第21話 正義は己、力は此処に

 パーラメント・ストリートを全速力で駆ける。

 喧噪、そしてサイレンの音。

 警備局の職員が避難誘導を指示している声。

 このロンドンで皆が全力を尽くしている。場違いにもその事実に胸が熱を帯びていて。


「ノクト審問官!」


 思い掛けぬタイミングで、背後から声が聞こえた。

 振り返ったノクトの視界に凄まじい速度で迫り来るセイラムの護送車が映る。

 そしてその運転席には見覚えのある女性警察官が。


「ゾーイ警察官!?」


 ハイド・パークで顔を合わせて以来の再会。

 何故ここに彼女が――?


「ピカデリーへ向かうのでしょう? 本官が送ります!」


 華麗なハンドル捌きでノクトの前にドリフト停車を決めるゾーイ。

 躊躇っている暇はない。

 ノクトは滑り込むように助手席へと乗り込んだ。


「交通整備と避難誘導を行っていたところ、全力で走るノクト審問官が見えましたのでお声掛けをさせて頂きました」

「助かります。戦闘前は出来るだけ体力を温存しておきたいので」


 護送車は滑らかに発進。

 サイレンを轟々と鳴らし、走行する他車両の僅かな隙間を縫っていく。

 それは以前どこかで見たような胆力に満ちた運転技術だった。

 災禍に見舞われるロンドンの風景が次々に後方へと流れていく。


「……私は特別な力を持たない一介の警察官です。異端者を相手に時間を稼ぐことは出来ても、鎮圧することまでは出来ない」


 ピカデリー・サーカスまであと少しという所で、唐突にゾーイが口を開いた。

 彼女の声音にはどこか悔恨かいこんの念がこもっているような気がして。


「ですから、最も危険な仕事をノクト審問官のような若い方々にお任せしなければなりません。危険な異端者の下へと送り届けるだけの私を、貴方は嗤いますか?」


 あざけりに似たその言葉はとても危うくて。

 扱いを間違えれば、お互いを傷つけてしまう可能性を孕んでいた。


「嗤いませんよ」


 だが、ノクトはしっかりとそれを正面から受け止める。

 1人の異端審問官として真摯に答えを述べる。


「今、こうしてゾーイ警察官に送って貰えたおかげで、俺はロンドンを異端者から守ることが出来ますから」


 たった1人で戦い続けられる人間などいない。

 かつての英雄ですら、生活力は皆無で自分が色々と世話をしなければならなかったのだから。


「期待していて下さい。俺がロンドンを救う瞬間を」


 それは自分に対する戒めの言葉で。

 戦いへ挑む覚悟を決めるための言葉だった。


「ええ、期待しています」


 ゾーイはそう言って、強張っていた表情を僅かに綻ばせた。

 やがて護送車はピカデリーへと到着する。

 ドリフト気味に停車した車両から飛び出すように降車するノクト。


「私は私の出来ることをします! ご武運を!」


 ゾーイの激励を背中で受け、ノクトは広場へと降り立った。





 分厚い雲に覆われた暗色の空が広がり、澄んだ冬の空気に微かな血の匂いが混じる。


「――誰かと思えば貴方でしたか、ノクト審問官」


 広場の中央にて件の異端者は待ち構えていた。

 『狼憑き』――ラルフ・スクリムジョー。人狼へと変身する力をその身に宿した異端者。


「一体何をしに来たんです? 脆弱な正義を掲げる異端審問官様は?」


 皮肉を含んだ物言い。

 ラルフの顔には獣のような獰猛な笑みが張り付いている。

 彼の身に纏う黒い外套が夜風によって揺れていた。


「お前たちの目的は既存社会の殺害だったな?」


 ノクトは静謐せいひつを湛えた青い双眸をラルフへと注ぐ。

 真摯な瞳は、異端者を1人の人間として捉えていた。


「ええ、この世界はことごとく間違っていますから。欲病の発症者を異端と称し、彼らを理性無き獣として檻へ閉じ込める。そんな横暴がこの魔都では横行している」


 赤い髪の奥にある瞳には、明確な怒りが宿っていた。

 怒りのきっかけは10年前の出来事だったのだろう。

 幼い少女を幽閉し、衰弱死させようとしていた孤児院。その事件を保身のためだけに揉み消す財団。

 そして募らせた怒りの種火は、リベリオンの存在によって更に激しく燃え上がる。


「正義だなんだと理屈を並べ、ただ自分たちに害のある物を排斥するだけの機関。僕はその存在がただ腹立たしかった。人間なんて皆、皮一枚剥がしてしまえば、薄汚い欲に塗れた獣でしかないというのに」


 段々と歪んでいくラルフの表情がおぞましく感じられた。

 底知れぬ憎悪との対峙は酷く精神を削られる。


「万人の万人に対する闘争という文言をご存じですか? これはホッブズが自然状態における人間の有様を表すために用いた言葉です。こうした無秩序な社会から脱却するため、人々はリヴァイアサンという人為的な存在を創造した……。

 けれどどうです? 国家を形成したところで、結局は国同士が争っている。人は何をしても、何処まで行っても、ただ欲に塗れた獣でしかないんですよ。

 だから殺して解体ばらしてしまおうと考えた。理性という皮を剥いだ醜い獣たちの世界。それこそが真に正しい世界だから」


 熱に浮かされた世迷言だと、一言で済ませられればどれだけ楽だったろう。

 確かにこの世界には間違いの方が多い。

 どれだけ法律を整備しても犯罪が無くならないように、どれだけ平和を謳っても戦争が無くならないように。

 世界は過ちを犯し続けている。

 何が正しいのか、誰が正しいのか、そこに絶対的な解は存在しない。


「前にお前が言っていたな、この腐りきった世界では異端者が絶対的な悪だと。だからそれに勝るのは妄信的なまでの善だけだと」

「ええ。だから貴方は僕たちに勝つことは出来ない。どれだけ抗っても無駄なんです」


 ラルフは断言する。

 しかしながら、この世の全てを善と悪の2つに割り振ることなど不可能だ。


「お前は絶対的な悪なんかじゃない。俺と同じ、脆弱な正義を掲げている人間の1人だ」


 それは彼にとって、受け入れ難い侮辱の言葉だったかもしれない。

 正義を掲げる人間など、ラルフにとって最も忌み嫌う存在なのだから。


「お前の行動の裏にはずっと、シエラ・ロペスという少女がいた。これまでに多くの人間を殺してきたのも、これから世界を殺そうとしているのも、ただその子のためだった。違うか?」


 純粋な悪ほど稀有な物は無い。

 どれだけ極悪非道な行いでも、そこには必ず自分を正当化する理由が存在する。

 ラルフにとってはそれがシエラだったのだろう。

 その身に宿した欲病のせいで殺されかけた幼い少女。

 ラルフ・スクリムジョーという男は彼女を守り、救うためだけにこの世界を殺そうとしている。


「黙れ」


 背筋が凍えるような、怒気を孕んだ低い声音。

 そして怒りに呼応するようにして、ラルフの肉体が人狼の姿へと変化していく。


「何を言おうと無駄だ。もう貴方の正義は奪われたんだ!」


 不躾ぶしつけな殺意があらわとなる。

 それだけで人を射殺せそうな程に鋭い眼光。

 けれど、それも今のノクトには効かない。

 左手を固く握りしめて胸に当てる。

 すると全身を優しい温もりが包み込んだ。ただそれだけで心の奥底から勇気が湧いてくるような温かさ。


「『正義』は己。『力』は此処に」


「何を…………!?」


 ラルフが眉をひそめる。



「――審問開始。たった今この時より、『力』を行使する」



 ノクトの声に呼応して、『R.I.O.T』システムは出力を開始した。

 『No.8:力』――それはかつて機関の英雄と謳われたフィル・アシュリーが託した希望の力である。

 左手の人差し指に嵌められていたカーネリアンの指輪が光の粒子へと変換され、頑強なガントレットの形を成した。

 両腕に装備されたそれらには獅子の如き巨爪が携えられており、白銀の輝きを放っている。


「ラルフ・スクリムジョー。欲名『狼憑きウェアウルフ』。人狼の姿へと変化し、五感の強化と身体能力の向上が得られる欲病。お前はその力を用いてこれまで数多の人間を殺害している。何か訂正はあるか?」


 対峙する異端者の罪をそらんじるノクト。


「訂正? 笑わせるな。間違えているのは世界の方だ」


 吐き捨てるようにラルフは答えた。


「そうか。なら、理性無き獣の所業を繰り返したお前は立派な異端者……審問対象だ」


 ノクトの言葉を合図として、両者が激突する。


 それは互いの正義を貫くための戦いだった。

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