第四章

第20話 聖なる日。祝え災禍の饗宴を

 2024年、12月25日。

 黒霧災害より12年経過したこの日。

 血と欲に塗れた獣たちの宴が開かれる。



 異端審問機関リベリオン、結界運営局情報通信本部。

 時刻は午後6時53分。


「何だこれは……?」


 ロードリックは懐疑の言葉を口にする。

 琥珀色をした彼の瞳が見つめるモニターには、信じがたい状況が映し出されていた。

 ロンドン・アイのすぐ傍。

 テムズ川流域に突如として巨獣が出現していたのである。

 その山の如き巨躯はロンドン・アイを軽く上回っており、恐ろしい程に尖鋭な牙を有していた。


「巡視ドローンからの映像より報告! ピカデリー・サーカスにて欲病発症者を確認。『狼憑きウェアウルフ』です!」


「もう1つ、巡視ドローンの映像より報告します! 『禍喰かしょく』と思われる人物をウェストミンスター橋にて確認しました!」


 次々と上がるステージ3以上の異端者たちの確認報告。

 この見計らったようなタイミング。

 ロードリックは奥の歯を噛んだ。

 今日――12月25日はここより北に離れたセント・メアリー・マグダレン教会でクリスマス礼拝が行われる日だ。その礼拝には英国王室の面々が訪れることになっている。

 故にリベリオンの実行部隊の多くは現在、王室警護にあたっていた。

 ――さて、どうするべきか?

 火急の問題にロードリックの思考回路は熱を帯びる。

 しかし、悩んでいる暇さえ今は皆無だった。


「ロンドン全域に避難勧告を出せ。それとテムズ川に架かっている橋もすべて封鎖しろ」


 ごく短時間の思考の末、判断を下すロードリック。

 彼は結界運営局の職員たちへ次々と的確な指示を出していく。


「……アンビバレントの4名にも連絡を。増援が来るまでの間、彼らを主力として異端者鎮圧へ臨む」


 苦渋の決断だった。

 この異常事態をたった4名の特務部隊で対処することなど無謀でしかない。

 けれど機関に所属する審問官の目的は、市民の安全のために異端者を鎮圧すること。

 だからこそ、4名の若者を死地へと送り込む決断を下さなければならない。

 こんな窮屈な立場に就いてしまったが故に、自分が前線へと赴くことは出来ず、ただ皆が奮闘している様を眺めていることしかできない。

 時にそんな理不尽さが酷く馬鹿馬鹿しいものに思えて。

 そして、ロードリックは最後の指示を出す。


「――英国政府に伝えろ。万が一の時は私も戦場へ出る、と」





『ウェストミンスター橋にて欲病発症者を確認。付近の審問官は直ちに急行せよ』

『欲名:『禍喰』 ステージ:3 備考:対象は東へ向かって移動中』


『ピカデリー・サーカス周辺にて欲病発症者を確認。付近の審問官は直ちに急行せよ』

『欲名:『狼憑き』 ステージ:3 備考:避難誘導中』


『ロンドン・アイ付近、テムズ川流域にて欲病生命体と推測される存在を確認。付近の審問官は直ちに急行せよ』

『欲名:不明 ステージ:不明 備考:現在詳細を解析中。解析結果は随時伝達を行う』


 その連絡は不意に訪れた。

 現在地はウォータールー駅周辺。ノクトたちが通常業務であるパトロールを行っていた時だった。

 ――12月25日。

 街はクリスマス一色で染まり、各所に飾り付けられた電飾が煌々と無機質な光を放っている。

 人々の幸せを全て詰め込んだようなこの日。

 獣たちが世界への叛逆を開始したのだと悟る。


「監視役、これは……」


 ノクトの携帯端末を覗き込んでいたモノフォニーが呟く。

 わざわざ言葉にするまでも無い異常事態。

 この日、このタイミング。最もロンドン中心部の警備が薄くなってしまう状況。

 ラルフはこれを狙っていたのか。


「どうする? 現状、すぐに駆け付けられるのは私たちだけだ」

「分かってる」


 火花を散らす程、思考を巡らせ続けるノクト。

 今、この状況で最適な判断を下さなければ被害は甚大となってしまう。

 頭が物理的な熱を帯びてきた頃。携帯端末へと電話が掛かってきた。

 画面を見ると、アリアからだ。


『ノック、テムズ川に出た化物は我らで対処する。残りはお主らに頼んでもいいかのう?』


 開口一番、彼女はそう告げた。

 既にこの状況を理解しているようだった。


「大丈夫だ。こっちは任せてくれ」


 ノクトもまた即答する。

 迷っていれば、ロンドンが滅んでしまう。


『良い自信じゃ。武運を祈る』


 必要最低限の会話を終えて電話は切れた。

 携帯端末を仕舞い、ノクトは隣で待機するモノフォニーへと視線を移す。


「テムズ川の怪物はアリアとオズが対処に向かう。残りの2人を俺たちで鎮圧する」

「了解だ。行こう、我が監視役。全ての決着を付けに」





 ――ウェストミンスター橋。

 現場に急行したノクトはテムズ川に存在する怪物へと目を向けた。

 爛れたような赤黒い皮膚、異常に発達した前足、凶悪的なまでに巨大で鋭利な牙を持った巨獣が出現していた。

 最初からそこに存在していたかのように悠然と佇んでいる巨獣。

 しかしながらその異質さはテクスチャのバグのようにちぐはぐで、現実のものとは思えない。


「――【屍肉しにく巨獣きょじゅう】。あれは私がこの10年で食べてしまった死体から生まれた怪物です」


 ロンドンの至る場所から騒音が響いているというのに、その少女の声だけはそれらを透過しているかの如くはっきりと聞こえた。

 橋の中央。

 そこに白髪の少女は立っていた。


「初めまして、私はシエラ・ロペス。機関の方々には『禍喰』と名乗った方が分かりやすいのかもしれませんね」


 恭しく頭を下げるシエラ。

 どうやら今の彼女はブラックドッグではなく、シエラ・ロペス本人の人格のようだ。


「あの獣は今目覚めたばかりなので動きませんが、直に活動を始めるでしょう」


 落ち着いた様子で怪物の説明を淡々と行うシエラ。

 外見の年齢と精神的な年齢との乖離が彼女の口調からは垣間見える。


「審問官の皆様方はどうするおつもりですか? あなた方は惰弱な市民を守ることが役目なのでしょう? 守り切れると良いですね」


 あれ程の巨体を有する怪物。

 実際の所、アンビバレント4人がかりでも止められるか怪しい規模だ。

 状況は最悪に近しい。けれど――。


「舐めるな。誰一人死なせやしない」


 ノクトはシエラを正面から見据えて言った。

 あの怪物はアリアとオズヴァルドに任せたのだから。何も心配はいらない。

 2人の実力はノクトがよく知っている。

 今は目の前のことだけに集中しろ。


「私たちの目的は既存社会の殺害、この間違いきった世界を喰らい尽くすことです。たった今この時より血みどろの祭典、【屍肉踊りの交差点カニバリズム・カーニバル】を始めましょう」


 シエラは今一度、深くお辞儀をする。

 それが人格の切り替わりの合図だった。

 次に彼女が顔を上げた時、その人形のような整った顔に明確な狂暴性が宿っていた。


「あの子のために喰らう。ただそれだけがわたしの使命。【悪食の悪鬼】であるわたしの……使命なの」


 目覚めたのは過去に対峙したブラックドッグの人格。

 シエラ・ロペスを生かすためだけに存在する防衛機構の1つ。



「――がぶり」



 刹那、黒い一閃が走る。

 少女の腹部から出現する黒い獣。その凶牙がノクトたちへと迫っていた。

 ――金属同士を打ち付けたような、澄んだ音が橋の上に響き渡る。


「監視役、君は『狼憑き』の下へ向かうんだ。ここで足止めを喰らう必要はない」


 凝血させた刀によってブラックドッグの一撃を受け止めながら、モノフォニーはノクトへと告げる。


「相手も本気だ。前の時みたいにはいかないぞ」

「勿論、承知しているとも。安心してくれ、私も少しばかり本気を出すつもりだから」


 異端なる少女はそう言って自信ありげに笑って見せる。


「……分かった。なら1つ、監視役として命令だ」


 モノフォニーはこちらにワインレッドの双眸を向けて、不思議そうに首を傾げた。

 信頼すべきバディを見据えてノクトは次の言葉を紡ぐ。


「必ず生きて戻って来い。監視役は、監視対象がいなきゃ成り立たないからな」


 こんな言葉を口にするとは思ってもいなかった。

 けれど、それは心の奥底から出てきた純粋な言葉。

 2年前だって生きていて欲しかった。死ぬことさえなければそれでよかったのだ。

 もう、何も失いたくはない。


「我が監視役は心配性だね」


 彼女の口元が綻ぶ。


「勿論だとも。私は天才美少女吸血姫、モノフォニー・クロム・ヘルキャットだよ? このロンドンを救う英雄になってみせるさ」


 普段通りの飄々とした態度でモノフォニーが告げた。

 今はただ、彼女の言葉を信じよう。


 力強い頷きを返して、ノクトは全力で走り出した。

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