第閑話 二匹のけだもの

 ――ノクトとモノフォニーが【悪食の悪鬼ブラックドッグ】と接触する前日。


 ロンドン郊外に存在するとある家屋。

 周囲には鬱蒼うっそうと木々が生い茂っており、その建物を覆い隠そうとしている。

 ここは2匹の獣が住まう家。

 世界への反乱、ひいては既存社会の殺害を目論む2人の異端者が住まう家だ。

 以前住んでいた老夫婦の趣味で、アンティーク家具で統一されたリビング。

 焦げたキャラメルのような色をした本革のソファに1人の少女が座っていた。

 彼女の名はシエラ・ロペス。

 『禍喰かしょく』と呼ばれる欲病をその身に宿しており、10年前にストロベリーフィールドの惨劇という事件を引き起こした張本人。

 そんな彼女は小説を読んでいた。

 今、世間で流行しているという推理小説。

 ロンドンを舞台に私立探偵と警察医のコンビが連続殺人事件に挑むというストーリー。

 この小説の犯人は一流レストランに勤めるシェフで、遺体を調理して客に提供することで証拠隠滅を図っていた。

 しかし、探偵の驚異的なまでの洞察力と警察医の桁外れな知識量によって犯人は逮捕され、事件は無事終息した。

 読み終えた本を閉じて自身の横にそっと置く。

 自分もこのシェフのように捕まってしまうのだろうか。

 漠然とした不安感がシエラの中で渦巻いていた。

 パチパチと音を散らす暖炉の火をぼうっと眺めていると、玄関の方から音が聞こえた。

 壁に掛けられた独創的な針の形をした時計を見ると、現在時刻は午後4時23分。足音は段々と夕日の溶けるリビングへと近づいてきて。


「ただいま」


 顔を見せたのはもう1人の同居人、ラルフ・スクリムジョーだった。


「おかえりなさい。何か飲む?」


 ソファから立ち上がって問うと、ラルフは「じゃあ、紅茶。ダージリンをお願い」と告げて洗面所へと向かった。





 ダイニングテーブルに並ぶ2つのティーカップ。

 そこには明るいオレンジ色の液体が注がれていて、ゆらゆらと湯気が立ち昇っている。


「怪我はもう大丈夫なの?」


 2日前にラルフは異端審問官と接触し、そこで右腕と頭部を負傷していた。

 その窮地から助け出したのはシエラ本人だったので彼の重症具合は記憶に新しい。

 はずだったのだが――。

 今のラルフは包帯も取れ、傷が全て完治していた。


「ああ、昨日は満月だったからね。『狼憑き』のおかげで月光を浴びると、怪我が治るようになってるんだよ」


 紅茶の水面に向けて息を吹きかけた後、彼はけろりと言った。

 欲病によって得られる権能は様々。ステージが進行することでその数が増えたりもする。

 ラルフの場合、人狼への変化だけでなく月光浴による治癒能力も獲得しているらしい。


「じゃあ、月が出ている日だったら凄い強いんだね」


 素直な感想を述べる。


「うん。だから決行日は満月が良かったんだけど……」


 ラルフは言い淀んだ。

 彼の纏う雰囲気が一瞬で剣呑なものに移り変わる。


「でも、それを待ってる時間はもう無い。そろそろ審問官たちもこっちの正体に気付くだろうから」


 ラルフの瞳に冷ややかな光が宿っていた。


「本当にやるんだね……」


 シエラはティーカップをその小さな両手で持ち、呟く。

 手が震えているのか、紅茶が薄く波立っていた。


「怖い? やっぱり、僕だけでやろうか? わざわざシエラがリスクを冒す必要は無いんだし……」


 そう語り掛けるラルフの声音はとてもやさしくて。


「ううん、ラルフもいるしブラックドッグもいる。それに、私がいなきゃ作戦が実行できないでしょ。……大丈夫、私たちならきっとできるよ」


 こちらを覗き込むラルフの瞳を真っすぐに見つめ返した。

 12月25日、この聖なる日に2人は世界への叛逆を行う。

 異端者の排斥を正義とするこの間違いに満ちた世界の殺害。

 それこそが2人の目的。

 10年前のあの日から、2匹の獣は牙を研いできたのだ。


「そうだな……。僕たちならきっと殺せる。この腐り切った世界を」


 ラルフはそう言って軽く微笑んだ。

 外の貫くような寒さとは無縁の、穏やかな時間がここには流れている。


 ――少し、お腹が空いたな。


 シエラは雪が降りしきる窓の外をしばらく眺めていた。

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