恋の名前 | #2. 夏炉冬扇

足元に転がる無数の切っ掛け

当たりなしの紙縒籤こよりくじ

引いた紙縒の先が赤く染めてあったとしてもそれは

決して恋の端こいのつまにはなり得ない

ただ、それだけのこと


***


「さむっ」


慣れないマンションのエントランスを出て首を竦める。見上げた灰色には氷の粒がちらついていた。

寒くて仄暗い、師走の朝。

どうせ会社を遅刻するなら、もう少し寝てればよかったか。


昨晩の事を少しだけ逡巡しながら、ユンギは足を進める。


思ったよりも面白いひとだった。

それに、他人の家で寝た割には、疲れが取れている気がする。

よく知らないひとと中途半端に眠った後の、鉛みたいな体をどうやって起こそうかと思ってたけど。


もしかしてあのひと…

いや、たったの一晩一緒にいただけ。

何が始まるわけでもないじゃないか。


頭に浮かんだほんの些細な予感のようなものは、朝の北風で簡単に吹き飛ばされる。

家に帰ったら、シャワーを浴びて、すぐ出社しないといけない。

例の会議には間に合うだろうか。


もう一度コートの隙間を埋めて、ユンギは歩く速度を上げた。



Chap.2


「アミおはよう…?」


重い体を引きずってなんとか会社に辿り着くと、同期入社の朴木ホオノキ 智文トモフミが心配そうにこちらを伺っていた。


「今日来ないかと思ってたよ。昨日飲み過ぎたの?大丈夫?」

「おはよ。なんとか…大丈夫だったのかな?」

「いや、僕に聞かないでよ」


入社して、早8年目。主事業としては広告代理店業界に属するこの会社は、入社当初こそ中堅規模だったものの、マーケティング全般から派生したBtoB事業がいくつも内在する形で事業拡大しており、今やワントップで完結できる何でも屋になっていると言っても過言ではない。

昨日はアミも参加していたプロジェクトの1つが、今期をもって完了したため、打ち上げと称した飲み会だった。プロジェクト自体がそこそこの規模だったこともあり、社内外の関係者がたくさん参加していたが、特段いつもと変わらない業務外スケジュールお付き合いだったはずだ。


時代は令和になり、どの企業もハラスメント防止を掲げたコンプライアンス教育が浸透した。結果として、お酒の場では、女性社員を腫物に触るかのように扱うだけでなく、若手・中堅社員が潰れるまで飲まされ醜態を晒すといったことが決してないよう、マネジメント側が指導・管理する。業務後といえども、飲み会はオフィシャルな場であり、自社でそのような事態が発生した場合は、即時経営層にエスカレートされるほどのインシデント扱いである。

クリーンである事が目的となってしまった交流の場に、やや寂しそうな雰囲気を漂わせるぎりぎり昭和を知るマネジメント層ジジィたちの相手をする機会はあれども、昨晩は記憶を飛ばすほどには精神的にも、体力的にも、疲弊していなかったはずなのだが。


「あのさ、昨日ワタシみんなと一緒に帰ったよね?」

「うん?いつも通り駅で解散したでしょ。まさか飲み過ぎて忘れちゃったの?」


「いや、なんというか、少し曖昧で…」

「珍しいね。アミは飲み過ぎることはあれど、記憶飛ばすタイプじゃないのに…」


今朝、起きた時の衝撃は、しばしフリーズするには未だ充分なリアリティを持ってここにある。

いつもの頭痛薬が功を奏したのか、痛み自体は引き潮だが、昨晩の記憶は後半にかけてすっかり抜け落ちたまま戻ってこない。


(ほんとに、信じられないくらいに思い出せない…)


今日も子犬みたいに可愛くて、フェミニンなトモの視線が、浮腫んでメイクものらない三十路オンナに容赦無く刺さる。

30年も生きていれば、みんなこういうことの一つや二つはあるものだろうか。

気づかないうちに飲み過ぎて、記憶を飛ばしたした挙句、他部署の後輩を部屋に連れ込み、全く思い出せないが状況的にワンナイトなど…


(アリエナイ)


「アミ?もしもし…?とりあえずコーヒーでも買ってミーティング行こ?体調悪いならすぐ言ってよ?」

「ん、ありがと」


30分後に次のプロジェクトのキックオフMTGを控えて、トモと社内のコーヒースタンドに向かう。

暖かいカフェラテが空っぽの胃に優しく染み渡るのと同時に、楽観的な思考が戻ってくるのを感じる。体温のほんの僅かな上昇だというのに、人間というのは逞しいものだ。


「忘れたままのほうがいいこともあるよね」

「何?面白い話なら忘れないうちに聞かせて欲しいけど?」


トモに何もかもぶちまけて、こちらも楽になりたい気持ちはあれど、何も話せないもどかしさに、苦笑いしかできずに視線をそらした。

だって、話したくても、覚えてないんだよね。


カフェラテの湯気。

コーヒーの香り。

白くて透き通った肌と、案外堀の深い横顔。


『先輩、その代わり、オレと…』


甘くて心地よい、砂糖みたいな声が一瞬だけ響いて、湯気の向こうに消える。


(オレと…なんだっけ…)


不思議と「怖い」とか「気持ち悪い」という感情は一度も湧いてこない。

むしろ…なんていうか、もっと一緒にいたかったような、


「あーみちゃん?そろそろ、行こうか?」

「あ、ごめん、行こう」


(何を、考えてんだ、ワタシは)


ユンギくんとは、顔と名前を見知った程度の関係だった。

これまで業務で絡んだこともないし、つまり彼についてはほとんど何も知らない。

あれは関係者の多いプロジェクトだったから、たまたま打ち上げに居合わせて、何かの拍子にそうなったんだろうか。


(そんな事が本当に起きたの?わたしに?)


でも、本当にワンナイトなら、向こうも変に意識されては迷惑だろうし、思い出せないのならむしろ、そのまま無かったこととして過ごしているほうがお互い都合がいいかもしれない。


仕事で一緒になるわけじゃないんだ。

今はそういうことしておくしかない。


(まぁ、なんとかなるだろう。)


些か苦しい言い訳と一緒にコーヒーカップをダストボックスにいれて、私は会議室へ向かった。


***


可愛い同期に恵まれた通い慣れた職場も、フロアは既にデスク使用率が120%に達している。都内のオフィス街にある複合ビルからは、そろそろ引っ越しが必要らしい。転居先がどこになるのか、この四角い箱に押し込められた人たちは一様に浮き足立つ。

そのくせ分業化が進んだ現場では、組織Treeがひとつ隣なだけで知らない人ばかりだ。


こんなに毎日同じ場所で働いていても、一度も面識のない人がいる不思議。

そのくせ、会いたくない人にばかり会う不思議。


「ねぇ、アミ…あの人いるね。大丈夫?」


会議室に入ると正面に陣取る主催者たちが真っ先に目に入る。

プロジェクト本部チーム。

どちらかというと一生会いたくないヤツがその中にいた。


最悪のコンディションの中、奇跡的に会議に遅れずに済んだ自分を褒めたいが、こんなコンディションで顔を合わせなければならない自分を同時に呪う。


軽く本部に会釈して、トモと席についた。


「ねぇ、トモ。ザ・ワールドと唱えた後、背中にクソ野郎って書いてここで9秒後に笑っているには何の修行が必要だと思う」

「そんなまどろっこしい事しなくても、僕が今から殴ってこようか?」


社内恋愛なんてロクデモナイことが多いが、自身のそれも御多分に洩れず、最後はあっけないものだった。

あいつとそういう関係になってから、いらなくなったと捨てられるまで、だいたい半年ほどだっただろうか。


「ワタシの可愛いトモに殴らせるわけにはいかないから…死んだ方がマシだと思う復讐シナリオ完成させとくわ」

「アミ、失恋直後の殺気を見事に隠した表情管理が完璧だよ」

「惚れてくれた?」

「すでに8年は君にゾッコンさ」


失恋直後と言うには、もう随分月日が経っているような気もする。当時は苛烈に湧き出ていた怒りのような感情も、仕事に没頭するうち、ぬるま湯程度になり、どこか奥の方で排水口を求めて溜まっているだけだ。


『君はもう僕には不要だから』


あれだけ甘い時間を過ごしたことは幻だったかのように、一切の興味を失った仮面みたいな顔。


「アミ、平気?」

「うん、寝てたら起こしてね」

「努力します」


公私混同はポリシーに反する。

8年もこの仕事をやってれば、出来うる限り最大限にアイツを無視するくらいの余裕はある。

痛いものを痛くないと思うのは、そんなに難しいことじゃないのだから。

私はもういいオトナなのだから。


***


「それではみなさんお揃いのようですので、プロジェクトキックオフをはじめたいと思います。改めまして、統括本部のキムラです。」


軽快な雰囲気で始まった新しいプロジェクト。

クライアントはHB社。ここ最近、連続で受注している中規模化粧品メーカーである。

数年ぶりの新商品ともあって、先方も相当気合いが入っているようだ。


「今回も我々のアウトプットに非常に期待いただいております。クリエイティブ制作から、オンライン•オフラインの販売マーケティング、PR活動まで、部署横断で対応する事になります。ワンチームで、最大限の成果を目指しましょう!」


お決まりの滑り出しといったところか。


ワンチームだのワンナイトだの騒がしいなと思っているうちに、担当部署毎、メンバーの自己紹介にアジェンダが移っていく。


「以上が統括本部•PMOメンバーです。では次、制作•編成部お願いします。」


「ハイ。編成•制作部の俊です。初めましての皆さん、よろしくお願いします。いつも常連の皆さんも、引き続きお願いします。TV CM、音源、Webコンテンツ、クリエイティブ全般担当いたします。フロントメンバーは僕と… ちょっと来てないけど、2名で担当する予定です。どうぞよろしく。」


編成•制作部リーダー、みなみ じゅん

高身長、高学歴、高収入。

イケメンという言葉が生まれるもっと前、90年代に理想とされたいわゆる“3K男子”雑誌に載っていそうな風貌。今日も黒いTシャツにジーンズとラフなスタイリングで、スーツ組ばかりの暑苦しい会議室に、一際爽やかな風を吹かせている。


「ジュンさんいるなら心強いね」

「だね。不幸中の幸いってやつ」


彼がリーダーとして担当する案件は、クオリティが高く、納品スケジュールも正確で、アミたちも信頼を寄せている同僚の1人だ。年も近いので、個人的に気を許せる友達でもある。


「では次、マーケティング戦略部」


「はーい、いつもお世話になってます。マーケからは私、日野と朴木で参加します。いつもながらタイトなスケジュールと予算になりそうですが、プレッシャーに負けずに精一杯楽しみたいと思っていますので、どうぞ…」


”どうぞよろしく”と、言って終わろうとした時だった。

会議室の扉から誰かがそっと入ってきて、俊の横に並んだ。


その見覚えのある顔に、呼吸が止まる。


「ゲホッゲホッ…!!?」

「ちょっと、アミ大丈夫?」


「すみません…どうぞ、よろしく…。」


白くて透き通った肌と、案外堀の深い横顔。

仕事場では黒縁のメガネをかけているようだが、見間違いではない。

動揺を隠せない私に、少しだけポーカーフェイス寄越して、すぐに俊と何事か話こんでいる彼は、紛れもなく今朝私の部屋にいた…


「遅れてすみません。制作チームから参加します、閔です。」


MTGは時間丁度にクロージングを迎え、各々が退席し、持ち場に戻っていく。

仕事で絡まないなら、なかった事にできるだろうという浅はかな目論見が、頭にガンガン響いて情けない。

表情管理に努める気力を根こそぎ砕かれ、灰色になりかけてる私に、トモが何事かと心配そうな視線で退席を促すが、あと数歩で出口というところで木村に呼び止められてしまった。


「アミ… いや、日野さん。ちょっとイイ?」


イイわけないだろ、と内心叫びながら、ここで無視するのは公私混同を否と決めたプライドが許さない。トモに先に戻るように言って、踵を返した。


「なんですか」

「その、仕事は仕事として、いつも通り頼むよ。余計な私情を挟むのは上へのプレゼンスもよくないから。」


「ええ、もちろん、そのつもりですけど。用件それだけ?」

「あぁ。それじゃ。」


わざわざ呼び止めたと思ったら、自身の保身ための忠告とは。

しかも私が私情を挟む前提である。

随分と舐められたものだ。


(なんだアイツ。)


誰もいなくなった会議室で、やり場のない苛立ちがどこかに消えるのを待つ。


夏場の火鉢に、冬の扇子。

要らないものは捨てられる。



成り行きであんなのと付き合ったりした自分がムカつくほど、どこにでもある、つまらない話だ。

そうだ、これはとっくに終わった話じゃないか。

もう恋なんて出来なくていいから、全部なかったことになればいいのに。


「へぇ、あれが先輩の元カレ?」

「っ?!ユンギくん…」


いつの間にか会議室に戻ってきたユンギが、後ろ手に扉を閉めながら入ってきた。


「俺の方が100倍イケメンで天才ですね。あんなのに浮気されて振られたからって、どうして先輩がへこむのかサッパリわからない。」

「いや、ワタシは別にもう…って昨日そんなことまで話してたの?!」


「自分にも悪いところあるから、とかって言いたいんですか?悪いとこなんて思いつかないから、ずっと引きずってるんでしょ。それとも、先輩はいつまでも悲劇のヒロインでいたいのかな」

「そんなことない!」


こんな風に言われるほど、ワタシは昨晩どんな醜態を晒したというのか。いや、もしかしたら暴言でも吐いて相当に嫌な思いをさせたのかもしれないが…


「…どうしてキミに怒られてるのかな、ワタシ何かしちゃった?」

「だって先輩が、あんな奴のことばかり考えて、思い出してくれないから。昨日のこと。」


(っ?!)


「わ、私たちほんとに昨日…その…」

「まだ思い出せないの。仕方ないな…」


ユンギが眼鏡をはずして、こちらに間合いを詰める。

窓側に身体を向けられて、気づけば後ろからホールドされて身動きが取れない。


「ちょっと、ユンギくん?何を…」

「昨日と同じことしたら、思い出せますか」


すっかり日が短くなった12月の空。

眼下に広がるオフィス街にも夕方の気配が漂う。

冷たく冷やされた窓ガラスが、驚きを隠せない自分の顔と、耳元に寄せられた白くて端正な顔をうっすらと映している。


「昨日僕たち、まずこうやって…」


背中に感じる熱と、右耳から頭に直接響く甘い声が、身体の奥に細波を作りだす。


「んっ…」

「やっぱり、耳、感じやすいんですね」

「ちょっと、やめ、そこで話さないでっ」

「先輩、思い出して?昨日、約束したこと…」


(昨日…約束?)


駅、プラットフォーム、怒り…

ベット、温もり、安心


いくつかの断片的な画像が、感情のかけらと一緒に浮かんで、消える。


熱い吐息が、耳を伝わる度、体が痺れていく。

あぁ、どうして君の声はこんなに


『そんなことないって、俺が証明しますよ。』

『…んっ、なに』

『その代わり、俺と、約束してください』


(何を、約束した…?)


「やめてっ!」


ドンっと、ユンギの体を無理やりに離して、我に帰る。

ココ会社。ワタシ業務中。

何を流されてんだ。何を。


「揶揄うのはやめて?今はまだ思い出せないし、カッコのつかない状況だけど、仕事はちゃんとやりたいの。今後はユンギくんとも同じプロジェクトみたいだし。昨日の件は思い出し次第謝罪でもなんでもするからっ!」


逃げるように会議室を出る。

一体全体、何がどうなってこんな事になってしまったのか。

その理由を、私はまだ知らない。



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恋の名前 春雨花時雨 @slys2206

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