第閑話 二人のけだもの
雪が降っている。
白く冷たい、雪。
シエラは当て所なく街を行く。
見知らぬ人。人。人。
飢えは無い。
ついさっき、彼女は輝くような金色の髪を有した少女の半身を喰らった。
自分の意思ではない。空腹を感じて次に目覚めた時にはもう、腹は満たされている。
――『禍喰』。
それがシエラの患った欲病で、他者を喰らわなければ自身の生命維持すら不可能になってしまう厄介な病。
死にたくない。
そう漠然と思うと、自分自身の中に住まう怪物が表に出てくる。
怪物は人を喰らうためだけに存在していた。
手が冷たい。
指先が赤く
はぁー、と息を吹きかけて指先を温める。
これからどうしたらいいのだろう。
孤児院を飛び出して、ミクルベと名乗る男に拾われ、そしてまた独りになった。
これからどこに行けばいい?
何をすればいいのだろう?
死にたくはない。もとより、怪物が死なせてはくれない。
道の角で1人の男とぶつかった。
体格差のあまり、尻もちをつく。雪の冷たさがじんわりと伝わってきて。
「ご、ごめん! 大丈夫!?」
赤い長髪を1つに縛った男が膝を折って顔を覗き込んできた。
鋭利な雰囲気を纏ったその男の顔には、どこか見覚えがあった。
彼は誰だったか。
「…………シエラ?」
こちらが思い出すより先に、男が自分の名前を呼んだ。
名前を呼ぶ彼の声がとても懐かしく思えて。
好きだった人の声。彼に名前を呼ばれると、それだけで嬉しくなるような温かい声音。
「ラルフ?」
そうだ。
彼の名前はラルフ。
孤児院にいた時、職員の見習いとして働いていたラルフ・スクリムジョーだ。
何故彼がここにいるのだろう。
ストロベリーフィールドでの一件を経て、孤児院が封鎖されてしまったことだけは知っていた。
だが、職員たちがその後どうなったかまでは知らなかったのである。
「何で、ここにいるの?」
「それはこっちの台詞だよ。何でシエラがこんな所に? 誰か、保護者の人はいるのか?」
矢継ぎ早に問われて、シエラは目を瞬かせる。
逡巡する中で過去の記憶が次々と浮かんでは消えた。
「私は、独りだよ。誰もいなくなっちゃった……」
自分が関わった人間は皆いなくなってしまう。
両親も、孤児院の皆も、ミクルベも。
あらゆる人々が自分から離れて行ってしまう。きっと自分が欲病に罹っているからだろう。
悍ましい怪物を内部に潜ませているから。
「そんなことない……! 僕がいるから……。僕がいる限り、君をもう独りになんてさせない」
ラルフはシエラを抱き寄せた。
シエラの小さく華奢な身体はラルフの両腕の中にすっぽりと納まってしまった。
ストロベリーフィールドの惨劇から8年。
その日以来シエラの体は殆ど成長していない。『禍喰』という欲病によって、ただ生きているだけで常人の数倍以上のエネルギーを消費してしまうからだ。
ラルフの胸の中はとても温かかった。
偶然の再開を経て、シエラとラルフの共同生活が始まった。
普段はリヴァプールにある職業訓練施設の従業員をしているラルフ。そんな彼の住まう家にシエラはやって来た。
知人の老夫婦から譲り受けたとされるログハウスには、良く言えば年季を感じさせる、悪く言えば古めかしい家具たちが顔を揃えていた。
「今日からここがシエラの家だ。好きに使って良いよ」
コートをハンガーに掛けながらラルフは優しさに満ちた視線を向ける。
リビングに相当する部屋には蒔ストーブが設置されており、火がパチパチと弾けている。
吸い込まれるように、ストーブの傍にあったソファへ腰を下ろした。
冷たくないし、硬くも無い。
温かく、柔らかい。
「ストーブ、気に入った?」
隣に座ったラルフがマグを差し出してくる。
それを恐る恐る受け取ると、マグの中にはホットミルクが入っていた。ゆらゆらと湯気が立ち上っている。
ミルクを一口飲む。
ほっとするような温かさが体の中をするりと通り抜けていった。
「ここは寒くないから好き。今までずっと、寒い場所で過ごしてたから」
薄く波立つホットミルクを見つめる。
「そっか……。大丈夫、此処にシエラを傷つけるものは何も無いよ」
ラルフは優しく、くしゃりと笑って見せた。
普段は鋭利な雰囲気を纏っているラルフだが、こうした場面でその温和さが垣間見える。
安心感を与えてくれる彼の笑顔が途轍もなく愛おしく思えて。
気が付けば、シエラはまどろみの中に誘い込まれていった。
ラルフ・スクリムジョーが欲病を患ったことを認識したのは、ストロベリーフィールドの惨劇から数年後だった。
たった1人の子供すら救えない自分への絶望。
子供を監禁し、衰弱して死ぬことを容認する異常性。
欲病を悪として、排斥しようとする社会。
どれが要因だったのか分からない。けれど、全てが原因だったのかもしれない。
何故、獣に変身する力を手に入れたのか。
自分は何を望んだのだろう。
この力を何に使えばいいのだろう。
考えても答えは出なかった。
シエラが家に来てから早数ヶ月。
彼女もこの家に慣れてきたようで、すっかり落ち着いた様子を見せていた。
朝はシエラと朝食を食べ、昼は職場で、夜はまた家に戻って来て2人で夕食を取る。
そんな穏やかな生活が続いていた。
続けば良いと、そう願っていた。
ある日、ラルフは獣を見た。
月が良く見える日だったことを覚えている。
何年も前にストロベリーフィールドで目撃したあの黒い獣。
てっきり彼女の中で抑え込めている物だとばかり思っていた。
しかし獣は依然としてその狂暴性を秘めたまま、全てを喰らわんと存在していたのだ。
「シエラ! お願いだ、止まってくれ!」
ラルフの言葉も今の彼女には届いていないようで。
鋭い爪と牙を覗かせて、彼女は襲い掛かってきた。
尖鋭なそれらは容易くラルフの肉を引き裂き、地面に鮮血が散る。
「ぐぁっ……!」
右腕を抑えながら地面を転がる。
家の庭先での出来事。
地に這いつくばるラルフの視界に黄色いダリアの花が映る。
シエラがその花を気に入ってから、毎日欠かさずに水をやって成長を見守っていた花。
黒い獣が嬲るような速度で歩を進め、そして花を踏みにじった。
か弱い生命が潰されていく。
儚い思い出が壊されていく。
それは極めて残酷なことだった。
自分自身の大切な物を、自分自身の欲望によって打ち壊すだなんて。
獣の息遣いがすぐそこまで迫る。
「やめろ……、やめてくれ……!」
これ以上、彼女に何かを傷つけさせたくなかった。
獣の爪が振り下ろされる。
ラルフはただ彼女を守ろうと必死に足掻いた。
その瞬間、彼の中にあった欲病がはっきりと目を覚ます。
「うああああ!」
雄叫びを上げて獣の腕を掴む。
そんな彼の腕もまた、獣の物となっていて。
『狼憑き』の2度目の発現。それは最初の発動から8年も経ってのことだった。
「もうやめろ! これ以上、シエラが人を傷つける必要はないんだ!」
人狼の姿となったラルフは獣を抱きしめる。
しばらく彼女は腕の中で暴れていたが、次第にその抵抗は弱々しくなっていって。
獣がシエラの中へと戻っていく。
ラルフの腕の中で意識を失っている彼女は、10年前と変わらない幼い姿のままで。
暴走が止まったことによる安堵からか、全身から力が抜けてその場に座り込む。
もう人狼状態すら維持できなくなっていた。
「大丈夫。大丈夫だから」
瞳を閉じたままのシエラに向かって、ラルフは何度もそう言葉を掛け続けた。
その日から、ラルフは人であることを辞めた。
理性無き獣として人間を狩ると決意した。
それはシエラのため。
彼女がもう2度と人を殺すことが無いように、自分が先に殺せばいい。
そうすれば、彼女はただ死体を喰らうだけで良くなる。
「今から僕は貴方を殺す。悪いとは思わない。僕はただ一匹の獣だから。人であることを辞めた獣だからだ」
被害者を前に彼は告げた。
命は、命を否定するところから始まる。
生きるためには殺さなければならない。
人は皆、自分だけは安全だと思ってのうのうと生きているがそれは間違いだ。
人は皆、数多の生命を踏み台にして生きている。
ならば人という存在もまた、何かの生きる糧にならないと、どうして言い切れるだろう。
「生きるために喰らうことが罪になるなら、この世界は間違っている。そんな間違いを含んだ世界なら、殺してしまった方が良い」
月明かりの下で、獣は人を殺した。
そして親鳥が雛に餌を与えるように、ラルフは死肉をシエラに与えた。
だが彼女に人を喰らった記憶は無い。
全て彼女の内に潜む獣が肩代わりしているからだ。
「この既存社会を殺害し、世界をあるべき姿に戻すんだ」
喰らい、喰われる闘争状態。それこそが世界が持つ本来の姿だ。
シエラの罪は、自分が背負う。
そのための力だ。
ラルフは人を殺す。ただ1人の少女を救うために。
シエラは人を喰らう。ただ己が生を全うするために。
2人のけだものはこうして人の道を踏み外していく。
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