第25話 皇帝は君臨し、塔は聳え立つ

 混乱、騒乱、狂乱。

 白雪降り募るロンドンには今、赤い飢餓に満ちていた。


 ――結界運営局情報通信本部にて。

 数十分前に発生した連続的な異端者の出現により、通信本部はこれまでにない慌ただしさを見せていた。


「巡視ドローンの映像記録より報告。アリア審問官とオズヴァルド審問官の両名が【屍肉の巨獣】を撃破しました! ですが、どこか様子が……」


 女性職員の報告が情報通信室内に反響する。

 ロードリックはモニターに映し出されているテムズ川流域の様子を確認した。

 爆発によって巨獣の肉体が破壊された後、その死骸から赤い瘴気のようなものが噴き出している。


「モノフォニー特例審問官より報告。鎮圧した『禍喰』より、【屍肉の巨獣】に関する情報を入手したとのこと。対象は外部からの攻撃を全て吸収する【飽食せずの胃袋エンプティ・ダンプティ】と、血に接触した対象を極度の飢餓状態に陥らせる【過食気味な血液オーバーイーツ】の2つの権能を有しているそうです」


 その報告によりようやく、事態の深刻さを正確に理解した。

 映像でも確認できる赤い瘴気は、ロンドン・アイ付近を中心として円状に拡散し始めている。

 仮にあの瘴気が【過食気味な血液】と同じ効果を持っているのなら、広範囲に被害が出てしまうだろう。


「アリア審問官とオズヴァルド審問官はマックスによって戦線を離脱しています。残りはノクト審問官とモノフォニー特例審問官ですが、両名共に『狼憑き』と交戦中です」


 取り敢えず2人の審問官の安全を確認できたため、少しばかり安堵するロードリック。

 だが、その感情に浸っている暇は無い。

 矢継ぎ早に職員からの報告が上がる。


「巡視ドローンの映像より報告。赤い瘴気により一部の市民が飢餓状態に陥っている模様。さらに飢餓状態となった市民が他の市民へ襲い掛かる事案が発生しているようです。これはまるで……」


 女性職員の怯えるような声音が、ロードリックの脳内にある最悪な記憶を掘り起こす。


「黒霧災害か……」


 苦々しくロードリックは呟いた。

 10年前に発生した、ロンドンを事実上の崩壊にまで追い込んだ大規模災害。

 人間が山羊頭の怪物へと変化し、周囲の人間を襲い始めた黒霧災害と今回の事象は酷似している。

 唯一救いがあるとすれば、飢餓状態に陥っているだけで異形の怪物へと変わり果ててはいないという点か。

 ロードリックはすぐ近くで作業を行う眼鏡を掛けた男性職員へと声を掛ける。


「英国政府から戦闘の許可は取れたか?」


 問い掛けられた男性職員は慣れた手つきでキーボードを操作し、冴えない表情を浮かべて答えた。


「いえ、まだ返事は来ていません。どうやらロンドン内の異変を察知した後、陸軍によるロンドン包囲網を敷こうとしているらしく……」

「こんな時まで保身に走るか、老獪共が……!」


 ロードリックは忌々し気に悪態を吐く。


「――前線に出る。バベル審問官にも連絡を」


 そう端的に言い残し、ロードリックは通信本部を後にした。





 部屋を出ると、そこには待ち受けていたかのようにバベルが立っていた。


「行くんですか?」


 魔女を彷彿とさせる三角帽子と黒いローブを着用した彼女はロードリックへと尋ねる。

 理知的な翡翠色の瞳がこちらを真っすぐに見据えていて。


「ああ。若者が命を賭して戦っているというのに、大人がただ指を咥えて見ているだけでは示しがつかないだろう」


 その若者を送り出したのが自分自身であるというのであれば尚更。

 人の上に立つということは、責任をその身に背負うということだ。革張りのオフィスチェアの背もたれに体重を預けてばかりではいられない。


「英国政府のお偉方たちから、またお叱りを受けるかもしれませんよ?」


 冗談めかした調子でバベルが言った。

 その童顔によってか、まるで悪戯を画策する幼子のような無邪気さが感じられる。


「保身だけの老いれ共に何を言われても響きはしないさ」

「ふふ。他の人に聞かれたら大変ですよ。……行きましょう、車両の手配は済ませています」


 余裕に満ちた微笑みを浮かべて先を促すバベル。

 ロードリックはそれに力強い頷きを返した。





 ――飢餓に満ちた街を行く。


「おいオズ! 降ろさんか!」


 マックスの背後で力なく暴れるアリア。

 彼女は『再誕』の使用により、かなり疲弊していた。

 2人は【屍肉の巨獣】から赤い瘴気が発生したことを確認した後、マックスの自動運転により危機を脱した。

 だが、その途中で目撃してしまったのである。

 人が人を喰らう瞬間を。

 鮮血が彼岸花のように咲き誇る瞬間を。


「馬鹿か! 今の俺たちじゃ無理だ!」


 アリアに代わってバイクのハンドルを握っているオズヴァルドがアリアへ叱責を飛ばす。

 彼は理解していた。

 あの暴動を止めるに際して、今の自分たちは無力過ぎる。

 精神も肉体も完全に限界を迎えているこの状態で、何が出来ると言うのか。

 ノクトのように『R.I.O.T』の二重適合が可能な特異体質でもなければ、基本的に精神許容限界はすぐに訪れる。

 アリアは既にマックスを維持しているだけで限界に達しているだろうし、オズヴァルド自身もまた、『No.19:太陽』の再誕を使用してしまったためシステムの起動すらままならない。


「我らが、何のために……! 何のために審問官になったと……!」


 アリアの声に涙が混じる。

 それを聞き、オズヴァルドも悔しさに唇を噛んだ。

 ――黒霧災害。

 ロンドン全てを崩壊に追い込んだ災害。

 人々の大切な物を悉く破壊せしめた災害。

 その被害者であるアリアたちは、もう二度とこの悲劇を繰り返さないために審問官となった。

 それなのに自分たちは今、為す術も無く逃走の一途を辿っている。


「お母さん! ねぇ、お母さん!」


 幼い子供の声。

 思わずマックスを停車させるオズヴァルド。

 見れば、道端で血を流して倒れ伏した女性に向けて、必死に声を掛ける子供がいた。

 そこに朧げな足取りで近づいていく狂暴化した市民たち。

 その瞳からは理性が失われ、彼らは血肉を求めて彷徨う獣と化していた。

 子供の目から、涙が零れ落ちる。

 雫が地面に弾ける。


 ――瞬間。オズヴァルドの中で、過去の記憶が蘇った。

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