恋の名前

春雨花時雨

恋の名前 | #1. 恋の端

風花舞う季節

風冴ゆる灰色の空

今年最後の月が、賑やかな通りを駆け足で過ぎていく


そんな冬の端っこで

忙しないくせに退屈な時間を、只管にやり過ごしているたくさんの中のひとりのワタシ


ただ、毎日を生きている事に

大義が必要なほど、貧しくもないこの国で

夢だとか、愛だとか、希望だとか

人生のエンタメなど無関係な世界線にいる本当のワタシ


信じて疑いもしなかった

終ぞ落ちることはないのだと

甘く、深く、揺蕩う

恋の淵になど


Chap.1


ーPi Pi Pi Pi Pi Pi


鳴っている。

生まれてから今まで、ほぼ毎朝聞いているだろう電子音。こんなにも気持ちのいい場所から、強制的に、どこか遠い所へ連れ戻される儀式。そこで目を開けるのは、あまりに苦しい動作であることを、夢の中の自分とて知っている。


あぁ、もう行かなくてはいけない。

どうしてだっけ。そんなに苦しいのに、なんで目を開けるんだっけ。

伸ばした手が寒い。

危険だ、暖かいところにいるべきだ。


ーPi Pi Pi Pi Pi Pi


条件反射的に伸ばされる手は、これが今朝何度目かの接触だと記憶している。あちらとこちらの通行手形。夢と現ユメトウツツの間で、自分の中のどこか知らない場所の正確なカウント。きっとその場所には「スヌーズ対策本部」とかいう看板があって、少し慌てた感じのワタシが館内放送を流しているんだろう。

次で起きなければ何か悪いことが起きるんでしょう?

ねぇ、目を開けた方がいいんじゃないの。


目覚まし時計にスヌーズ機能がついたのは、一体いつ頃のことだろう。この悪魔の機能。初めに発明した人は人類で最も偉大な寝坊の達人オーバースリーパーだったのだろうか。仮停止と本停止の終わりなきせめぎ合い。本停止ボタンを押せば永遠の幸福が得られることを知っている。この煩わしい駆け引きから解放される。でもダメなんだ。ここは仮停止にして次回のスヌーズに賭けねばならない。次のスヌーズこそがメシア。未来の時間を買うべきだ、この束の間の幸福を得るために。2回目も3回目も、いつだってスヌーズは救世主のはずだが、ワタシに一生愛されることはない。それに今日はなんだかおかしい。頭も体も泥のように重い。そんなに深いところに潜ったのだろうか。そして何故かここは、居心地が良すぎる。


ーPi Pi Pi Pi Pi Pi


最高水準の忖度を持ってしても、4回目ともなるとスヌーズ対策本部も穏やかではいられない。

最終通告ですよ。

ねえ、聞いてるの?

さっき超えたのがボーダーラインだったの。

もう間に合わないんですよ。今朝はもう失敗なんです。

どうせ失敗なら、ダメージが少ない方を選んでいただかないと。

ほら、目を開けましょう?

いいえ、今すぐです、

ダメです。次のスヌーズは実行致しかねます。


わかっている、つまり、会社に遅刻だ。


勤労は時間通りに始めねばならないという、資本主義のDNAに急かされて、どこか頭の隅がだけが目を覚ます。実際に目は開かないからだ。重い。体が、頭が、何もかもが。このまま隣のあったかい抱き枕にくっついて沈んでいたい。ぎゅっと握り締めればその温もりと一緒に、安心感がなだれ込んでくる、大好きな感覚。あぁ、もういいや。このまま、もう少し、こうやって…


「って、ちょっと待って!?」


スヌーズ対策本部が危機管理本部に切り替わる。


ー Invalid input*暖かい抱き枕は所持していません 。危機管理チームに全権を委任します。


その早さ0.001秒。

スーパーコンピューターとて未だ人類の計算スピードには追いつかない。


「おはようございます、先輩」


冬の朝日に照らされた真っ白な肌。

粉砂糖みたいな甘い声。

案外堀の深い横顔にかかる、少し長めの黒髪。

後輩によく似た男の子が隣で体を起こしていた。


「…あぁ、なんだ、まだ夢か」


しばしのフリーズの後、非現実的な状況の理解に努める。

いやいや、おかしいと思ったんだよね。

夢の中であれば説明がつく。

今日はなかなか起きれない日だから、まだワタシは夢を見てい…


「生憎、現実です、ほら」

「っ?!」


掴まれた手で触れたそれは、ヒトのようだった。当たり前だ。こんな精巧なアンドロイドを酔っ払って買ってきたのだったら、ワタシはそろそろ本気で禁酒をしないといけない。


先ほどまで抱きついて寝ていたそれは、どうやら生きた人間だったようですね。

なるほど納得しました。

だからそんなに温かかったんですね。


どんな些細なことにでも理性的に理解に努めるのは、未知の状況に対する脳の防御反応か。


「覚えてないんですか?昨日、あんなに可愛かったのに?」

「なっ?!えっ?!」


慌てて布団の下を確認する動作は格好のつくものでもないが、こんな条件反射みたいな動作がワタシにも備わっているらしい。とりあえず何かを着てそうだが、それが安全な状態であるかは全く確信がない。

理性的判断など無駄な努力。

なんだ何がどうなってる。

どうしてキミがここにいる。


ナチュラルに起き上がった彼は、何事か述べて、部屋を出ようとしていた。まるで近所の住人のゴミ出し挨拶のように、そうそう今日は冷えますねっていうような感じで。


「お邪魔しました。じゃぁまた後で会社で。」

「ユンギくん!ちょっと待って!」


「本当にもうわけないんだけど、ワタシ昨日、何したの?!」


後輩くんの大きな背中が震えている。怒ってるのかもしれない。ワタシは何をそんなに酷いことをしてしまったんだろう。どうやって謝ったらいいのか。

でも、如何せん、何も覚えていない。


「ククク…あはは。いや、普通そこは、何されたの?って聞くところでしょ」


ワタシは今、鳩が豆鉄砲を食らったような顔をしているのだろう。ユンギがこちらを見てさらに吹き出している。そもそも鳩が豆鉄砲を食べた顔を見たことがある人がいたら教えて欲しいものだ。令和の鳩は雑食で、豆鉄砲だろうが、豆煎餅だろうがなんでも食うのだから、何を食ったところで、大した顔ではないだろうが。


笑いながらベットに座り直したユンギが、耳元で何やら囁いた。

それは、砂糖みたいに甘い、妙にくすぐったい声。

ワタシをフリーズさせるのには充分なボリューム。


「大丈夫ですよ。先輩、気持ちよさそうでしたから。」

「っ?!」


「あぁ、でも、昨日した約束は、たとえ先輩が覚えていなくても守ってもらいますよ?」

「約束って何?!」


「さぁ、なんだったかな」


真っ白で甘い、砂糖みたいな笑顔。

ドアの閉まる音。

12月の寒い朝。


頭の奥を、記憶が飛んだ原因に殴られながら、また何度目かの目覚ましが鳴っている。

あぁ、きっと、夢オチワンチャンがあるハズよ。

そうでしょう?スヌーズ対策本部。


ーPi Pi Pi Pi Pi Pi


酷い二日酔いと目覚ましの不協和音。

5回目のスヌーズが、今朝の遅刻確定の警笛を鳴らしていた。

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