四.目に余るもの
青山半蔵が、武次の姿のないことに気付いたのは、奥庭の先にある座敷を見廻って戻ってからだった。
城の料理間や台所にも見当たらず、厠へ立った様子でもない。
武次のような年少者が使うことはあまりないだろうと思ったが、小姓組の湯殿に立ち入ってもみた。
しかし、そのどこにも武次の姿は見えなかったのである。
「武次を見なかったか」
半蔵は、湯殿を出たところではたと察し、急いで詰所に戻ると、仲間と談笑する仙之助を捕まえて問うた。
元々親しいわけでもなく、勤めの中で必要に迫られた時にしか言葉を交わすことはない。
仙之助のほうも、半蔵が中小姓頭の助左衛門の嫡子というのは承知しているはずだから、恐らくそれで向こうから近付いて来ることもなかった。
「武次? 知らんな」
半蔵の接触を疎んじる様子を取り繕うこともなく、仙之助は振り向きもせず言い捨てる。
「暫く姿が見えんのだ。この嵐の中、外に出たとも思えないが。何か知らんか」
「おれが知るはずないだろう」
嘲るように鼻を鳴らし、仙之助はそこで漸く半蔵を見た。
「あいつのことだ、殿様のところへでも行ったのじゃないか」
「………」
「話はそれだけか」
済んだなら向こうへ行ってくれ、とでも言いたげである。
半蔵は僅かに思案してから、いや、と声を繋いだ。
「近頃のおまえの態度は、些か目に余るぞ」
先日、父・助左衛門に訊ねられた時にも、話すべきか迷っていたことだった。
武次への当たりが甚だ強いことは、傍で見ていれば誰でも知れることである。
知らぬは目付や中小姓頭といった上役ばかりだ。
(これほど露骨だというのに、目付の目はどこについているのだ)
半ば呆れもしたが、或いはそれだけ仙之助ら小姓衆が
落合仙之助は、百五十石の侍医・落合宗哲の嫡子である。
父の跡目を継いで医学を志すものと思われていたが、その様子は全くない。
同い年であるがゆえに、小姓組のみならず藩校でもよく顔を合わせる間柄だった。
仙之助は学問には全く身が入らず、代わりに剣術弓術で頭角を現していたように思う。
小姓として城に上った時も、上役の前でやはり武芸を披露していたのを覚えているし、確かに優れた技量を持っていた。
だが、半蔵にはこの不行儀な男が何故小姓組に居続けられるのか、理解に苦しむことが間々あった。
「波風立てたくはないが、あまり酷いようなら上に報告せねばならん。以後を慎め」
半蔵としても、組内の仲間を突き出すような真似はしたくない。
武次は自ら訴え出るようなことはしないだろうし、仙之助が行いを改めるならそれで良い。
釘を差して収まるのなら、と思ったが、半蔵の思惑はやはり甘かった。
「御父上にでも告げ口するか。はて、おれが何かしたとでも?」
「馬鹿を言え。おまえが武次を散々にいびり倒してきたのを、私はこの目で見ているんだぞ」
「大人しい武次を気に掛けて、声を掛けてやっていただけだろうが。それはおまえの思い過ごしだ」
にやにやと薄笑いを浮かべる仙之助は、立ち上がって対峙すると高圧的に半蔵を見下げた。
同い年の十七歳の若衆ながら、上背もあり、体格も良い。
一見して、細身の半蔵の倍ほどにも見えた。
助左衛門が遣わした近習が小姓詰所にやって来たのは、まさに一触即発の雰囲気漂うそんな折であった。
***
「なんだと?」
戻った近習からの報せを受け、助左衛門は思わず眉を顰めた。
同時に引き留めていた侍医・宗哲の顔を一瞥し、目がかち合う。
「如何されました」
宗哲は怪訝に視線を返して寄越したが、助左衛門はそれには答えなかった。
近習が口早に話を続けたためだ。
「何でもこの嵐の中、小鳥の墓を直しに行ったようだと話す者がおりまして」
そこまで話すと、臥していた左京太夫が突然起き上がり、寝具を跳ね除けた。
「外は大風であろう、何故止めなんだ……!」
病に消耗した身体を急に起こし、目が眩んだのだろう。左京太夫はぐらりと身体を傾がせて、床の上に片手を付く。
「御前、起き上がられるのはまだ無理です!」
「大風の中、一人で行かせるなど許せぬ。それもただの小鳥の墓ではないか」
「動いてはなりませぬ、御前。床へお戻り下さい……!」
「もうよい、余が参る」
「御前!!」
制止する助左衛門には目もくれず、左京太夫は覚束ない足取りで、病躯を引き摺って行こうとする。
不躾にその身に触れることも出来ずに手を拱いていた近侍を叱咤し、助左衛門自らその身をもって行方に立ち塞がるが、左京太夫はこれも押し退けようとするのである。
「武次は必ず連れ戻して参ります。今暫し! 今暫し、お待ちを」
助左衛門は左京太夫の身を近習に預け、すぐさま小姓部屋へ向かったのであった。
***
「武次は何故墓など直しに行ったのだ」
助左衛門は裃を長合羽に替え、半蔵を伴って内玄関へ向かう廊下を行きながら問う。
同様に着替えた半蔵もまた、刀袋を掛ける手を動かしつつ後を追いかけるようについてきていた。
「どうも仙之助に
「仙之助だと?」
「はい。落合仙之助は、ここ幾月も武次への挑発的な言動が続いておりましたので。此度も嗾けたようです」
「落合……。宗哲殿の御子か」
半蔵の口から出た名に、先まで主君の側に控えていた侍医の顔が浮かぶ。
何故早くに報告しなかったのかと思わぬでもなかったが、半蔵なりに内輪で事を収めるべく努めたものと推し量り、
城の中では、下手に事を荒立てぬ、そういう資質も必要だからだ。
「仙之助め、白を切ってなかなか行方を吐きませなんだ」
「今はよい、急ぐぞ」
表は既に日が落ちたかのような暗さの中、甚雨が更に視界を奪った。
わずか数間先ですら見通せない有り様だ。
城屋敷のすぐ裏に迫る森は一際黒々とし、競り出す丈高の木々は風に嬲られて轟々と不気味な音を立てる。
烈しい風雨は石畳を穿つように打ち付け、剥き出しの地面を抉る。瞬く間に雨具を濡らし、父子の身体に重く圧し掛かった。
この分では、池も溢れて淵を見分けるにも難儀するはずだ。
遠く西に連なる安達太良連峰から樋を繋いで水を引き込む城の庭園は、大雨が降ると途端にその水嵩を増す。
万一にも足を滑らせて池に落ちてでもいようものなら、武次を見つけ出すのは至難である。
吹き荒れる大風の中、城屋敷の外堀をぐるりと迂回して庭園へ辿り着いた青山父子が目にしたのは、果たして武次であった。
雨具も付けず、着の身着のままの格好で、暴風に耐えながら池の畔に蹲っている。
「父上、あれに!」
「うむ。急ぎ連れ戻すぞ」
荒れに荒れた水辺の足許は悪く、
徐々に近づいてみれば、武次は板切れで囲いを作って抑え、その一画の土が流れ出さぬよう堰き止めている様子だった。
「武次!!」
「何をしておるか、ばかなやつめ!」
自然早足になった半蔵に続いて、助左衛門もまた武次のほうへと急ぐ。
風雨の音に掻き消されそうで、二人は怒声に近い声を張り上げた。
漸く二人が近付いてきたことに気付いたか、武次は顔を上げたが、その返答は呆れたものであった。
「目白の墓が、流されてしまいます!」
「そんなものはよい! あとから幾らでも直せる」
「ですが、流されては殿が悲しまれます」
「利かぬやつだ、その殿がおまえを連れ戻せと仰せなのだぞ!」
濡れそぼった武次は涙ぐんでいるようにも見えたが、その全身はもはや雨そのもののようで、雨水か涙かの判別もつかない。
土を堰き止めて泥にまみれたその手足がやっと墓から離れたのは、左京太夫の名を出した直後のことであった。
***
濡れ鼠のままに左京太夫の側へ上げることも憚られ、小姓詰所で身形を整えさせる間、助左衛門は控えていた侍医を訪ねた。
落合宗哲である。
半蔵の報告を得て聞き出したところによれば、それは証拠に乏しく、子供同士の諍いに過ぎぬ面が多い。
武次に主君の寵を笠に着た横柄な振舞いがあるわけでもなく、仙之助の一方的な妬心と見て差支えないようだった。
それ故に、静観していた半蔵も報告を躊躇ったのであろう。
表立って庇い立てれば、仙之助の所業は更に悪辣になるかもしれず、目付や頭に告げ口しようものなら、隠れた場所で益々辛く当たるようになるだろう。
「御子息には些か、行き過ぎた行いが見られるようですな」
助左衛門が言葉を選びつつ、対座した宗哲に言う。
事の仔細を見聞している半蔵を同席させてもいたが、半蔵が助左衛門の許しなく口を開く気配はない。
「武次は特に殿からの寵が厚いので、御子息にとっては不快に感じられたものでしょう。しかし、小姓衆は皆等しく、殿にお仕えする者たち。小姓同士で貶めるようなことは厳に慎まねばなりますまい」
「まさしく、助左衛門殿の仰る通り」
宗哲は険しい面持ちのままに頷き、居住いを正した。
「恐らくは、弓でしょう」
「弓?」
「左様。あれは医師の子でありながら、医道にはとんと興味を持ちませぬ。代わりに剣や弓にばかり熱を入れておりましてな」
宗哲は心底呆れたといったふうに吐息し、愚痴をこぼすように話す。
「殿の御前にて弓の腕を披露すべきは自分を置いて他にないと、儂にも管を巻いておりましたゆえ」
「なんと」
助左衛門は
確かに、仙之助は武芸に通じているとは知っていたし、それが十分評価に値することも承知していた。
しかし助左衛門があの日選び出したのは、武次であったのだ。
遡ればそれが事の始まりであるようだった。
それを察したか、半蔵は
「忠告を致しましたが、私の言葉では聞く耳を持っては貰えませんでした。宗哲さまから改めてお話し頂ければ有難いのですが」
「倅が御迷惑をお掛けした。……善処致しましょう」
***
先月の被害からの復旧を待たず、更なる大嵐に襲われた村々は目も当てられぬ有り様となり果てた。
郭内の水路に架けた橋も幾つか落ちて流され、河岸では渡しの舟も濁流に呑まれて失われた。
最も被害の甚大だったのは山村部で、崩れた山が田畑を呑み込み、収穫前の稲の大部分が損耗したと聞く。
あの日、湯殿ですっかり泥を落した武次は、助左衛門と半蔵の父子に伴われて左京太夫の病床に見舞った。
左京太夫は武次を見るなり跳ね起きると、未だ下げきらぬ熱を宿した身体で武次を掻き抱きながら、叱咤とも安堵ともつかぬ諸々のことを口走ったのであった。
その様を見守る青山助左衛門、半蔵父子が、控えて座したままに顔を見合わせ、何とも言い難い笑顔を交わしたことに、武次が気付くことはなかった。
【五.へ続く】
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