怒りは振り返る必要もなく

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怒りは振り返る必要もなく

「どうした? 難しそうな顔して」


 十月が目前に迫ったある日の放課後。

 自動販売機が並ぶ校庭のベンチに座る彼女に、俺は話しかけた。

 淡い憂鬱の表情を浮かべていた彼女は、ゆらりと頼りない様子で顔を上げる。


「……別に、少し考え事をしていただけよ」


 素っ気なく彼女は答えたが、口調は重い。

 肩口まで伸びたウェーブがかった髪と透き通るような白い肌のせいか、その言葉はどこか異質な響きを帯びて俺の耳へ届く。

 俺は財布を取り出し、スポーツドリンクを買いながら、もう一度口を開いた。


「その雰囲気で少しって言われてもな……。違和感がすごいんだが」

「……違和感?」


 俺の指摘を聞いた彼女は、不思議そうな顔で自身の頬にぺたぺたと手の平を当てる。


「ああ。そんなに付き合いがあるわけじゃないけど、それでも気になるくらいには」


 そう告げると彼女は少し思案するような仕草を見せ、やがてため息を一つ吐いた。


「貴方にすら見抜かれるのなら、相当だったのね……」

「そうだな。見たことない顔してた」


 実際、彼女との付き合いはそう長くない。

 高校へ入学し、たまたま同じクラスになったのだが、クラス委員が彼女だっただけのことだ。

 そして何かのタイミングで少し話をしたことがきっかけとなり、今も時々雑談をしている。

 まあ、これがどういう関係のなのかは俺自身も分かっていないんだけど……。


「考えていたの。あの時、もっと怒ってよかった気がするけど、それがいつだか分からなくて」

「え?」


 唐突に彼女は話を始め、俺は戸惑いながらも問いを返す。


「怒ってよかったって、どういうことだ?」

「言葉通りの意味よ。もう終わった出来事だけど、なんだか胸がモヤモヤして」

「ああ、怒ってよかったってそういう……。引っ掛かるものがあるってことか」


 状況を理解した俺は、「なるほど」と頷く。

 出会ったのが春で、今は秋。

 短い付き合いではあるけど、基本的に彼女の口数は少なく、感情の起伏も乏しいということは理解していた。

 だからこそ怒ってもよかったと思うほどの出来事は大きくて、今、戸惑っているということだろうか……?


「貴方も覚えているでしょう? 今日の昼休み」

「昼休み……? ああ、体育祭の競技決めか。クラス委員だから責任者をやらされたんだっけ」

「……そう」


 短く、囁くような相づちが却って怖いと思いながら、彼女が怒っていいタイミングってどこだっけ? と、俺はその時の出来事を振り返り始めた――。








「では、参加する競技の希望を取ります。決まった人から黒板に自分の名前を書いて下さい」


 教卓に立った彼女は競技名の書かれた黒板を背に、クラスのみんなへ告げた。

 書かれているのは順に、「徒競走、障害物競走、仮装レース、借り物競争、二人三脚、リレー」などでほとんどがオーソドックスなものだ。


「とはいえ、なあ……」


 運動が苦手な俺は黒板を見るだけで、げんなりしてしまう。

 部活に入り、活躍できると思えるほどの実力があるならともかく、基本、「陰」に属する者にとってこれほどの拷問はない。

 苦しい思いをした挙句、注目されるのは結果を出せた者だけという、よくない現代社会の縮図だ。

 実際、


「ねー、委員長。これって出場絶対ー?」

「できるヤツが全部出ればいいじゃんー。ダルいー」

「向いてない人間にやらせるのはどうかと思うよ、いいんちょー?」


 などとクラスのみんなは言い放題だ。

 彼女は困ったように少し眉根を寄せたものの、淡々とした口調で答えた。


「出る以上、結果を出すべき……とまでは言いません。わたしも運動は苦手ですし、名前を書いて一応参加するだけという認識で構わないと思います」


 それはきっと彼女なりの妥協案というか、譲歩だったんだろう。

 実際、俺もそのくらい適当でいいと思うし、とりあえず形だけ作っておけば先生も納得するはずだ。

 そこには何とか着地点を探ろうとしている彼女の意思が垣間見えるのだが……。


「あ、なら名前だけ書いて当日休めばいいんじゃねー?」

「それな!? 言い訳なんていくらでもできるし!」

「体調不良なら先生も何も言わないよね、委員長!」


 などと、これはこれで言いたい放題。

 まとまるものもまとまらず、彼女はますます困り切った表情になってしまう。

 昼休みの内に決まらなければ、再度時間を作って集まることになるが、全員の顔が揃うとは思えない。

 というか逃げるヤツ、絶対いる。

 俺は下唇を噛み、頭を掻いた。


「決められなければ余計めんどうなことになる。で、それはみんなも分かっているはずのに、まとまらない理由は……?」


 俺は軽い頭痛を覚えながら、考えを巡らせる。

 正直なところ、好き勝手言うクラスメイトとそれに苦慮する彼女の顔を見ていると、胃がヒリヒリして仕方ない。

 身体も嫌な熱を持っているけど、こういう時ほどちゃんと考え、手段を選ばなきゃいけない。


「じゃあ、集中……」


 そして俺はそう呟き、目を閉じて周囲の声に耳を傾けた。

 すると一つの共通点が見えてきて、俺は目を開く。

 顔を上げ教室の時計を見れば、残された時間も少ない。


「やりたい方法じゃないけど、他にやりようもない、か。……あぁ、もうっ」


 そして俺は突然、ガタッと席を立ち、黒板のとある競技へ自分の名前を書き込んだ。

 彼女が意表を突かれたような声で俺に問う。


「……いいの? 徒競走」


 俺は彼女にだけ聞こえる声で答えた。


「ここが決まらないと進まないだろ」

「それはそう……だけど」


 その返答に彼女はやりきれない表情を浮かべ、俯く。

 多分、彼女も気付いているんだろう。

 名前を書くことを拒んでいるクラスメイト達は、揃って距離の長い徒競走を押し付け合っていることに。


「逆に言えば、ここが埋まれば何とかなるってことだ。ほら」


 俺がそれとなく視線をクラスメイトへ送ると、少しだけだが騒がしさが収まっていた。

 それを認識した彼女は再び名前の書き込みを促し、やがてクラスメイト達もそれに応え始める。

 そして彼女は一度だけ小さな声で、「……ありがと」と呟いた。








「怒っていいポイントしかない……」


 回想を終えた俺は思わず頭を抱え、深いため息を吐いてしまう。

 結果としてまとまりはしたけど、彼女はほとんど言われ損だ。


「なあ、ここで悩むより、いっそ買い物とかカラオケでストレス発散した方が――」


 そう彼女へ告げようとしたが、当の本人はさっきまでとは違う表情で俯いていて、俺は驚いてしまう。

 浮んでいた憂鬱は薄まり、思考の海に身を委ねながら揺れる髪先は、どこか神秘的にすら見える。

 突然訪れた沈黙に、耳が痛くなりかけた時、彼女は不意に顔を上げた。


「……分かった」

「え?」


 一瞬、何を言っているのか理解できなかったが、すぐに怒っていいポイントのことだと俺は思い至る。


「あ、ああ……。で、結局どこだったんだ?」

「そうね……。貴方が黒板に名前を書き込んだ時、かしら」

「……え?」


 予想外の解答に、思わず素っ頓狂な声が出てしまう。


「いやいや……。なんで、そこ? 他にもあるだろ、ポイント」

「……? どうして? そこ以外、ないと思う」


 俺に問い掛ける彼女は本当に不思議そうな表情を浮かべていて、こっちはますます混乱する。


「いやだってさ、クラスメイト達が好き放題言い出した時とか、いくらでもあるだろ?」

「……クラスメイト?」


 改めて彼女は、こくんと小首を傾げ、再び髪が揺れた。

 ……なんか、会話が全然噛み合っていない気がした俺は状況を再確認する。


「えっと、怒っていいポイント……の話だよな?」

「……? ああ」


 彼女はようやく何かに気付いた様子で、小さく笑う。


「わたしが言っているのはそっちじゃない」

「そっちじゃない? じゃあ、なんなんだ?」


 すると彼女は目を細め、静かに微笑んだ。

 その表情はどこか、清々しい。


「だって貴方も気にしていたでしょう? 春から付き合いはあるけど、わたし達ってどういう関係なの? って」

「え」


 全く予想していなかった回答に、俺は固まってしまう。

 その様子が可笑しかったのか、彼女はクスクスと笑った。


「違った?」

「い、いや、それは確かに気にしてたけど……。でも競技決めとどう繋がるんだ?」


 俺の問いを聞いた彼女は一度頷いた後、話し始める。


「単純な話よ。あの時、怒ってよかったのはわたしだけじゃなく、貴方も同じだったってこと」

「俺も怒ってよかった……?」


 確かに、あの時の俺は胃がヒリヒリしていたように思うが……?


「そう。でも貴方は怒らなかった。ちゃんと周りを見て、考えて、手段を選んだ。……荒っぽい方法で結果を出すことも、できたとは思うけど」

「ま、まあそうかも知れないけど……。でも、それがどうして答えになるんだ?」


 再び問う俺に彼女は瞳を閉じ、穏やかな声音で話す。


「多分、わたしはそんな風に接してくれる人が傍にいると、気が楽なんだと思う。自分自身でいて、疲れないの」

「自分自身……?」

「ええ、それがわたしの見つけた答え。……だから」


 やがて彼女は顔を上げ、俺を見て右手を差し出す。


「貴方も変わらないままでいてくれると、嬉しい」


 そして見せた表情に浮かんでいたのは憂いではなく、淡い熱と柔らかく細められた目尻だけだ。

 俺は衝動的にそれに答えそうになるが、一瞬だけ考えてしまう。

 今、この手を取れば、俺はこれから先も同じ様な出来事に出くわすことになるんだろう。

 その中には、今日以上に際どい判断を迫られることもあるに違いない。

 きっと、それは厳しい道のりになるんだろうけど――。


「……いや、それは理屈の話だな。俺が本当に望むのは」


 彼女が手を差し伸ばしてくれた時、胸を突き上げた衝動に従うことだ。

 そう結論付けた俺は、思い切って彼女の手を握り返す。


「……ん」


 そして彼女は安心したように瞳を閉じ、握られた手に力を込めてくれた。

 やがて冷たい秋風が吹き、どちらかが、すんと鼻を鳴らした後、俺達は小さく笑い合い、手を離す。


「寒いわね」

「もう十月だからな。それが終われば、雪の季節だ」


 そうして何でもない会話を交わしながら、俺達は校庭から校門へ向かって歩き出す。


「じゃあ、何か食べて帰る?」

「え?」

「言ってたでしょ、ストレス発散」

「あー……。長い徒競走もあるからなあ……」


 俺のぼやきに彼女は目を細めて笑った。


「なら、鋭気を養いましょう」

「養いたくないなあ……。いっそ、体育祭自体が中止になる方法を考えた方が――」

「書いたでしょ、名前。嘘はダメ」

「う……」


 そんなことを言い合いながら俺達は校門を通り抜け、街路へ出た。

 ふとこの先の未来は、彼女が怒っていいポイントを探し、過去を振り返ることがないものになるといいな、と俺は思う。


「怒りは振り返る必要もなく、か。……うん、きっとそれが一番いい」


 そしてその言葉を聞いた彼女は嬉しそうに微笑んだ後、ローファーを軽快に鳴らし、街へ向かって走り出したのだった。

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