六.憂懼するもの
左京太夫は、男児に恵まれなかった。
正室・側室共に男児を儲けはしたものの、いずれも夭折していたのである。
加えて左京太夫長国は病がちで臥せることが多くなり、後継問題は速やかに対応を要するものだった。
この憂いを除くため、藩は逸早く養子の迎える手筈を整え、未だ幼い長国の長女に娶わせるつもりで養子を迎えた。
それが、慶応四年の二月だった。
倒幕の機運が高まり、幕府が大政を奉還した後のことである。
錦旗を掲げて東征を始めた新政府軍を前に、江戸城は三月に無血開城と相成り、ここに徳川幕府の世は終焉を迎える。
しかし、徳川十五代将軍慶喜が江戸城を去り謹慎すると、新政府軍の矛先は、京都守護職の任にあった会津藩へと向けられたのである。
奥羽諸藩には、会津に同情的な態度を示す国が大半を占めた。
その中で二本松藩丹羽家もまた、重臣たちの引きも切らぬ議論の末に、徳川への忠義を貫く藩是を定めたのである。
この年二十六を数えた武次は、安政六年の春、出会った頃の左京太夫と同じ歳頃となっていた。
***
「御上のご様子はどうだ」
左京太夫が寝間に休むのを見届けて下がると、待ち構えていたかの如く、半蔵が声を低くして訊ねてきた。
夜の城内はひっそりとして、十分に潜めた半蔵の声もはっきりと聞き取れるほどの静寂が包んでいる。
武次は返答の代わりに、小さく首を左右に振った。
「……そうか」
「御心労が重なっておいでですから」
この五月には奥羽越列藩同盟が組まれ、藩はそこに調印していた。
奥州での戦端は既に開かれており、二本松領の南方、白河城が陥落してからというもの、その奪還戦は何次にも亘って繰り広げられている。
主力の藩兵は殆どが城外に出払い、城は閑散としていた。
そう遠からず、城下に敵軍が攻め込んでくる。
誰もがそう予測しながら、それでも尚、藩は同盟の義を貫く構えを崩していなかったのだ。
六月も半ばを過ぎたつい先日、今年二月に迎えたばかりの養嗣子が病でこの世を去ったことも、左京太夫の心身に大きく影を落としているのに違いなかった。
苦難の連続である。
左京太夫は生来、身体の強い人ではない。
病苦を抱えながら、一日たりとも心休まることのない立場に置かれ、そこを退くことの許されぬ左京太夫に対し、武次は一層の不安を覚えていた。
このまま儚くなってしまうのではないか。
そんな懸念が覗いては、縁起でもないと
そんな日々が続いていた。
「御家老に帰順のお考えは全く無いようだが、肝心の御上はどう捉えておいでなのか……」
半蔵が吐息混じりに独り事ちるのが聞こえた。
「今の左京様に、そのような問い掛けは出来かねます」
「無論だ。御上には一日も早く御快癒頂かねばならん」
二人はそのまま表御殿へと足を進める。
白河城奪還戦の報告は芳しくなく、城に残る老臣たちは連日昼夜の別なく議論を続けていた。
時にその声は奥御殿にまで届くほどに白熱し、武次はそのたびに左京太夫の様子をはらはらと見守ることになるのである。
家老・丹羽一学と用人の丹羽新十郎は頑なに抗戦を主張し、城代・丹羽和左衛門らは鳥羽伏見の戦端が開かれた頃から早々と恭順論を呈していた。
真向から対立する主戦と帰順の論調は、刻々とその盛衰を変化させ、まったく落ち着くところがない。
今もまた夜の静寂を破って、主戦論の声が隆盛を極めるのが漏れ聞こえ始めていた。
表御殿の南端、奥御殿からは最も遠い大書院からの声だ。
老臣らも議論の場所は選んでいるらしい。
場所を選ぶ心配りがあるのなら、声を抑える努力もして欲しいものだと、思わないでもなかった。
二人は三十六畳もの広く長い畳廊下を横切り、半蔵がその詰所として使う一室へ入る。
燭台の灯を一つ灯しただけの薄暗い室内は、夏の夜特有の蒸し暑さが立ち込めていた。
この年は長梅雨で、いつまでもじめじめと胸の悪くなるような湿気が纏わりつく。
「あの論調が続けば、最後は城を枕に全員で討死することになりそうだな」
「もしもそのような事態になれば、左京様だけでもどこか安全な場所へ落ち延びて頂きます」
何でもないことのように軽く言う半蔵に、武次は賺さず顰蹙して返した。
「おまえは相変わらず、御上しか見えておらんのか」
「この国において、左京様の御身以上に大切なるものがありましょうか」
「……間違いではないが、どうもおまえが言うと、強い私情が挟まっている気がしてしまうな」
半ば呆れたように困り笑った半蔵は、しかしすぐに口許を引き締めた。
「だが、私も同意見だ。戦の責任はああして騒ぐ奴らに取らせればよい。議場に御上不在のまま、抗戦し続けているわけだしな」
平素穏やかな半蔵にしては、些か乱暴な口調だった。
このところの緊張状態に、然しもの半蔵も気が立っているのだろう。
「奴ら、御上諸共に同盟に殉ずるつもりではあるまいな」
道義として考えれば、抗戦は正しいだろう。
帰順降伏を願い出た会津を容れず、徹底的に叩き潰す腹積もりでいる新政府軍には、義憤を感じてもいる。
それは左京太夫本人も同じ心持で、筋の通らぬことと憤慨を露わにするのを、武次も傍で目の当たりにもしたことがある。
「実のところを申し上げれば、私はすぐにも帰順降伏をして頂きたいのです」
処罰があるにせよ、帰順が早ければ軽く済む。
しかし、そうなれば今度は他の同盟諸藩からの報復があるやもしれず、また仙台や米沢と共に会津の謝罪嘆願を周旋した藩として、同盟の義に離叛することは不義の極みである。
加えて、その悪評は後々までも語り継がれるであろう。
奥州人の気質には、そうしたことを赦さぬところがあった。
「私が思うに……。御家老様方は、左京様の歩まれる先を御考えの上で、抗戦を貫いておられるのではありませんか」
「ほう? 随分と好意的に老臣を見るんだな」
珍しく武次のほうが半蔵を宥めるように言ったのが、意外だったのだろう。
半蔵はくるりと目を丸くして武次を見た。
「しかし、どのみち処分は免れないぞ。どんな処罰を言い渡されるか、わかったものではない」
「皆様方は、主君の分までその身に罪を被る御覚悟なのでしょう」
城を枕に戦い抜き、奥羽越の信義を守り通した後で、その身を差し出して左京太夫の減刑を図ろうとしている。
武次にはそのようにも見えていた。
「……私が仮に要路にあれば、そのようにしますから」
生真面目な顔のままにぽつりと話す武次の目に、燭台の灯が微かに揺れる。
部屋の四辺に溜まる闇に伸びた二人の影は一層黒く、その不安をまざまざと映し出すかのように夜の深まりを示した。
議論の声はいつの間にか静まって、代わりに闇に浮かぶ中庭の笹竹を打つ雨音が聴こえていた。
***
文月の末の七日だった。
夜も更けて寝静まりかけた亥の刻、城内は俄かに騒然となった。
出立を声高に叫ぶ奥付の役人が、足音も荒く各部屋へ報せて駆け回る。
武次らの詰める近習部屋にも駆け込んで来たのを、武次は咄嗟に捕まえて質した。
「何事か!」
「敵が迫っております、直ちに出立の御用意を!」
「どこまで来ている!?」
「糠沢の守備隊が壊滅! 隊長樽井弥五左衛門様は御無事のようですが、兵卒は殆どが戦死したとのことです!」
口早に言って一礼すると、そのまま再び声を張って呼び掛けながら武次の前を駆け去っていく。
とうとう来た、と思った。
城下からは最早目と鼻の先である。
白河へ出た守備隊は今日になってぽつりぽつりと城へ帰り着いたが、未だ戻らぬ隊のほうが多かった。
ましてそのうちの一隊は壊滅状態であるという。
(もはやこれまでか)
武次はすぐさま左京太夫の寝所に走り、無礼を承知で駆け込んだ。
「左京様!!」
「武次か」
騒ぎに気付いていたのだろう。
既に起き出していた左京太夫が、夜着のまま意外にも落ち着き払った様子で振り向いた。
「奥方様や姫様方も御準備を始められました、左京様も──」
「そうか、ついにその時が来たのだな」
左京太夫は悠然とした挙措を崩さなかった。
その落ち着き振りに嫌な予感が擡げ、武次はやや声を張る。
「お急ぎください!」
家中の女や子供、そして老人はすべて、いざとなれば藩公一家と共に所領を立ち退き、他藩へ避難する手筈である。
同盟諸藩を頼る他にないが、城に留まり続けるよりは余程ましだろうと思われた。
「余は後からで良い。それよりも武次、おまえは久子たちについていてやってくれ」
武次の慌てぶりを軽くあしらうような口調で、左京太夫は言う。
益々意味が解らず、左京太夫の前に立ち
「奥方様には御用人の方々がついております。すぐに仕度を整えますので、左京様もお召し替えを──」
「要らぬ」
「何を仰っておいでです! 左京様がお出ましにならねば、皆が出立適いませぬ!」
「よいのだ。余は留まる」
短い一言が、城と命運を共にする覚悟である、と告げている。
それが漸く飲み込めた時、武次は思わず左京太夫の両肩に掴み掛かっていた。
「何という──、何ということを仰るのですか」
「余には城主としての責任がある」
「なりませぬ! 皆、左京様をお守りするために戦っているのです……! 左京様が御無事でなければ、皆が戦う意味も! 皆が死にゆく意味も! すべてなくなるのです!」
引き攣り上擦った声は、殆ど叫びに近いものになった。
今の自分は、きっとこの十年以上の年月の中で、一度たりとも見せたことのない形相をしているだろう。
荒々しく肩を掴まれても、左京太夫は鷹揚に微笑んだまま、真っ直ぐに武次の目を覗く。
まだ十四の少年だった頃とは違い、武次の背はとうに左京太夫を追い越していた。
左京太夫の目線が僅かに上向き、微笑みのまま少し寂しげに目を細める。
「ほんの子供だったのが、いつの間にこんなに大きゅうなったのか」
述懐するようなその口振りが、尚一層、武次の焦燥を煽り立てる。
全身の血潮が引き切って、震えが起こった。
「嫌です……、左京様が御無事でなければ、私が嫌なのです!」
口を突いて出る懇願は、まるで頑是ない子供のようなものにしかならなかった。
「武次。おまえは皆と共に城を去れ」
「っ出来ませぬ!!」
「頼む、聞き分けてくれ」
「聞けませぬ!!」
左京太夫の肩を掴む手が震え、儚げな肩に縋るようにして、武次は額を押し付けた。
長く病床に臥した肩は細く、頼りなげに薄い。
その肩にこの城と戦の責を負い、殉じようとしている事実が殊更に武次を苛んだ。
「どうしても留まると仰せなら、私も御供致します……!」
「それはならぬ」
武次の耳元に、一際低く険しい声が言った。
本当に左京太夫のものかと耳を疑うほどに冷たく、心の臓が一瞬にして凍えるような心地がした。
その瞬間に弛んだ武次の手を払い除け、左京太夫は武次の顔を見ることもなく擦り抜ける。
「主君の意に添わぬ近習は要らぬ。この期に及んで失望したぞ、武次」
にべもなく言い捨てる声は、至極冷淡なものだった。
「──左京様!」
倉皇とした奥御殿の中、武次の時だけが凍り付いたように感じられた。
【七.へ続く】
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