第26話 4-A】逃走:小惑星帯

 〔 小惑星帯:2080/04/07 〕


 火星と木星の中間に位置する小惑星帯は数百万個の小惑星により構成される空間である。これら小惑星と呼ばれる岩塊群はほぼ五年から十年の範囲で太陽の周りを公転している。

 ここに採掘を目的として進出した人類はベルターと呼ばれる宇宙生活者を産みだした。彼らはその人生のほとんどを宇宙空間で過ごす真の意味での宇宙人類である。

 小惑星番号1番のケレスを先頭として無数の採掘ハブが作られ、大量の金属資源を産出している。

 そしてここにも邪神軍の侵攻は始まっていた。



 ベルターのコバヤシとアードは掴まっていたラフトの推力を止めた。


 ラフトは小惑星帯鉱夫であるベルターの使う乗り物だ。

 これは適当な骨組みに推進装置をデタラメにくっつけたものだ。生命維持装置の類は元からない。こういった骨組みと推進装置だけの機械にラフコンと呼ばれる制御装置を組み込むと、自分でトルク計算などをやって後は自律した小型宇宙船として使うことができる。

 宇宙空間を漂うデブリとの衝突を考えたら危険この上ない乗り物だ。実際にラフトの事故率の高さは驚くべき数値に上がっている。だからこれに乗るのはベルターぐらいのものである。

 ラフトへの搭乗は宇宙服をフックでラフトに引っかける形になる。防護装備はないので速度は出せないし、恐ろしく危険だが、何よりも運用コストがすごく安い。それに金になる鉱石を見つけた場合は鉱石自体を船体に組み込んで運べるという大きな利点がある。


 二人のラフトは慣性でそのまま進む。コバヤシは双眼鏡を覗いた。もちろん宇宙用の支援機能つきハイテク双眼鏡だ。その視野の中に前方の大岩塊の上に立つ宇宙服姿の人影が見えた。

 小惑星帯とは言え、実際には宇宙空間内にぽつんぽつんと岩塊が浮いているだけに過ぎない。携帯式の航宙AIを使い、見つからないように岩塊の間のルートを決定しそれを正確に辿る。

 目的の小岩塊に到達した。

 アードが操作してテザーを何本か放出する。テザーは帯電した長い帯だ。周囲に浮かぶ岩塊の磁力に反応して、ラフトの速度が落ちる。ラフコンが推進バーニアから微小噴射を行い目的の岩塊との速度差を無くす。

 岩塊にフックを打ち込んでラフトを寄せる。岩塊には元から金属を含んでいるのでこれでレーダー走査してもラフトを見つけるのは至難の業となる。

 続いて偽装シートを広げ手早く全体を隠す。こうなると岩塊の影に隠れて光学的にも識別はできない。


 ベルターは個人採掘事業者であり、所有権が宣言されていない小規模岩塊を見つけては採掘して生計を立てている。さらには見張られていない場所で所有権ありの岩塊も掘る。つまりは密採掘である。自ずから小惑星帯管理機構の目から逃れるためにあらゆる偽装手段を身に着けている。

 これもその一つだ。


 コバヤシはマイクロケーブルを伸ばしてアードにつないだ。これで無線無しで会話ができる。

 二人が着ている宇宙服もゼロ赤外線調整されている。酸素ボンベから気化する酸素が奪う熱量と着用者が作り出す熱量が相殺され、外から見ると赤外線すら検出できない。おまけに宇宙服の表面も岩塊偽装処理されている。

 ベルター特製の鉱石密輸仕様の宇宙服なのだ。これでどれだけのベルターが邪神軍の襲撃を免れたのか想像もつかない。

 つまるところ、大概のベルターはベテラン偵察兵並のスキルと装備を持っている。それを持たないものは税関職員に逮捕されてベルターとしては生活ができない。


 コバヤシは偽装シートの下から双眼鏡の先端だけを出して照準を合わせる。

 大岩塊の上に立つのは通常タイプの宇宙服を着た二人組だ。

 何かの装置を設置している。パラボラアンテナがついているところを見ると高集束の無線通信装置だ。

「遠距離用通信装置だ。たぶん華来社のTSR4か5だな」

 コバヤシの説明を聞いてアードが尋ねた。

「通信装置? どこへ?」

 双眼鏡から目を離さずにコバヤシは答える。双眼鏡に映る内容はアードの宇宙服にも転送されている。

「そりゃお前、ここから通信すると言ったら邪神軍しかない。アンテナの方向を見ろ。太陽系外縁部を向いているだろ」

「邪神軍? あいつらはバカなのか?」アードは呆れた。

「バカというよりは裏切者だろう。地球では降伏論者が大騒ぎしているという話だからな。おおかたどこぞの国のやつらだろう。一刻でも早く降伏を受け入れてもらって、それを後ろ盾にして地球での権力を握ろうというところか」

「なあ、コバさん。邪神たちが降伏なんか認めると思うか?」

「俺は思わないね」

 話すことも尽きて二人は静かになった。退屈なのでアードは宇宙服内に女性の動画を流して眺める。その間にアードの宇宙服は内部のビーズを動かして宇宙服内部とアードの体の清掃を始める。アードは少しくすぐったく感じだ。

 ビーズは宇宙服と中にいる裸の人体との隙間に詰められている小さな球体のミニマシンだ。体の洗浄から排泄物の処理、緊急時の止血から敗れた宇宙服の閉鎖処理まで何でも行うこの宇宙服の要とでも言うべき機能だ。これがあるためベルターの宇宙服はそのままミニ宇宙船として使うことができる。


 しばらく経ってからアードが口を開いた。

「なあ、コバさん。そろそろ引き上げないか?」

「いや、もう遅いと思う。今は動かない方がいい」

 コバヤシはラフトに備え付けられているパッシブセンサーを叩いた。最大レンジに切り替えると、そこに光点が十ほど表示された。赤のマーク。接近しつつある邪神軍の生体艇だ。

「あいつらが垂れ流した電波を見つけたな。動くなよ。アード。ここで電波なんか出したら死ぬぞ。できれば息もするな」

「無茶言わないでよ。コバさん」そう言いながらもアードは反射的に声を潜める。

 邪神軍に捕まれば否も応も無く残虐放送に出演することになってしまう。だから二人の宇宙服には自爆装置が組み込んである。



 真空の中を飛んできたのはハチが五匹、トンボが五匹だ。それはつまり最初から人間を捕獲するのが目的の部隊ということ。もう何人ものベルターが捕まっている。

 宇宙服の人影が手を振った。通信が成功したと思ったのだろう。

 ハチとトンボは彼らの意図を一切気にしなかった。トンボが二人を掴み上げると、その周囲をハチたちが警戒した。それからそれ以上の獲物がいないことを確認すると、まとめて飛び去った。設置された機材はまったく無視だ。ただしパラボラアンテナだけはハチがレーザーで撃った。たちまちにして発信していた電波が消える。

 汎用通信周波数にたったいま捕まった二人が上げる悲鳴が響く。必死で命乞いをしている。近距離だけに届く通常出力だからここにる二人以外には誰も聞こえない。

 結局ハチもトンボもコミュニケーションには応答しなかった。そもそもこの怪物たちが会話ができるのかどうかも分からない。邪神軍そのものにコミュニケーション能力があることは拷問画像を流す残虐放送で判明してはいるが、人類側からの対話はただの一度も成功したとは聞かない。

 二人はそのまま数時間を過ごした。


 税関査察艇の目を逃れるためにこういうことをするのは二人とも慣れている。着ている服はその中で何か月も生活できる特殊な宇宙服だ。他惑星人たちはこれを棺桶服と呼んでバカにすることもあるが、ベルターの誇りといってもよい超がつく多機能宇宙服だ。

 アードは宇宙服に命令して、背中の痒い所にビーズを集めた。ビーズが敏感な肌の表面をわずかに削り、痒みの原因を取り除く。

 その気になれば補給パックが尽きる一か月先までもこうして宇宙服の中で過ごすこともできる。さらには補給パックを取り換えれば永遠に宇宙に浮かぶことができる。着用者の精神が持つ限りは。

 二人はただ静かにハチの群れの注意が薄れるのを待った。



 頃合いよしと見てコバヤシが合図をした。

 二人はそろそろと進み、大岩塊の上に放置されたままの通信装置へと着いた。

 拉致された連中が落としていった器材を回収し、通信しようとしていた記憶ディスクを手に入れる。岩塊の横には小型宇宙艇が浮かんでいたが、それは見逃がすことにした。セキュリティを破るのには時間がかかるし、ラフトのように偽装機能はないから邪神軍にすぐ見つかってしまう。

 時間さえあればバラバラに分解して闇市に流すのだが、今日は時間がないのが悔やまれた。


 それから二人はラフトを静かに発進させると、採掘ハブに戻った。



 採掘ハブは小惑星帯全体に散らばって設営されている貿易ブラットフォームである。

 小惑星帯には準惑星ケレスの軌道上に存在する最大のプラットフォームを始めてとして大規模なブラットフォームが五つ存在する。その他に小規模ブラットフォームだと三千を超える。さらにその下に宙間倉庫とでも言える零細プラットフォームが無数にある。

 この内の大規模プラットフォームの一つはすでに邪神軍に破壊されている。


 ある日邪神軍の生体艇の大軍が押しかけてきてそのプラットフォームを破壊したのだ。

 だがそれは決して邪神軍の勝利と言えるものではなかった。

 ベルターの総人口は約四百万人である。その多くは小惑星帯全体にひっそりとばら撒かれているミニ居住バブルに住んでいる。

 このバブルは直径5メートルの局所疑似生態系空間であり、わずかな補充物資で人間一人が長期間生活できるように作られている。エネルギー消費を最低限度に抑えれば、金属鉱脈を持つ岩塊に張り付いたミニ居住バブルを検知する方法はない。

 邪神軍生体艇の襲来は早期に検知され、ベルターたちのミニ居住バブルはステルスモードに入った。探査のために送り込まれた生体艇は延べ二百万隻に達していたが、炙り出されたベルターはわずかに数家族という結果に終わった。そして見つかったわずかなミニ居住バブルは生体艇が襲来するとともに、IECM爆薬で派手に爆発してその運命を終えた。


 最初の侵攻以降、すぐに邪神軍は戦略を切り替えた。

 しばしの小康状態の後に、アザトースから運び出された二つの物体が小惑星帯に配置された。

 一つはほぼ定点に固定され、もう一つは小惑星帯の軌道に沿って太陽を巡る起動に投入された。

 それがある種のデザイン植物であることが後に判明した。

 物体から伸びた芽は太陽光を受けて成長を始めた。それは必要な資源を太陽風から収集し、最後には巨大なヒマワリの花が誕生した。

 花弁は太陽光を捕らえ、中央部には生体艇用の格納穴が無数に開いていた。

 最終的にできたのは邪神軍生体艇のための巨大な補給プラットフォームであった。

 ヒマワリの一つは公転してくる小惑星帯の岩塊群を洗い、もう一つのヒマワリは一緒に公転して反対側からのベルターの新たなる流入を防ぐ。


 こうなるといくらベルターでも小惑星帯に隠れ住むのは不可能となる。常時ステルスモードのままではバブルから出ることもできない。

 この二つのヒマワリが小惑星帯のすべての人間を洗い終わるのは二十年後と計算された。


 結果としてヒマワリが迫って来た地域に住むベルターたちは火星への脱出を始めた。

 骨組みだけのラフターに全財産を乗せて、宇宙服一つに身を任せて、低推力エンジンで一年かけて火星へ旅するのだ。

 小さなデブリ一つでも衝突すればそこで終わる恐ろしく危険な宇宙航行である。

 こんなことができるのは宇宙での活動においては百戦錬磨のベルターぐらいのものであった。



 二人が着いたのはこの宙域を統括する小規模ハブだ。収容人数は多くても百人程度。入浴システムや医療システムなど個人が所有するには重すぎるシステムを抱えている。

 登録者は対価を払うことでこれらのシステムを利用することができた。

 もっともベルターたちは採掘もしくは盗掘した鉱石を売りつけに訪れる者がほとんどだ。


 コバヤシとアードはラフトを慣性で動かし、ハブ周辺のネットに近づけた。ネットは大きく伸びる電荷を帯びた無数のテザー、つまり紐でできていて、ラフト側のテザーと相互作用する。ラフトの余った運動量をうまく吸収し、後は自動運転でドッキングを誘導した。

 二人がエアロックを抜けると、ハブのオペレータが顔を上げた。

「いらっしゃい。コバヤシにアード。注文した補給パックはエアロックの外に出してあるわ」

 彼女の名前はミア。新アジア圏の出身だ。

 ベルター生活者はじきに宇宙に慣れてしまって地球に戻れない体に訓化してしまうので、どこの出身かというのは小惑星帯では単にちょっとした人生の色付けにしか過ぎない。

 地球に戻るためには長い訓練と医療による調整が必要になるのだが、それを選ぶ者は数少ない。最近では小惑星帯産まれの者たちも増えてきており、採掘ハブに保育園が作られてきた所も出始めていたのだ。


「ちょっと新しい鉱脈の探索に手こずってね。ほら、邪神連中のお陰で面倒なことになっててな」コバヤシが答える。「ところで長距離通信機を貸して欲しいんだが空いているか?」

「ちょうど空いているわ」

 ミアがコンソールの席を空ける。

「何をするつもりなの?」

 コバヤシは何があったのかを告げた。

「ふーん。それであなたはそれを何だと思うの?」

「裏切りだろうな。邪神軍と通じたがっている奴らが居る」

「それで通報するのね?」

「そうだ」

 ミアの手が動き、管理者コードを打ち込んだ。

「長距離通信はもの凄く高いけど、これはこのハブの驕り。自由に使いなさい」

「いいのか?」

 ミアは笑った。

「いいのよ。実はこのハブもう売っちゃたの。他の株主たちも分け前貰ってここを離れたわ。今はあたし一人残って後始末。貴方たちが最後のお客さんよ」

「へえ、そいつは驚いた」

「だから補給パックもツケにしといてあげる。新しいオーナーが溜まったツケの金額を見たらきっと驚くわね」

「このご時世に採掘ハブを買おうってヤツがいるとは思わなかったよ。どこも邪神軍のお陰で暴落だろ?」

「イーゲン社っていう、最近伸びて来た会社よ。ここらすべてのハブや自動採掘基地を買い漁っているの」

「自動採掘基地って、いくらほとんどがAI操作でも動かすには人間がいるんだよな。この状況で働くヤツなんているのか?」

「まずいないでしょうね。ハチたちはますます増えているし。あいつら機械や設備には見向きもしないのに人間を見つけると必死で襲ってくるのよ。絶対に見逃さない」


 AIは高度な作業をこなすが、決して手放しで使えるものではない。AIだけで各種の作業を行っていると、最終的には人間では絶対にやらないことを始めることが知られている。

 以前に実験的に稼働された無人化AI採掘工場は何に使うか分からない金属パッケージの大生産という結末に落ち着いてこの種の試みは頓挫した。

 だからあらゆる自動化が推し進められている小惑星帯採掘工場でも少数ながら人間が必要だ。これがミア達オペレータが詰めかけている理由でもある。


「まあ何にしろミア達がうまく凌げたのは良かった。あんた達には世話になったからなあ」とコバヤシ。

「あなたたちが帰るときに私もここを出るわ。後はイーゲン社が引き継ぐことになっている。何か変なロボットを送りこんで来たのよ。これからはあれがここを仕切る形ね」

 コバヤシが地球への通信回線に持って来たディスクの内容を流すようにセットするのを見てから、彼女は手元のコムを叩いて空中に大スクリーンを出した。

「ほら、ちょうど今、新しい残虐放送が流れて来たところ。見たら吐き気がするわよ」


 そこに映ったのはいつもの邪神母船アザトースの内部だった。昏い背景の中に丘がありその上に無数のトゲが突き出している。

 だが今回そのトゲの先端に固定されている人間は生きていた。

 全裸の女性だ。その腹が大きく膨れているのが分かった。まだ若いアードがそれを見て顔を赤らめる。


「前回の木星会戦での宇宙船の乗組員だろう」コバヤシが感想を述べた。「だが最近の戦闘艦は妊婦を乗せるのか?」

「乗組員に間違いないわ。顔認証によると駆逐艦バージェスの二等航海士ね。だけど妊娠したのは時期から見て木星会戦の後ということになる。捕虜になってから妊娠させられたのよ」

 ミアが険しい顔で推測を述べる。

「でもいったい何のために?」とアード。

 これから何が起きるのかが薄々分かり、黙っているのにたまらなくなったのだ。

「考えられるのはただ一つ」と昏い顔のコバヤシ。


 画面上でカメラが叫んでいる彼女に近づく。両手両足と腰が突き出した黒いトゲに固定されている。その固定具が自動で動き、女性の両足が大きく開かれる。

 カメラがズームする。足の間からすでに赤ん坊の頭が覗いていた。

 邪神軍の歩兵が一匹、触手を揺らめかせながら近づくと、その足の下に潜り込んだ。牙が生えた口が大きく開く。ぬらぬらとした唾液が牙の間を滴る。磔にされた女が喉も裂けよとばかりに絶叫した。

 衝撃で出産が加速される。

 赤ん坊が押し出されてくると、へその緒をひきながら落下した。怪物の口がしまり、赤ん坊を咥えると咀嚼した。

 たまらずアードが体を屈めると吐いた。床が派手に吐しゃ物で汚れる。

 いつもならこのような行為には烈火のごとくに怒るミアが何も言わない。

「だけど、だけど、何のために?」

 涙を流しながら、ようやくそれだけをアードは繰り返した。

「俺たちを怖がらせるためさ」歯を食いしばりながらコバヤシは答える。

 画面の中では他のトゲに固定された妊婦たちが胎児ごと怪物たちに貪り食われていた。



 長時間に渡って通信を行っているハブはさすがに邪神軍の注意を引いた。

 攻撃優先順位が繰り上がり、大群が動員された。

 無数のハチとトンボが目標のハブに急行する。

 ハブ周囲の岩塊に設置された自動対空砲としばらくの間激しい戦闘を繰り替えした後にそれらを全滅させて、群れはハブに到達した。

 レーザーと酸でハブの隔壁を溶かして行く。

 隔壁を二つ破壊したところでオペレーター室に到達した。そこでは今まさに最後のビットを送り終えた通信機が沈黙するところだった。

 投下された邪神歩兵たちはしばらくハブの中を捜索していたが、一人の人間もいないと知ると、ふたたびトンボに掴まって立ち去った。

 無人となったハブの中で大人しくしていたロボットたちが再起動する。

 これよりこの採掘ハブを密かに改造するのだ。

 邪神軍を倒すために。



 一足先に脱出したミアとコバヤシたちはラフトに身を任せて宇宙空間を飛んでいた。

 コバヤシが有線で訊ねる。

「ミア。これからどうするんだ?

 俺たちはこのまま火星まで長い旅行だ」

 ラフトに括りつけた補給パックを示す。特殊宇宙服のパックを替えながら一年に渡る宇宙飛行を行うのだ。絶対真空と特殊ガラス一枚隔てての宇宙航行はベルター以外なら間違いなく発狂する行為である。

「あたしはこの先のハブで火星行きの船に乗るつもり。あと数便でその航路も閉鎖になるわ」ミアが宇宙服の中でため息をついた。「住み慣れた我が家にはもう帰れないわね」

「じゃあ一年経ったら火星で会おう」

「あたし、その後は地球まで行くつもりなの。向こうのラグランジェ5・ハブの旅行代理店と話をつけてあるの。旅行客相手の宇宙遊泳インストラクターが不足しているそうなのよ」

「そうか。俺たちは地球までは行けないな。宇宙船の切符は高すぎるから」

 コバヤシが寂しそうに言った。

 賢くもアードは口を挟まない。今この会話を邪魔したら小惑星帯伝説に出てくる宇宙馬に蹴られて死ぬかもしれないからだ。

 二人が取り留めもない話をしている間もラフトは静かに進み続けた。

 その遥か後方ではハチの群れが他に人間がいないかと探し回っている。



 多くのベルターたちはいち早く自分たちのラフトに乗り、火星を目指した。

 ラフトに特殊宇宙服の補給パックを積んでの長い旅である。

 途中でデブリに衝突したり、補給パックに不良品が混ざっていた者たちはそのまま宇宙を漂うゴミと化した。

 最初から最後までただ宇宙服だけに包まれて、真空の中を薬による長い睡眠と短い覚醒を繰り返す。こうして一年かけて火星へと向かうのだ。

 まさに宇宙漂流人のベルターだけにできる旅であった。

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