第22話 アリア・ディア・ゴッドスピード
アリアは自身の本当の名前を知らない。
アリア・ディア・ゴッドスピードという名前は、拾った冒険小説に出てきた登場人物から取った。
理由は何となくゴッドスピードという部分が、速くて強そうで、格好良かったから。
アリアはロンドンの東部、イーストエンド・オブ・ロンドンで生まれた。
イーストエンド――それは東の最果て。
貧困、人口過密、病気、犯罪、それらは全てイーストエンドを象徴する言葉だった。
この塵山で、アリアという少女は生まれた。
親の顔は知らない。もう死んでいるのかもしれないし、まだしぶとく生きているのかもしれない。
しかしそれはアリアにとって些末な問題でしかなかった。
否、問題ですらなかった。
アリアは幼少期から塵を売って生活していた。
このイーストエンドでは、塵が生活の中心にある。
塵の山を登り、塵を拾い、塵を売る。
そしてそれで得た塵みたいな稼ぎで、塵と見紛う程汚いパンを1つ買う。
1日1回、食べ物を口に出来たら良い方で。5日間何も食べられないなんてことはままあった。
朽ちたスポンジみたいなパンを胃に押し込めて、塵と共に眠る。
それが彼女の日常だった。
イーストエンドに住まう子供たちの中でもアリアは賢い方だった。
塵の中から拾って来た本を使って、自分で読み書きを学習した。
けれど塵山から発掘できる書物など種類が限られていて。あるのは古めかしい文体の歴史書や、老人が主人公の短篇小説など
結果、そんな古臭い本たちで学習したが故に、アリアはそれに即した古めかしい口調でしか話せなくなったのである。
2012年12月24日。
「アリア姉ちゃん、この本読んでぇー!」
このイーストエンドに暖房器具という代物は存在せず、冬は壁の隙間を塞ぐ位しか寒さに対する防衛策は無い。
アリアの家には彼女以外に、2人の少年少女が住んでいた。
「またこの本? ルカは本当に好きじゃのう」
暗い茶髪の少年が差し出してきた、ボロボロになりかけた絵本をアリアは受け取る。
「明日はクリスマスって日なんでしょ? ほら、この本と同じ日!」
絵本の題名はホワイト・クリスマス。
白くて綺麗な雪が降りしきる中、サンタクロースがロンドンの子供たち1人1人にプレゼントを贈るという話だ。
「そうじゃのう、良い子にしてたらサンタとやらが来てくれるかもしれん」
アリアはルカの頭を優しく撫でてやる。
そして、彼女は部屋の隅へと視線を向けた。
「ほら、エミリー。お主もそんな隅っこじゃなく、こっちに来たらどうじゃ? みんなで集まった方が暖かいぞ」
そう声を掛けると、ウサギのぬいぐるみを抱いた金髪の少女がこくりと頷き、2人の包まる毛布へと入り込んできた。
子供の体温というものは大人に比べて高い。
だから子供が3人も集まれば、冬の寒さを凌げる程度の温もりは手に入れられる。
ルカとエミリー。アリアにとって弟と妹のような存在。
だが勿論、そこに血の繋がりは無い。
2人もまた、親の顔も知らない孤独な子供たちだ。
ルカは塵山の近くで泣いていたから、エミリーは他の子供たちにいじめられていたから。
アリアは2人の手を引いてこの家に連れてきた。
反発されるならそれでも良かった。ただ、どうしても孤独に苛まれている子供を見るのは、自分を鏡映しで見ているみたいで耐えられなかったのだ。
そして孤独な3人は家族となった。
7歳の少女は、5歳と4歳の親代わりとなったのである。
非現実的な話かもしれないが、そうした非現実的な現実はこのイーストエンドでは日常でしかなくて。
誰も気にはしないし、気にも留めない。
それで良かったし、それが良かった。
2012年12月25日。
「うわぁ! 新しい絵本だぁ!」
ルカが枕元にあった絵本を両手で掲げて喜んでいる。
「ねこ…………!」
エミリーは猫のぬいぐるみを大事そうに抱きしめていた。
「良かったのう、2人とも。昨日、サンタとかいうひげを生やした男がそれを置いてってくれたんじゃ」
アリアはでたらめを告げる。
「えぇ! 何で起こしてくれなかったの! ぼくも見たかったのに!」
「サンタさん……おひげ……まっしろ……?」
詰め寄ってくる2人を宥め、アリアは続ける。
「サンタは夜、ちゃんと寝ている子にしか来てくれんらしい。だから起こさなかったんじゃ。後、サンタのひげは真っ白じゃった」
アリアの言葉にルカは納得したように頷き、エミリーは目を輝かせていた。
「うーん、しょうがないかぁ……」
「まっしろ……!」
2人の頭を優しく撫でて、アリアは出かける準備に移る。
「今日は、帰ってきたらパーティーじゃ! それまで大人しく家で待っておるんじゃぞ」
「はーい!」
「うん……!」
アリアは愛すべき弟妹たちの返事を背に受けて家を出た。
塵山の中で塵を拾う。
悴んだ手で、真っ赤な指先で、塵を拾い集める。
こんな塵みたいな作業も2人のためならば頑張れる。
アリアは白い息を蒸気機関車のように吐き出しながら、作業に専念した。
「お、嬢ちゃん。今日は大分頑張ったじゃねぇか」
塵の回収業者が気さくに話しかけてきた。
彼とは最早顔なじみみたいなものだが、名前を知るほどではない。そんな曖昧なラインの関係性だ。
「今日はクリスマスじゃからな。パーティーをするんじゃ」
「へぇ、そりゃ景気いいな。――ほらこれ、今日の稼ぎだ」
アリアに手渡されたのは5ポンド。
いつもより大分多い。一日中働いた甲斐があった。
「んで、後これ。臨時収入だ」
男が追加で10ポンドを手渡してくる。
アリアは驚きで目を見開き、その薔薇色の瞳で男を見つめた。
「こんな沢山……良いのか……?」
「ああ。毎日休みもせずに塵を搔き集めてるのは嬢ちゃんだけだからな。他の奴らは、すぐ休みやがる」
男は無精ひげを摩りながら笑った。
「ふふっ。我なんかにサンタは来ないと思っていたが、まさか来てくれるとはのう……」
15ポンドを握り締めて、頬を緩めるアリア。
サンタにしては随分とみすぼらしいけれど、豪奢なソリも、赤い服も着てはいないけれど、アリアにとってのサンタクロースは紛れもなくこの廃品回収の男だった。
「ありがとう」
まだ7歳の幼気な少女は素直に感謝を告げた。
「ああ、メリークリスマスってやつだ」
男はそう言って廃品回収の作業へと戻っていった。
アリアは走る。
その腕一杯に紙袋を持って。
チキンも買ったし、ジュースも買った。小さいけれどケーキも1つ。
これを見たら2人とも喜ぶだろう。こんなご馳走、自分1人の時は買おうとも思わなかった。
アリアが思い浮かべるのは可愛い弟と妹の喜ぶ顔。
それが早く見たくて、アリアは目一杯走った。
――地響き。そして爆発音。
突然、体ごと揺らすような振動がロンドン全域に波及した。
思わず、音の鳴った方向を見る。
ロンドンの中心部、シティの方面で黒煙が立ち上っている。
気が付くと空が黒い。夜の暗さとはまた違う。もっと邪悪な、黒い、霧――。
それはロンドンの全てを呑み込もうとしていて。
「うわああああ!」
誰かの叫び声がアリアを現実へと引き戻した。
見ると、人の頭部を山羊の頭に挿げ替えたような見た目の怪物が、その鋭い牙を市民の1人に突き立てていた。
白い雪上に真っ赤な血が散る。
黒い霧と、赤い血液。
黒と赤――。
黒赤黒赤。
赤黒赤黒赤黒赤。
黒赤黒赤黒赤黒赤黒。
明滅するかの如く。
アリアの視界はすっかりその二色で染め上げられてしまって。
ぬるり、と。
山羊頭の怪物がこちらを見た。草食動物には似合わぬ狂暴な牙を有した怪物は、にたりと笑んだ。
アリアは駆け出した。
それは逃亡。あるいは敗走。
どちらでも良かった。
まず何よりも、あの家で自分を待つ弟妹が心配でならなかった。
慣れ親しんだ塵の山。
東の最果てと呼ばれるイーストエンドは、更なる惨劇に見舞われていた。
塵の臭気に混じって、血特有の鉄臭さが鼻を衝く。
山羊頭の怪物は例外なく、この塵山にも出現していた。
アリアは必死に走る。
持っていた紙袋をどこで落としたのかももう覚えていない。
「はぁ……はぁ……! ルカ……! エミリー……!」
塵の街を駆け抜けて、アリアは自分の家に辿り着いた。
風化して今にも崩れてしまいそうな家。
勢いよく扉を開け、中へと入る。
家の中に愛すべき弟妹たちの姿は無かった。
代わりにアリアを出迎えたのは一匹の怪物。
山羊頭の、怪物だった。
血に染まったその口がアリアの脳裏にべっとりと張り付いて。
「いや……、あぁ…………いやああああぁぁぁぁ!」
絶叫。
喉が千切れるほどの叫び。
それは魂の奥底からまろび出た喘ぎに他ならなかった。
「おい、嬢ちゃん! そいつから離れろ!」
突然背後から声が響き、鈍器が怪物に向かって飛ぶ。
「ほら、今の内だ! 早く逃げるぞ!」
声の主は廃品回収の男だった。
クリスマスを祝い、アリアに15ポンドもくれた恩人。
少女は彼によって軽々しく抱き上げられる。そしてアリアは彼の腕の中で、大声で泣いた。
「ル、カぁ……が、エミリー……がいな、い……」
嗚咽混じりの弱々しい声でアリアは言う。
喉が切れて上手く声が出せない。
「……悪い、俺も2人は見てねぇな。探したいのは分かるが、嬢ちゃんも見ただろう。あんな化物がうろついてる中で人探しなんざ無理だ」
「で、も……2人は……わ、れの、だいじな、かぞ……く」
アリアの拙く小さな訴えを聞いて、男は悲痛に満ちた表情を浮かべた。
「分かってる……。ただそれでも、最善は嬢ちゃんが生き残ることだ。今死んじまったら、残された弟と妹のこれからを誰が守るんだ?」
それはルカとエミリーがまだ生きているという希望的観測。
だが、アリアの冷めきった心にその言葉は優しく触れる。
涙と鼻水でぐしゃぐしゃになった顔のまま、アリアは小さく頷く。
「いき、る……。ルカ、も……、エミ、リーも、きっと……生きてる……」
「ああ、信じてやれ。信じてさえいれば、案外どうにかなるもんさ」
それ以降の記憶は曖昧で、気が付けばアリアは避難所にいた。
そこで彼女は懸命にルカとエミリーを探したが、結局彼らを見つけることは出来なかった。
あれから12年の歳月が流れた。
あの時、力があれば。
あの時、速さがあれば。
自分は弟と妹を助けられたかもしれない。
だが、それは儚い妄想だ。
過去はどうやったって取り戻せない。
けれど彼女は悲観しない。自身のこれまでの人生を悲しんだりはしない。
きっとどこかでルカとエミリーは生きている。
アリアはそう強く信じている。
――なら、愛すべき弟妹たちが生きるこのロンドンを守る。
それが今、自分の為すべきことだ。
アリアは静かに目を開ける。
12月25日。奇しくも12年前と同じこの日、ロンドンではあの時と同じ規模の災害が起きようとしている。
アリアから全てを奪い去ったあの黒霧災害。
その惨劇をもう二度と繰り返さぬように。
もう二度と、何も奪われないように。
アリア・ディア・ゴッドスピードは力と速さを手に入れたのである。
「行くぞ、マックス。お主がいれば我は最速で、最強じゃ」
ブォン、とエンジンが吹かされる。
それは愛車であるマックスからの自身に満ちた力強い返事だった。
口の端を吊り上げて、アリアは渦中のロンドンを見据える。
絶対に助ける。
誰も悲しませない。
そう強く心に思い、アリアはマックスを発進させた。
ロンドン・アイの
月の光を反射して煌めく川面。その傍には2人の人影があった。
「――で、アリアさーん? あのデカブツを相手にどうするおつもりで?」
「何の話じゃ?」
アリアはオズヴァルドの言葉に対して不思議そうに首を傾げる。
ピンクのツインテールが軽く揺れた。
彼女は愛車であるマックスの座席に足を組んだ状態で横向きに腰かけている。
「いや何って……、勿論あの山みたいにでけぇ化物の倒し方についてだよ。何か策があるんだろう?」
つい数分前、アリアはノクトに向けてこの巨獣の相手をすると電話で申し出ていた。
それは何かしらの勝算があっての行動のはず。
しかしながら眼前に控える相棒の少女は依然として懐疑的な表情をしていて。
「策などあるわけが無かろう。我らが機関の中でどんなあだ名で呼ばれてるか知っておるのか?」
「え、知らねぇけど」
唐突な質問に首を傾げるオズヴァルド。
「トリガーハッピーセットじゃ」
「不名誉どころか俺への風評被害が凄ぇな、それ!?」
オズヴァルドは不服に満ちた声を上げた。
トリガーハッピーは一般的に銃撃狂の人間のことを指す。そこにセットという単語が追加されると、まるで自分までアリアのような乱射狂いだと認識されることになってしまう。
彼としてはアリア程暴走している自覚は無い。
むしろ暴走するアリアのサポートに回っている機会の方が多いはずだった。
「そもそも我らが
「いやぁ……それはまぁ確かに。アリアが暴れ回って俺がその尻拭いをするだけか」
早々に思考を放棄するオズヴァルド。
彼は頭を切り替えて目の前の怪物へと再び視線を向ける。
「グオオオ……!」
突如、地響きの如き唸り声が木霊した。
【屍肉の巨獣】がその巨体を動かし始めたのだ。
鏡のように世界を反射していた川面が大きく揺れ、逆さまの世界が波に呑まれていく。
「周囲の状況はどうなっておる?」
マックスの座席から飛び降りるアリア。
彼女の表情は任務にあたる異端審問官のものとなっていて。
「一応、ロンドン全域に避難勧告は出てるみてぇだな。今頃、警備局と結界運営局は総出で避難誘導中だろ」
どしん、と体の奥底まで振動が響く。
そして次の瞬間、テムズ川の水が高波となって押し寄せてきた。
「チッ……! マックス、ジェット!」
アリアが所有する『No.7:戦車』、その権能はマックスと呼ばれる人工知能を搭載したバイクを召喚するという単純なもの。しかしそのマックスにはバイクモード、ジェットモード、キャノンモードの3つの形態が存在する。
アリアからの指示を受け、マックスは流れるようにジェットモードへと変形。
ジェットパックの形となったマックスはマフラー部分から大量の水蒸気を噴射。
オズヴァルドはアリアによって掴み上げられ、2人はロンドン・アイの頂点へと着地した。
「とうとう動き出したようじゃな……」
神妙な面持ちでアリアは呟く。
「おい、あのデカブツ橋の方に向かって行ってないか?」
猫を彷彿とさせるオズヴァルドの大きな目が見つめる先には、優美な鉄柱の並ぶ鉄橋があった。
ハンガーフォード橋。鉄道用の鉄鋼製トラス橋で、それと共通の橋脚を用いた2本の歩行者用吊り橋であるゴールデン・ジュビリー橋も併設されている。
「あれを壊されたらかなり不味いのう。ただでさえ、ウェストミンスター橋は絶賛通行止めじゃ。市民の避難が出来なくなってしまうぞ」
「川沿いに北上されたら、大体の橋がぶっ壊されちまうな」
2人は少しの間黙りこくる。
そして数秒後、1つの結論を導き出した。
「「速攻でぶっ飛ばそう」」
何だかんだ言って、阿吽の呼吸の2人であった。
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