第23話 獣と鬼
――激しい爆撃の音。
音と光の明滅によって、アリアたちが【
「余所見だなんて悲しいわ。今はわたしと遊んでいるのよ?」
ブラックドッグは憂いを帯びた目をしていた。
同名の権能である【
それを【血刀因子】によって捌き続けるモノフォニー。
「全く、束縛する子は嫌われるよ」
「束縛なんかしないわ。気に入った子は食べてしまえばいいんだもの。そうすればシエラとずっと一緒にいられるわ」
「束縛のレベルが尋常じゃないね……」
「ふふ、冗談よ」
呆れ気味に呟くと、少女は茶化すように小さく笑った。
モノフォニーとしては早々に決着を付けてノクトの増援へ向かいたい所。
そのため、ここで長い時間を割いている余裕は無かった。
「焦っているのね。良いわ、わたしもそこまで長くは出ていられないもの。お互いに利のある短期決戦と洒落込みましょう?」
焦燥が顔に出てしまっていたのだろうか。
少女がこちらの心の内を見透かすように、にこやかに告げる。
「それは有難いね」
モノフォニーは刀によって悪鬼の牙を弾き、一度、後方へ大きく跳躍した。
彼女の提案はこちらにとって有益な物だった。体力の温存、時間の制限など諸々の条件を踏まえると、この提案に乗らない手は無い。
だがそれは敵としても勝算あっての提案だろう。
短期決戦を行えるだけの切札を、相手は有しているということだ。
ブラックドッグへの警戒を更に一段階引き上げる。
「【
透き通った儚げな声が響いて。
腹部から伸びる黒い獣の顎がシエラ自身の肉体を呑み込んでいく。
自分自身を喰らっている。
――あれは一体何をしているのか。考えた所で解は出なかった。理解は不能だった。
目の前に現れたのは1匹の黒い獣。
それは同一化と呼ぶべき変化。
シエラの肉体は黒い
けれど鋭く尖った牙や爪だけはくっきりと形を視認できた。
瞬間、右腕が吹き飛ぶ。
――少しも反応できなかった。
脳内で脅威を報せる警鐘が鳴り響く。
同族狩りとして異端者戦闘の経験を積んでいるモノフォニー。
しかしながら今の一撃は視認すら不可能だった。
「『禍喰』には基礎となる3つの権能があるの。触れた者を飢餓状態へと陥れる【
彼女のすぐ傍に立った獣がモノフォニーの右腕を橋の外へと放り捨てる。
「この姿は【過食気味な血液】と【飽食せずの胃袋】を失うことで副次的に得られる権能よ。一種の縛りみたいなものね。2つの権能を【屍肉の巨獣】に移すことで異常なまでの速度と強度を得られるの」
ブラックドッグが淡々と述べる。
「それはご丁寧にどうも。説明しちゃって良かったのかい?」
右の肩を抑えつつモノフォニーは問う。
血液操作によって出血を抑えることに集中する。
「理解したところで避けられないもの」
獣の拳が僅かに動いた。
だがその挙動の終わりを認識することは叶わず。
今度はモノフォニーの腹部に衝撃が走り、彼女の体は路傍の石のように軽々しく宙へ舞った。
「がぁっ……」と、血反吐を吐きつつ地面を転がる。
何とか体勢を整えるけれど、腹部に受けた痛みは色濃く残留したまま。
確かにこの速度は『狼憑き』に勝るとも劣らない。
だが、それと引き換えに攻撃を無際限に吸収する権能と、飢餓状態を付与する血液の権能は消失している。
吸収ではなく単なる耐久力のみならば、それを上回る威力を叩き込めばいいだけの話。
モノフォニーの明晰な頭脳は酷く力任せな結論を導き出していた。
「なるほど……。なら、出し惜しみは無しだ」
モノフォニーは決意を固めて立ち上がる。
それは自身の人間性を捨て去る愚行。
人と鬼の狭間にて、彼女は禁域へと足を踏み入れた。
「――【
全身の血が沸き上がるような感覚。
体の隅々まで熱が走り、感覚が研ぎ澄まされていく。
段々と彼女の存在が怪異の方へと傾いていった。
「ああ、駄目。そんなに血の匂いを振りまかれたらわたし……」
獣は緩慢な動きで首をもたげた。
「我慢できなくなっちゃう」
【拒食獣】はその尖鋭な凶牙を剥き、大きく開かれた
しかしそれがモノフォニーの肉体にまで届くことは無い。
――鬼としての覚醒。
それが招いた結果であった。
【
モノフォニーもまた血を求める存在。
『吸血姫』は『禍喰』と同質の喰らう力を持つ。それ即ち、他の生命が有する生命力の吸収を意味する。
鮮やかな赤色の外套に触れた瞬間、シエラを覆う靄が薄くなった。
異常を察知した獣は弾かれたようにモノフォニーから距離を取った。靄が彼女を再び覆うまでの僅かな間、獣は動きを抑制されている。
この一瞬の好機を逃すべきではない。
即座にそう判断したモノフォニーは獣へと間合いを詰める。
鬼気迫る彼女の手には、凡そ武器と呼ぶには大雑把な大槌が握られていた。
「【
自身の血を極限まで硬質化させて生成した十字架型の大槌。
モノフォニーの身の丈程はある巨大な鉄槌を振り翳せば、たとえどれだけの強度を誇ろうとも確実に破壊できる。
「殺されたくなきゃ、死ぬ気で守れ!」
獣に向けて吼えた。
そして爆発的な速度で槌が振り下ろされる。
――訪れる静寂。
手応えはあった。
だがそれと同時に拭いきれぬ違和感もあった。
モノフォニーは【拒食獣】の引き起こした結果を見て、驚愕に満ちた表情を浮かべる。
――拒まれていた。
そう。黒い靄を纏った獣は、こちらの巨槌による攻撃を完全に拒んでいたのだ。
だがブラックドッグは【拒食獣】の権能について、圧倒的な速度と強度を得るとしか言及していなかった。
モノフォニーはそれを聞き、対象を悉く破壊するつもりで槌を振るった。
故にこれは強度云々の話ではない。
概念として、拒絶されている。
――まさかこの窮地で新たなる権能を開花させたのか。
「土壇場で煽ったのは悪手だったみたいだねぇ……」
獣の鋭い蹴りが顔に向けて放たれる。
モノフォニーはそれを巨槌によって防御し、勢いを殺すように後方へ飛んだ。
「ふぅー……」
獣の深い息遣いが耳に届く。
攻撃の拒絶。
厄介極まりない権能だ。
だがブラックドッグ自身、短期決戦を望んでいたはず。その背景を鑑みれば、【拒食獣】という形態自体そう長くは保てないのだろう。
そこに加えて拒絶という権能の発現。
恐らくメリットだけではない。権能の発動に際して、【拒食獣】の維持時間も大幅に短縮されるはずだ。
「なら、答えは1つ……か」
致命傷となる一撃を繰り出し続ける――それだけだ。
煮え滾った脳は、相も変わらず猪突猛進な答えを導き出していた。
モノフォニーは瞬く間に獣へと距離を詰め、巨槌を振り翳す。だがそれも当然のように不可視の壁によって阻まれた。
しかし攻撃の手は緩めない。
むしろ彼女の槌を振るう速度は段々と上がり始めていて。
鬼による猛攻。
けれどその猛攻も
全ての攻撃が拒絶された。
【鮮血外套・血之纏】もまた【拒食獣】と同じく持続時間は長くない。
(私の方も、そろそろ限界か……)
限界を悟ると共に、激しい焦燥感が高まってきたその時。
ブラックドッグが後方へ跳躍しようとする。
それは拒絶の権能を維持できない――ひいてはクールタイムの時間を意味していた。
(駄目だ、ここで追撃しなければ負ける……!)
お互いに限界は近い。ならば、相手に1秒たりとも休息の時間を与えてはならない。
絶え間なく攻撃し続ける。それが【拒食獣】の唯一の突破口なのだから。
体内を駆け巡る血液。
酸素は絶え間なく脳に送り込まれている。
余分な思考は取り除き、鬼は獲物を狩るためだけに動く。
「【血鎖の咎】!」
鮮血に染まった外套の内側から無数の鎖が伸びた。
空中に浮いたブラックドッグの肉体を血液の鎖によって捕縛する。
「ぐっ……これはっ……!」
ブラックドッグの緊迫した声が響く。
だがもう遅い。
モノフォニーは巨槌を振り被り、獣の肉体を自身へと引き寄せる。
そして、鬼の鉄槌が振り抜かれた。
完全な防御姿勢の上から獣の――シエラの肉体へと杭を打ち込むかの如く自身の血液を叩き込む。
「ぐああああぁ……!」
生命力を吸収する血液がシエラの体内で暴れ回り、【拒食獣】の発動すらも不可能にさせる。
ブラックドッグの叫びと共に体を覆っていた靄が晴れた。
黒い靄の中から再び現れたシエラの表情はどこか安堵したように見えて。
地面に倒れ込もうとするシエラの体を受け止める。
その体はぞっとするほど軽く。
本当にここに存在しているのかさえ不安になる程だった。
「私たちは……、最初から……間違っていたのでしょうか……?」
悲痛な表情を浮かべてシエラが問う。
その言葉にモノフォニーは息が詰まるような、鬱屈した感覚を覚えた。
欲病はジェイコブズの「猿の手」のように、発症者の願望を歪な形で叶えてしまう。
彼女の始まりは極限の飢餓状態に陥り、空腹を満たしたいと願ったことだ。
それは突き詰めてしまえば、生き延びたいという至って純粋な願望。
数日前に発生したノクトとラルフの戦闘記録を見た時。そこでラルフは『禍喰』についての説明をしていた。
彼曰く、『禍喰』という欲病はエネルギー消費が激しく、定期的なエネルギー確保を行わなければならない身体となるらしい。
そしてその特殊な胃を有するが故に、莫大なエネルギーは人間の血肉でしか摂取することが出来ない。
『禍喰』を発症してしまった時点でシエラは詰んでいた。
生きることを罪だとされたなら、彼女はどうすれば良かったのだろう。
「間違えない人間なんていないさ。間違えたのなら、またやり直せばいい」
少女を腕に抱き、モノフォニーは諭すように言葉を紡いだ。
【血気覚醒】を解除する。
意識が途絶える寸前にシエラが発した「ラルフを救けてあげて下さい……」という言葉を頭の中で反芻する。
「止めて」、ではなく「救けて」。
その言葉の意を真に正しく読み取ることは出来ない。
けれど、ただ1つ明瞭に理解していることがある。
――これ以上、欲病の被害者を増やしてはならない。
その一心で彼女は次の行動に移った。
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