終.相添うもの

 

 

 目白は、遠慮を示すかのように敷布の端に止まった。

 囀ることもなく、小首を傾げて長国の目を覗き込んでいるようだった。

「おまえまで、遠巻きにしてくれるな」

 その小さく丸い身体に触れようと指を伸ばす。

 老いて細った指は枯れた小枝のようで、我が手ながらみすぼらしくも見えた。

 失った家臣の忠義の心に等しく、この身に刻まれた皺は深い。

 ふとそんなことを想う。

 彼らのうち、一人でも欠けていたなら、今の世にこの身は無かったものだろう。

 一国の城主であったあの頃、中でも最も近くにいた者の名を、今もはっきりと覚えている。

 大人しく、繊細な心の持ち主だった。

 ほんの少年の頃の彼は玻璃のように砕けやすく、しかしそれ故に美しい感性を持っていたように思う。

 家督を継いだばかりの頃、熟達の家臣が取り囲む中に、ひとり放られたような心細さを禁じ得なかった。

 宴に弓を所望したのは、ただの気まぐれに過ぎない。

 主君となった我が身にかかる重圧と、先行きの不安感の中、幾度となく側に上げては共に風流に興じた。

 武次の繊細さが織り成す書画や詩歌に触れるたび、煩う心は慰められたものだ。

 細やかなその気立ては、前髪を落しても尚変わらなかった。

 気疲れの多い城勤めは、内向的な彼にとって、時に過酷に感じられることもあっただろう。

 泰平の世から維新の動乱を経て、その胸の内に何を思ったか。

 何を、憂いたのか。

「目白よ、おまえは分かるか」

 あの戦で、城も家中も灰燼に帰すまで徹底的に抗い、大事な臣を数多失った。

 城主たる自分もまた、やはり城と命運を共にすべきであったのに。

 そう悔恨することも、一度や二度ではなかった。

 あの時、主君を逃がそうと力業に出た家中を責める気はない。

 それでもやはり、死に時を失くしたことを恨みに思うことは全くなかった、とは言えない。

 謹慎の身に塞ぎ込む最中にも、人知れず自害を考えたこともある。

 生きるも死するも、思うに任せぬ身の上であった。

 武次はその側にもただ黙して寄り添い、謹慎の部屋に折々の花を添えてくれたものだ。

 かつて褒めたことのある蓮の絵を描いてみせては、

「今が泥中ならば、いつかまた水面みなもに花開く時が参りましょう」

 と、言っていたのを思い出す。

 静かに微笑むその顔は、少年の頃の面影を残し、相変わらずに長国の中に潜む孤独を癒した。

 明治四年の廃藩後、嘗ての所領・二本松の地から帝都へ移る時。

 何故あの時、その手を放してしまったのか。

 共に来い、と再三の説得をしたのに、彼が再び長国の手を取ることは最後までなかった。

 そのくせに、別れ際には大の男が辺り憚らず涙を流していたのを、昨日のことのように思い出す。

 その顔は初めて会った時、まだ前髪の少年だった頃の姿そのままのようだった。

 あと少しだと知っていたなら、別離など選ばず、また選ばせなかっただろう。

 武次は、その僅か四年後に死んだ。

 今にして思えば、あの別離の時には既に、己が先の短いことを悟っていたのかもしれない。

 大切な者の目から、自身の死を隠すかのように。

 二度と会うことが叶わぬままに、永の別れとなった。

 それからの長国の生涯は、思えば泥の中を懸命に藻掻くようだったかもしれない。

 迎えた養子に添わせた長女・峯子が二十歳を数えずに世を去り、養子・長裕もその三年後に他界した。

 その後に迎えた養子も、つい一昨年に子のないまま没し、長国は古希を目前にして再び当主とならねばならなかったのである。

 これに先立って、帝都に移り住んで以後も仕え続けた青山半蔵も、十年前には不帰の客となっていた。

 自身よりも若い者たちが世を去っていく様は、心に辛かった。

 一体何の罰を受けるものか、その身に病を持ちつつも、気付けば七十一になっていた。

「花なき鳥、か」

 囀ることのない目白の身体にそっと触れ、老いて掠れた声を絞る。

「迎えに来るのが、ちと遅かろう。のう、武次よ」

 

 いまさらに いくべきかたも おもほえず

 花なき鳥の 心地のみして

 

 別離の際、武次が詠んだ歌が今また聴こえたような気がして、長国は静かに目を閉じた。

 

 

 

 【了】

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