五.笑み曲ぐもの

 

 

 大風が去るのと殆ど同時に、小姓詰所には落合仙之助の姿が見えなくなった。

 常に仙之助に取り巻いていた二人は変わらず小姓勤めに出ていたが、仙之助がいなくなるとそれまでの態度とは打って変わって大人しくなり、武次に突っ掛かるようなこともなくなったのである。

 仙之助に代わって、新たに武次を貶めるような振舞いをする者も出てはこず、平穏な日々が続いた。

 番入と共に諸役に回されて詰所を去る者はあるが、仙之助はまだ十七だ。

 それには今少し届かず、時期尚早である。

 仙之助について詳しく知らされることのないまま、何事もなかったように日々は過ぎた。

 武次が三つ上の青山半蔵とよく言葉を交わすようになったのは、この頃からである。

 中小姓頭の助左衛門の嗣子で、仙之助のような横暴さはなく、どちらかと言えば物静かなほうであった。

 それが左京太夫さながら、武次を何かと気に掛けては話を振ってくるようになったのである。

 はじめは助左衛門の指示による変化かと身構えてもいたが、会話を重ねてみれば、半蔵は実に温雅で面倒見の良い人間だった。

 気が付けば、兄と弟のような関係となっていた。

「仙之助のことだが、あの後、僧門に入ったそうだ」

 ある時、半蔵が唐突に口を割ったのを、武次はうっかり聞き流しそうになった。

 左京太夫に仕え、また組内では半蔵と親しくするうちに、あれほど苦悩していた仙之助の存在は殆ど忘れかけていたのである。

「僧門、ですか」

「あれは医者の子だからな。医術を身に着けるべく、四書五経の学び直しから修行に入ったらしい」

「あの方が、自ら医道に?」

 医師の子だとは先から知るところだったが、底意地の悪さしか印象には残っていない。

 あの仙之助が人を癒す医師を志すのかと思うと、しっくりと来ないところがあった。

「いや、親父殿のご判断だそうだ。まあ奴に小姓は合わなかったんだろう、忘れてやってくれ」

「……はあ」

「人というのは、境遇一つで大きく変わる。あんな奴でも、猛省すれば、或いは仁者になれるやもしれん」

 という話であった。

 

   ***

 

 その翌春、左京太夫は再び参府せねばならず、主従は一年余りの時を離れて過ごさねばならなかった。

 本音を言えば左京太夫について江戸へ上りたいところであったし、左京太夫本人もそう望んだらしい。

 しかし、武次の年齢と父の役目ゆえに叶うことはなかったのである。

 参府の時が迫るにつれて、武次も左京太夫も共にひどく気落ちしたものだが、出立の直前、左京太夫は武次にある課題を呈した。

 次に帰国のときまで、書画の師について学ぶことを武次に命じたのである。

 小姓組の者は城に詰める間も各々学問や武芸の研鑽に励むことが常で、武次もまた好きな学問や書画、詩作に没頭することが多い。

 或いは左京太夫は、自身が離れざるを得ない代わりに、武次に関わり合いになる人間を示すことで、その安寧を保とうと考えたのかもしれなかった。

 そうして出会った師が、根本辰三である。

 号を愚州といい、五十を過ぎて尚奔放なところのある、存外に闊達な男であった。

 出会いから一年が経った万延元年の春、左京太夫は名残を惜しみつつ江戸へ向けて発つ。

 見送る武次が寂しさに思わず涙ぐむのを、左京太夫は笑って諭した。

「次に会うときには、更に上達した書画を見せてくれよ」

 そう慰めると、左京太夫は武次の前髪にさらりと触れてから、その大きな手で頬を撫でた。

 その時に親指の腹で拭われた目許が温かかったのを、武次は一年の時を待つ間にも忘れることはなかった。

 

   ***

 

 真っ新なままの紙と対峙したまま、なかなか筆を執ろうとしない武次に、愚州が声をかけた。

「どうした、筆が乗らんか」

「いえ、そういうわけではないのですが」

「殿様の御帰国まであと少しだろう。何を描いて御覧に入れるのだ」

 いつも二言目には左京太夫の話を繰り出す武次を、愚州はその都度笑って耳を傾け、また帰国を待つ楽しみを助長するように問いかける。

「それが、まだ決まっておりません。梅や桜をご覧頂きたいとも思いますが、やはり蓮がよいかと、迷っております」

「ふむ。花も良いが、御帰国は五月になるというし、黄鶲きびたきや大瑠璃などはどうだ」

 初夏に相応しい鳥の名を並べられ、武次はほんの一瞬口籠る。

 鳥には、あまり良い思い出はない。

 左京太夫との出会いを飾った出来事そのものは、決して誇らしいものとは今以て言えなかった。

「……鳥は、描きたくありません」

 ましてそれを左京太夫の目に触れさせることは、気が進まない。

 あの嵐のあとに、崩れた墓は修繕された。

 二度と流されることのないよう囲いを作り、出立前の左京太夫と共に花を手向けたりもしたが、それでもやはり、一時でも主君の愛した命を奪ったことへの後ろめたさは残り続けていた。

「鳥は苦手か」

 愚州が今に至るまでの顛末を知る由はなく、訝るのも無理はない。

 宴での失態をぽつりと打ち明けると、愚州はぽかんと口を開けて目を丸くした。

 そうして、突如豪快な笑声を上げたのである。

「そうか、殿の御愛鳥を的の絵にしたか」

「笑い事ではございません! あの時のことは未だに、どうお詫びすべきかと……!」

「すまんすまん、そうだな。しかし殿はこうしておまえを寵遇しておられるのだ、今更気にすることもないだろう」

 それに、と愚州は年甲斐もなく悪戯な顔を作る。

「御当代は、おまえに鳥の恨みを抱いてなどおられぬよ」

「殿も、そのように仰せではありましたが……」

 それと自分の中に蟠る申し訳なさとは、また別な問題であった。

 左京太夫が赦しても、罪そのものが消え去ることは決してない。

 その上で武次を見出し、深い情を以て接してくれる存在は他にないと思っていた。

 だが、それは果たしていつまで続くものだろうか。

 片や、多くの臣を抱える一城の主。

 片や武次は、その大勢の家中のなかの一人に過ぎない。

 他に目に留まる者が現れれば、自分もまたあの鳥のように、左京太夫にとって過ぎ去った存在となってしまうのではないか。

 一年という月日は長く、時折そんな不安が武次の心に重い靄となって沈み込む。

 久方振りの再会に、態々自身の過ちに繋がるものを絵に描いて見せることには抵抗を禁じ得なかった。

「いいか、よく聴け。丹羽の殿様というのはな、一度寵遇した人間は先々も遇し続けるぞ」

 愚州の話の意味するところが解せず、武次は首を傾げる。

 その反応を待っていた、というふうに、愚州は胸を仰け反らせた。

「おれはな、元々は今の大殿に見出されて江戸で書画を学んだ」

「はい」

「ところがどうだ、おれは来る日も来る日も師の代作ばかりを描かされる。それに飽き飽きしてな、ある日出奔してやったのだ」

「え、はっ!? 出奔ですか!?」

 武次はぎょっと目を瞠った。

 するとその反応が好ましかったと見え、愚州はにんまりとする。

 先代の藩公によって遊学の機会を与えられたものを、いくら師事に不満があったとはいえ、出奔などとは思いも寄らぬ展開であった。

 しかし、愚州が嘘を言っているようにも見えず、武次は困惑する。

「出奔して、どちらへ向かわれたのですか」

「あちこちだ。まずは大阪へ行ったが、そのあとは熊本にも足を延ばしたぞ。様々な師に出会ったお蔭で、大いに学べた」

 うんうん、と自ら頷きを挟みながら、愚州は懐かしむような口調で語る。

「熊本には細川という大名家があるが、細川の殿様の御目に留まってしまってな。藩に仕えよと、それはもうやかましく言われて、随分と留め置かれてしまった」

「しかし、先生が今こちらにおられるということは、それでは細川様への出仕はお断りなされたのですか」

「いや、断ってはおらん」

「? どういうことですか」

 武次はいつの間にか愚州の話に引き込まれていた。

 軽妙な口調で、ざっくばらんに話すその内容が、純粋に面白いと思ったのである。

 武次の目が話の先を期待して輝くのを見て取り、愚州はにやりとした。

「おれが留め置かれているのを聞きつけた大殿が、細川に使者を寄越したのよ」

「御使者が連れ戻しに来られたのですね」

「まァそうは言っても、おれは勝手にふらふらと諸国を遍歴していた身だからな」

 細川も、はいそうですかと引き渡しはせんよ。と、愚州は巧みに話に抑揚をつける。

「するとどうだ。この使者というのが成田又八郎といってな、これが根本は我が藩の重罪人である! ときた」

 さすがに罪人となれば、如何な細川も愚州の身柄を引き渡さざるを得ない。

 何が何でも連れ戻すという、先代藩公の強い信念を感じさせるに十分な話であった。

 事実、先代から受けた処遇を蹴り飛ばして出奔した過去があるので、罪人と言えば罪人である。

 使者は嘘をついているわけでもなく、何らの無謬むびゅうもない。

「ご丁寧にも、奴らまことにおれを目駕籠に押し込みおって。そのまま江戸まで運ばれたわい」

「ですが罪人として引き受けたとなると、先生は何か御処分を受けられたのですか」

「いんや、何も? チョット大殿に叱られたぐらいで、今に至るまで、ご覧の通りの寵待よ」

 左右の腕を広げて胸を張ってみせる愚州に、武次はふっと噴き出した。

 一頻り語り聞かせ、愚州は満足の行った様子である。

「な? はじめに言ったろう。丹羽の殿様は、そういう御方だと」

「しかし、先生のは大殿様ではありませんか」

「なぁに、御当代もその御血筋だ。現に大殿同様、おまえをおれに託して、好きな書画を学ばせているだろう」

 地獄の果てまで逃げたとしても、きっとその寵愛ゆえに必ず追いかけて来なさるぞ。などと軽口を叩く愚州に、武次はまたも噴き出してしまったのだった。

 

   ***

 

 文久元年の五月に左京太夫が帰国すると、武次は愚州から得た技量を以て一枚の書画を差し出した。

「ほう、これは」

 一年ぶりに見る左京太夫は一層温和で、その再会を喜び目を細めた。

 更には参府の直前に交した約束を真っ先に果たそうと進み出たことが嬉しいらしく、左京太夫は満面に微笑んだのだった。

 庭園の別邸は静かで、夏の緑が色濃く日に映える。

 そんな景色には些か季節のずれた書画であった。

「梅の木と春告鳥……いや、目白か」

「はい。この時期には不似合いな鳥ですが、初めて描く鳥は、目白がよいと思いました」

 武次は緊張していた。

 いくら愚州に諭されたとはいえ、やはり左京太夫本人の反応を目の当たりにするのは勇気の要ること。

 左京太夫は暫くじっと書画に見入ってから、徐ろに顔を上げた。

 その表情を直視する覚悟が整わず、武次は俯く。

「ああ、余とおまえを引き合わせた鳥だ。書画の上達は勿論だが、余は目白を選んだおまえの心をこそ、嬉しく思うぞ」

 一年の別離の間に、幾度も武次を苛んだ不安は、この一瞬にして霧消した。

「殿に、永劫お仕えしたく存じます。次の参府には是非、私もお連れください」

 ほうっと心弛ぶのと同時に、既に心の奥底にまで何にも代え難い存在になっていることを思い知る。

 武次のその申し出に、左京太夫はくしゃりと顔を歪めて笑った。

「余もそれを言おうと思っていた。やはり武次がおらぬと、寂しくてかなわんのだ」

 それから、と、左京太夫は声を潜めて辺りを窺いながら武次の耳元に顔を寄せる。

 少し離れて他の小姓や近習の者が控えていたが、彼らに聴こえぬように配慮したらしい。

 左京太夫は、武次だけに聴こえるようにこそりと声を抑える。

「余のことは、左京でよいぞ」

「えっ……!?」

 思わず息を詰まらせた武次は、仰天して左京太夫を見た。

 左京、などとはとても家臣が気軽に呼べるものではない。

 尊ぶべき存在を、不躾に呼ぶこと自体が憚られる。

「そう驚くな。武次なら長国と呼ぶことも許したいところなのだ。しかしまあ、それは流石に他に聞こえてはまずい。名を呼ばせて、またおまえに災いが及んでも辛いのでな」

「しかしそれはあまりに……」

「だから左京だ。二人のときならば問題もあるまい」

 得意顔で提案するが、長国というのが左京太夫の諱であり、家臣がそれを呼ぶなどとは有り得ないことである。

 かと言って、当人の妥協案であるらしい、左京と呼ぶことすら畏れ多い。

 武次がおろおろと返答に困っていると、左京太夫はほんの僅か憂いを含んだ笑みをこぼした。

「世子となってからは皆、余の名を呼ばぬようになってな。今や殿だの御前だのと、そればかりよ」

 一人ぐらい、気安く名を呼び合う者があっても罰は当たるまい。と、左京太夫は言う。

 こんなふうに言われては、固辞するのもまた無礼に当たるような気がしてしまう。

 だが左京太夫がふと見せた憂い顔と、その言い分を慮ると、その心を支えねばなるまいとも思った。

「では……、左京様、とお呼びして宜しいのですか」

「お、呼んだな? 良い、良い。おまえだから許すのだ、以後もそれで良いぞ」

 

   ***

 

 愚州の話の通り、左京太夫からの寵遇が変わることはなかった。

 左京太夫に幾人か子が生まれても同様で、次に参府には親元離れて共に江戸へも上がった。

 また、数年を経て武次が番入りすると、左京太夫の近習というその役名の通り、尤も主君に近い役目を賜ったのである。

 あの日、中小姓頭の助左衛門が焚き付けたのが現実のものとなったのだった。

「やはり殿の近習は、武次でこそしっくり来るというものだな。寧ろおまえ以外には考えられぬ」

「そのようなこと、他の近習の前では仰らないでくださいよ」

 満足げに言うのは、今は小姓目付となった半蔵である。

 数年前のあの頃から変わらずに親しく、半蔵は自らの利や名誉よりも左京太夫の心に沿うことを第一に思う、臣下の鑑のような男だった。

 だからこそ小姓の中から武次を近習に押し上げた。

 その様は、嘗ての助左衛門を彷彿とさせ、愚かにもこの時になってはじめて、あの時の助左衛門の推挙が、真に左京太夫と武次との双方を思い遣ったものであったと知ったのである。

「まあ近習となっても、我ら小姓組との関わりも深い。引き続き宜しく頼むぞ」

 半蔵は、にっと口角を上げて笑う。

 半蔵の父、助左衛門はあれから中小姓頭の役を替わり、今は側用人となっていた。

 それぞれ役は違えど、依然として関わり合いの深い役どころであった。

 数年を経て愚州も更に年輪を重ねていたが、変わらず師弟の付き合いを続けている。

 しかし。

 順風満帆に思えたのは、この頃までだろうか。

 時勢は平穏だった城を、そして藩全体を巻き込み、やがて動乱の渦中へ引きずり込んでいくのである。

 

 

【六.へ続く】

  

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