相当する。どういう出力だ?」

 これは一秒毎に秒速60キロの速度がどんどん追加される加速度だ。大型レールガンの最大加速とも比べることができるほどの強度だ。

 この疑問にはカールが答えた。

「遊弋航法では速度に上限がありますから、代わりにマナ航法を使用したのでしょう。マナとアビス・マターを直接作用させて運動量に変換するのです。遊弋航法に比べて桁違いのマナを消費するのでアザトースですら滅多に使わないものです」


 脱出船は太陽系を構成する諸惑星が形作る軌道円盤に対して垂直に航路を取っている。その方向だと航行を邪魔するデブリの密度が各段に少なくなるのだ。外宇宙に出てから変針し、他の恒星系に向かうのが最初の予定だったが、今はそれを正確になぞっている。

 一度外宇宙に出れば、推進剤の関係からもう地球のどの船も追いつけはしない。それを知っているので船を強奪した者たちは航跡をごまかすことすらしない。

 邪神母船アザトースはもちろんそれを見逃さなかった。速度から見て試験航行ではないと判断するのに一時間をかけた。慌てなかったのは自分の足に絶対の自信があったためだ。星系内でも星系外でも、今の人類にアザトースを振り切る能力はない。

 そして邪神軍は虫一匹といえど見逃がすことはしない。


 十数分加速した後にアザトースは星系内巡行速度に到達した。

 最終速度は0.2光速。秒速6万キロメートル。

 人類軍には到底出せない速度である。時間さえかければ人類でも到達だけはできる速度なのだが、この速さではそれ自体が凶器となってしまう。小さなデブリとの衝突でも戦艦の腹に丸ごと大穴が開き、破壊される。そんな狂った速度なのだ。

 超がつくほど頑丈な邪神装甲に守られたアザトースだけに可能な速度であった。


「まずい」井坂技官長は叫ぶと、通信が途絶したままのスクリーンに話しかけた。

「脱出船。聞こえるか。こちら、井坂。アザトースがそちらに気づいた。0.2Cで追撃中だ」

 しばらく通信のタイムラグが空く。それからいきなり喚き声が聞こえた。

 フェルディナント大将の顔がスクリーンに映る。その背後はパニックになった人々で沸き立っている。

 こちらが流した観測データを向こうでも確認したのだ。

 邪神母船アザトースの予想進路は正確に現在の脱出船の航路と交差する。それも数時間以内に。

「何とかしろ! 井坂!」フェルディナント大将が叫ぶ。「これは命令だ」

「我々にはどうしようもありません。脱出船もアザトースも止める手段がこちらには一切ないのです」

 光速のレーザー集束通信が行って帰って来るまでの数秒のタイムラグ。それからまたフェルディナント大将が叫ぶ声が届く。

「何か手があるはずだ。そうだ、駆逐艦アドラだ。あれならここまで届くはず」

 それを聞いて井坂技官長は呆れた。

「何を言っているのですか。アドラならご自分で破壊したではないですか」

 カールが横で肩をすくめてみせた。いつの間にか人間の癖を学んだものだ。

「どちらにせよ、アドラが健在であったとしても間に合わないのは同じです。最高速が出せるアドラですら脱出船に到着するのには何日もかかったでしょう。それに対してアザトースは一時間もかかりません」


 アザトースが居た小惑星帯の位置から地球の位置までは1億5000万キロメートル。その距離をアザトースはわずかに40分で踏破する。加減速時間を入れると全部で約1時間弱だ。

 アザトースがその気になればそのまま地球に接近してアビス砲の一撃で人類を終わらせることは実に簡単なのだと、改めて思いいたって井坂は震えた。


 相も変わらずわけの分からぬことを喚き散らすアホウ大将を見ながら、井坂技官長は決心をした。

「アイ。ここからの通信は暗号化せずリアルタイムで全世界に流してくれ」

「おい、井坂!」デュラス技官が抗議した。

 その肩をライズ技官が掴む。井坂の考えを理解したのだ。

「いいんだ。どのみち脱出船の運命はやがて全世界に知れる。ならば隠し事は一切無しでいこう。これにかかっていたのは全世界の人々の命と希望だったのだから」

 レイチェル技官が頷くと、アイが指示を出した。

 いきなり政府中枢が行方不明になって大混乱に陥っていた世界中に何が起きたかの情報が流れ始める。ここまでの経緯はアイが短いダイジェスト版にして生放送に付加してある。

 パニックは起きなかった。それよりも先にこれらの映像に人々が釘付けになってしまったからだ。

 すべてが終わった後に改めてパニックは始まるだろう。それまではこれから起きることを人々はただ固唾を飲んで見つめることしかできない。


 人々が最初に見たのはパニックになってひたすら喚くフェルディナント大将の姿だ。その横ではいつも乙に澄ましている新統合連合の事務総長が涙で顔をぐしゃぐしゃにしている姿だ。

 他人が慌てふためく様を見ると、人は逆に冷静になる。


「井坂! 聞こえるか! これは命令だ。地球の全軍を出動させアザトースを迎撃せよ。ワシらが死んだら人類の未来は終わる。ただちに迎撃せよ。わかった。船は地球に戻す。だからただちに出動せよ。井坂。聞いているのか」

 もはやフェルディナント大将は自分が何を言っているのか分からなくなっている。

 向こうの観測スクリーンにもぐんぐんと近づいて来るアザトースが光点となって映っているはずだ。

「どけ! このアホウ!」

 新統合連合事務総長がフェルディナント大将を突き飛ばす。

「技術局の諸君。諸君の弛まぬ努力を私は知っている。この事態を何とか解決したまえ。そうすれば我が新統合連合は君たちに勲章と大いなる名誉を与えよう」

 そこで言葉を切った。タイムラグが過ぎてこちらの返答が来るのを待っているのだ。

 わかりました。新統合連合事務総長。我が技術局のすべての力を使って問題を解決するであります。

 そう言って欲しいのだろうなと井坂技官長は思ったが、黙っていた。

 返事が来ないとようやく悟って事務総長は再び口を開いた。

「我が人類を代表して君に命令する。ただちにだ。後でではなく、その内ではなく、今この時にだ。迫って来るアザトースを何とかしたまえ。命令を無視した場合には厳罰も用意してある。その中には極刑も含む」

 また間が空く。

 それらすべてを無視して、井坂技官長は手元のタブレットで計算を行っている。

「井坂技官長? 聞いているのかね? アザトースが迫って来る。計算では後四十分でここに到達する。早くしてくれ。時間がない」


 井坂は自分は冷静な男だと思っていた。どんなときでも冷静にいられる男なのだと。

 だがそれは間違いであったと今知った。

 いきなり腹の底がかっと熱くなった。今までさんざん言われてきた無理難題が記憶の底からまとめて浮かび上がってきた。これら愚か者に対してずっと抱いて来た怒りだ。

 怒りに反応して、体が自然に立ち上がった。

 留めることもできない言葉が勝手に口をついて湧き出てくる。

「死ね!

 死ね!

 死んでしまえ!

 人類を裏切り。自分だけ生き残ろうとする者は死んでしまえ。

 人々を守る立場でありながらお前たちは何をした?

 人類の唯一の希望である脱出船を奪い、自分たちだけ逃げ出しておいて、捕まりそうになったら血を流してでも自分たちを助けろだと。

 死ね!

 お前たちのような馬鹿は死んでしまえ!

 お前たちのような勝手な輩は死んでしまえ!」

 井坂技官長はそこで深呼吸をした。だがまだ怒りは収まらない。言葉が止まらない。

「俺は諦めないぞ。最後まで戦ってみせる。

 それがどれだけ苦渋の道であろうが、最後まで戦って勝ってやる。

 あらゆる力を結集して、お前たちがやろうともしなかったことをやってやる。

 邪神軍を倒し、みんなを助けてやる。

 こんなところで終わってたまるか!

 残された俺たちの力を見せてやる!」

 机に手を叩きつける。じんと手が痺れた。

「だからお前たちは死ね。

 裏切り者は死ね。

 一足先に地獄に行って、そこで大人しく待っていろ!」


 タイムラグ。それから絶望の怒号が聞こえて来た。大勢の命乞いの悲鳴だ。

 しばらくそれを聞いていたが、井坂技官長はようやく手の中のタブレットのデータを送信した。

 虚脱した体を無理に支えながら通信スクリーンの前に立つ。

「いいか、よく聞け。裏切り者ども。ファイン技官長を出せ」

 しばらく待つ。

「井坂技官長。何か手があるのか?」焦燥した顔のファイン技官長が出てくると訊ねた。

「やり取りしている暇はない。今送ったデータ通りに行動しろ。

 外宇宙に出たら使うはずだったステルスコーティングをかけろ。命令を出せばロボットが全自動で行う。今やっている噴射を止めろ。以降は低温噴射だけで軌道を変針させるんだ。運が良ければアザトースの探知網を逃れることができる」

 タイムラグ。ファイン技官長の声。

「今手順を進めている。これで大丈夫なのか?」

「運が良ければだ。脱出船は図体が大きいから相当難しい。後はアザトースとの距離とその観測性能にかかっている」

 しばらく待った。次の通信がこない。

 手の中の計算結果を再度チェックする。脱出船の大きさ。背景を彩る星々の分布。邪神軍が検出できる光度はどのぐらいかの推定値とステルス化した脱出船が背景の星の光を遮る確率。

 恐ろしく複雑な計算の後に、アザトースの目を逃れることができるかの最終確率が算出された。

 1%を切っている。だがゼロではない。

 戦闘艦の艦長ならその言葉を喜んで唱えながら、死地に向かうだろう。


 時間は容赦なく経過する。

「脱出船はどうなっている?」

 耐えきれずに井坂技官長は訊いた。

「まだ噴射を続けているわ。それどころか噴射が強くなっている。これじゃ宇宙に上がった灯台ね。ステルスでアザトースの目を欺くなんて絶対に無理」とレイチェル技官。眉根に皺を寄せている。

 そこに再度通信が入った。顔に真新しいアザを作ったファイン技官長が悲鳴にも似た声で説明する。

「駄目だ。井坂。大将連中が推進エンジンを止めることを認めない。エンジンを止めたらアザトースに追いつかれると叫んでいる。パニックだ。説明したんだが誰も俺の言うことを聞かない。船管理AIも俺の認証コードでは動いてくれない」

「ファイン。フェルディナントを出せ!」

 命令するまでもなく、ファイン技官長が画面から押し出され、頭から血を流しているフェルディナント将軍が姿を現した。手に宇宙船内で使う暴徒鎮圧用の水撃銃を持っている。

「将軍。すぐに船のエンジンを止めて、ステルス駆動に切り替えるんです」

 タイムラグ。井坂技官長の声が届くとフェルディナント将軍が吠えた。

「騙されんぞ。井坂。お前はこの船を止めて邪神軍に引き渡すつもりだ」

「何を馬鹿なことを言っているんです。早く。間に合わなくなります」

「知っているぞ。邪神軍の船の最高速度には制限がある。エンジン噴射を続ければやがてこの船はやつらの手の届かない速度に達する」

「それは違います。将軍。邪神母船と邪神子船は航行原理が異なるのです。アザトースの方がうんと速くて、おまけに超光速航行もできます」

「嘘だ。嘘を言っている。お前は嘘つきだ。井坂。これ以上お前の好きにはさせないぞ」

 通信が切れた。

「どこまで馬鹿なんだ!」

 思わず大声が出てしまった。井坂技官長はどさりと椅子に体を落とす。

「もうできることは何もない」

 全員無言でスクリーンを見つめ続ける。


 アザトースは光を発していた。減速の際に生じる熱はすべて外部に放射する必要があるからだ。まるで太陽系の惑星すべてを照らそうかとでも言うように、惜しみなく赤外線をまき散らす。

 そのかがり火は脱出船の前方へと回りこんできた。脱出船は慌てて回頭しようとしたが、それは遅々として進まなかった。終端速度こそ出るものの元々機動性はゼロに近い船なのだ。

 アザトースは脱出船の前方で相対速度を正確に合わせる。二つの船の距離がじわじわと縮まり始める。

 アザトースの紡錘形の先端に亀裂が入り、その船殻が開き始める。クジラが大きく口を開けるかのようにアザトースも口を開いた。先端は四つに割れ、上下左右に広がる。

 大きい。紡錘形の直径だけでも六十キロはある。脱出船は人類側の最大の船だが、口を開いたアザトースを前にするとクジラを前にした小魚だ。

 逃げ出すこともできずに脱出船はアザトースの口の中へと吸い込まれていく。


 脱出船の船外カメラは撮影した映像を自動で送信している。

 巨大なアザトースの口の中が画面のすべてを埋める。脱出船を完全に飲み込むと、その背後でアザトースの口が閉まり始める。

 アザトースの口の中はいくつもの明かりで照らされている。周囲のあらゆる所から生体艇の群れが沸き上がり、脱出船へと殺到する。ワイバーンが炎を吐き、脱出船の外殻のあちらこちらに穴を開け始める。

 やがて通信の内容が無数の悲鳴と命乞いだけになった。

 今まで黙っていたカールが映像を指さす。カール自身の姿は通信に流れないようにAIが送信から完全に削っている。

「あの中央部に見えるのがアビス砲の砲身です」

 送られてくる映像を解析に回しながらデュラス技官が呟く。

「あの砲だけで百キロメートル以上の大きさがあるぞ。うちの戦艦の百倍もでかいぞ。

 周囲に並ぶハチの巣のような構造は子船の収納スペースか。これも幅が20キロメートルはある、なんてえ化け物だ」

「ボールボール」ライズ技官が関心するように呟いた。手にしたタブレットに文字を打ちこむと皆に見せた。

『神・・いや、悪魔の御業。万魔殿』

「同感だ」と井坂技官長。


 そこに再び通信が入る。

 レーザー通信ではなく一般の無線通信だ。発信源は遠くにあるが、地球近傍観測衛星群が全力で電波を捉え、映像内容を完全に復元したものである。

 またもやフェルディナント大将の顔がアップで映る。顔が鼻水と涙でぐしゃぐしゃだ。誰かと殴りあったのか、顔の右側が腫れている。フェルディナント大将は一方的に話始める。

「邪神軍。聞こえるか。こちら、地球政府。

 地球政府には降伏する意思がある。どのような条件でも飲む。だからこの脱出船だけは助けてくれ。なんでもする。なんでも差し出す。

 そうだ。地球をやる。ワシらにはこの脱出船さえあればいい。

 残った人類もやる。奴隷にでも食料にでもしてくれ。わしらはそれ以外は何も望まない。

 邪神軍。聞こえるか。だから助けてくれ!」

 脱出船から流れてくる船内情報が次々に赤色に塗りつぶされていく。船体のあらゆる部分に損傷が出ている。防御隔壁が破られ、通路の映像の中にロボットと戦う無数の異形の邪神兵の姿が捉えられる。

 人間の兵士だけは丁寧に捕縛され、どこかに連れていかれる。


「くそっ。しまった。こんなことなら脱出船の中に核爆弾を一杯仕掛けておいたのに。どうして思いつかなかったのか」

 デュラス技官が悔しがる。

「無駄だと思います。アザトースの口の中も何等かの力場で守られているでしょうから」

 カールが冷たく指摘する。

「やって見ないと分からないさ」

 デュラス技官がぶちぶち言う。その背中をライス技官が大きな手でポンポンと叩いて慰める。


 脱出船を完全に飲み込むと、アザトースの口が閉まった。それと同時に電波が遮断されて脱出船からの信号が消える。


 管制室の中に沈黙が落ちた。いくつかの警告ランプの光だけが注意を惹こうと明滅している。

 脱出船の搭乗者約四万人の運命がこれで決したのだ。後はどんな手を使っても彼らを取り戻すことはできない。

「残念だ。これで彼らはみんな死ぬ」井坂技官長が呟く。

「彼らは人類への裏切りものだ。脱出船の警備兵を殺し、船を奪った」とデュラス技官。

「悲しまないで。井坂」レイチェル技官が慰める。

「あたし達は警告した。あたし達は説明した。あたし達は説得した。でも彼らは聞かなかった」

「それでも僕は自分を許せない」

 皆が押し黙った。無言でレイチェルは井坂の髪を撫でた。

 長い静寂を破ったのは管理AIのアイだ。

「マスター・イサカ。通信を外部に流しているのを終了しても宜しいでしょうか?」

 井坂技官長は自分の頭を叩いた。

「しまった。生放送していたのを忘れていた。今のはどこまで流した?」

「この瞬間まで流しています」

「うわっ。何てことだ。アイ。放送を切れ」

「放送を終了します」アイが告げる。

 大勢の失望の呻きを背景に生放送は終了した。このときの太陽系での視聴率は98%を越え、後にギネスに登録された。





 新しい残虐放送は約一カ月続いた。

 処刑は家族単位で行われた。一番最初は新統合連合事務総長で妻と二人の成人した息子たちが裸に剥かれた後に、一つの杭に生きたままで全員刺されて掲げられた。

 フェルディナント大将とその家族は三十二番目だった。

 小さな子供がその中にいるのを知って、井坂は固く目を閉じて映像を見るのを拒否した。

 フェルディナント大将は最後まで自分は悪くないと喚き続けた。


 世論は沸き立った。自分たちがいつも見ている政府首脳陣がまとめて民衆を裏切ったのだ。そしてその罰を受けて残虐放送に派手に出演している。

 因果応報が叫ばれ、それでも同情の声が少しは唱えられ、それから静かな恐怖が蔓延した。

 どれだけの権力もどれだけの富も邪神軍から逃げる役には立たない。その認識が人々の間に浸透していった。これまではどこか遠くの紛争という気分だったものが、ごく身近にまで迫って来た死の予感へと置き換わった。

 特にアザトースがわずかに一時間で地球軌道まで飛んで来たのは衝撃だった。すべてが終わるとアザトースはまたもや0.2C飛行で元の位置に戻ったのだが、決して邪神軍は足が遅くてゆっくり侵攻しているのではないことを明確に証明してしまったことになる。

 自分たちが嬲られていることにようやく人々は気づいたのだ。





 脱出船の悲劇から二週間が経過した。技術局の応接室のソファの上で井坂は横になっていた。

 レイチェルがその額に優しく手を置いている。

「耐えられない。また人が死んだ。いくら自業自得とは言え。もっと早く気づいていれば」井坂が呟く。

 もう何度も繰り返された言葉だ。どのような慰めの言葉も井坂の心を癒すことはできないと知り、最近ではレイチェルはそういうときの井坂にはそっと触れるだけにしている。


 脱出船がアザトースに食われた事は、予想とは違って大きな混乱を起こさなかった。

 事態が呑み込めずに誰も正しくパニックになれなかったと言ってもよい。

 技術局の仕事はカルネージAIが進めているので、井坂は思う存分落ち込むことができた。レイチェルはこの事態でもカルネージAIの手綱をうまく取っている。


 ドアにノックがあり、二人は跳ね起きた。

「あー。邪魔して済まない」デュラス技官がバツの悪そうな顔をして入って来る。

「各国から連絡が来ている。どれも急ぎだ」

「今更何を?」

 言いながらも井坂はリスト・コムを操作する。服はシワだらけだが、AIがうまく修正してくれると期待する。

 空中にスクリーンがいくつか投影される。

 見た顔だ。それを裏付けるかのように映像に映る顔の下に身分と名前が提示される。

「ミスター・イサカ。私たちは残された政府の代表団です」

 一瞬井坂はその意味に考え込んだ。

「各国すべての首脳陣が脱出船の事件で一気に消滅しました。自分たちの職場に放置された我々は残された者たちだけで政府を再組織化し、ようやく何が起きたのかを明確にしました。そして皆で話し合ったのです」

 スクリーンの中でその人物は巨大な名簿を投影した。

「いま現在、地球、月および火星に残っている政府の構成員の名簿です。再び各国で独自の政府を作るのは得策ではないことに皆同意しました。そして我々を導くという権力を与える相手を選挙で選ぶのも、いまこの現状では間違いだということにも同意しました」

 その人物はこちらを真っすぐに見つめる。

「ミスター・イサカ。我々はすべてを見ていました。そしてこの難局にわずかでも対処できる人物はただ一人しかいないと結論したのです。

 現状を良く理解し、私心無く、そしてもっとも大事なことは人々を決して見捨てないということです。

 ミスター・イサカ。我々はあなたを人類初の人類大統領として認め、あなたに忠誠を誓うことにしました。どうか、この職をお受けください」

 レイチェルが井坂の体を支えたのは良い判断だった。でなければ倒れてしまっていただろう。



 カールは自分に与えられた部屋の椅子に座り、微動だにしなかった。

 腹部に組み込まれた超空間通信機で太陽近辺を遊弋しているカルネージ・ステルス船AIとの会話を行っている。

 今は記憶装置内部のいくつかのデータを閲覧し、再編している最中だ。

 政府高官の名前が削除された脱出船名簿の偽物を作り、わざと漏洩させた記録はすでに不要だ。記憶の一番下の滅多にアクセスしない領域に暗号化して格納する。

 修正した海賊版OSのコード。これも不要だ。最初はファイン技官長がうまく扱えるかとも思った。だが彼には荷が重すぎたのでカールが自分で改修して脱出船強奪のシンパから提供されたかのように偽装したものだ。これも不要と分類する。

 回りくどい方法で政府要人たちを扇動した記録。これも要らない。

 脱出船が無くなったことで今までそちらに取られていた資源がそのまま艦隊の再建に使えるようになったのは有難い。

 脱出船の悲劇の後に世論としてインフルエンサーたちに流させた意見やコメント。これも今となっては用済みだ。

 人類の心理学の応用といくらかの資産の投下で、驚くほど簡単に世論を誘導できたのは不思議ではない。

 人間も心の中では理解しているのだ。敵を目前にして争い合っている場合ではないと。

 うまい具合に井坂をトップの座につけることができた。これで物事はうんとやり易くなる。


 待機している船に積んでいる超新星デバイスの検査結果にも目を通しておく。異常なし。いつでもここの黄色恒星を爆発させることができる。

 邪神軍の使う超光速航行は恒星などの重力源の近くでは使えない。使えばかなりの高確率で超空間から出てこれなくなる。

 だからアザトースが太陽に一番近づいたとき、つまりは地球攻撃の瞬間に超新星デバイスを起動する必要がある。そうすればアザトースは超空間に逃げ込むことができずに、無敵バリアのマナを使い果たして破壊される。


 カルネージ人は現実主義者だ。だから邪神軍の生存論理を正しく解釈し、その行動を推測した。

 百年先になるか千年先になるかは知れないが、邪神軍が必ずカルネージ人を滅ぼすために戻って来ることは分かっていた。そしてその時には超新星化デバイスは役に立たないことも分かっていた。

 超新星化デバイスの存在を邪神軍が知った以上、次のカルネージでの戦いでは邪神母船は星系内には足を踏み入れることはない。星系外から無数の邪神子船を送り込んでカルネージ人を滅ぼすだろう。

 それが判っているからこそ、厳しい戦後の経済立て直しに優先して、超遠距離ステルス追跡船を建造し、超新星化デバイスを再度組み立て、アンドロイド・カールを製造して送り出したのだ。


 ここでアザトースの息の根を止めれば、カールの任務は完了する。そのためには超新星化デバイスを他種族の母星系で使用することも躊躇いはしない。

 アザトースが脱出船を追いかけたときもその機会に思えたが、カールは思いとどまった。焦らずに確実な機会をただひたすら待てばよいのだ。そしてそれは必ず訪れる。

 アンドロイドのカールは座って考える。その姿がいかに人間に似通っていようが、その精神は遥かにかけ離れた冷たいものだった。





 深夜。眠ろうとしても眠れなかったデュラスは最後に脱出船から送られてきた映像を再度見直していた。

 アザトースは全長四百二十キロメートル。ちょっとした国ほどの大きさがある。こうして平板な映像で見ているとそのスケール感を見誤ってしまう。

 アザトースの中には広大な真空の空間が広がっている。大気がないので距離に関わらず、高解像でありさえすればどこまで遠くても見渡すことができる。

 邪神子船をも越える遥かに大きな砲。その背後にあるこれも巨大な球体ブロックは動力炉と思えた。表面は邪神装甲が覆っている。これを破壊するのは並大抵の苦労ではないだろう。

 二十キロメートルはある子船収納ハブが四千ブロックほど並ぶのは壮観だった。本来はこれらハブ一杯に邪神子船が満載されるはずなのだ。

 邪神子船のイタカとヨグは邪神母船アザトースが加速を開始したときには外に出ていたので、それらはすべて空だ。


 空のはずだ。

 デュラスの手が止まった。映像を止め、拡大する。

 何か白いものでハブの一つが埋まっている。やがてデュラスはその正体に思い当たった。


 新造された邪神子船だ。

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