第16話 血塗れ

「――私は君を信じてる。だから、私の力は君の正義の下でしか使わない」


 懐かしい声がした。

 聞いただけで勇気が湧いてくるような声が。

 その温かさを手放したくなくて。

 だがそれは段々と遠ざかっていった。





 ――意識の覚醒。

 白む視界の中、ゆっくりと辺りを見回す。

 どこかの建物の中――自分が床に横たわっていることを理解した。内装の雰囲気から察するにカフェだろうか。


「起きたかい、我が監視役?」


 頭上の方から声が聞こえた。

 仰向けの状態のまま上を向くと、モノフォニーがこちらの顔を覗き込んでいた。

 反射でそこから動こうとするも体に力が入らない。ノクトはただ視線を泳がせることしかできなかった。


「ああ、あまり動かないで。さっきまで君は極度の飢餓状態に陥っていたんだ」


 記憶が途切れる寸前の光景が思い出される。

 視界が赤く染まったあの記憶が。

 2年前も同じように庇われてフィルを失った。

 今回もまた、自分の失態でモノフォニーに傷を負わせてしまった。自責の念が今更になって込み上げる。


「……悪い、感情的になり過ぎた」

「謝罪は嫌いだ……するのもされるのも。だからこういう時はありがとうと言って欲しいな」


 モノフォニーは聖母の如く優しく微笑む。


「……ありがとう、助かった」

「うん、どういたしまして。それに謝罪するのはどちらかと言うと私の方だ」

「どういう意味だ?」


 途端に不安が込み上げてくる。

 あのモノフォニーが自ら謝罪を申し出るなど、よっぽどの事態のはずだが。

 予想外の出来事に焦燥が募り、ノクトはただ次の言葉を待つ。


「飢餓状態をどうにか抑え込もうと思ってね、私の血を君に飲ませてみたんだ」

「はぁ……?」


 ただ間の抜けた声が零れた。


「そうしたら何と、見事に飢餓状態が収まったというわけだ」


 茫然とするノクト。反対に満面の笑みのモノフォニー。

 彼女は「やったねー」と小さく拍手している。

 あの飢餓状態は血肉を欲するが故のものだろう。だとすれば血液の摂取によって飢餓感が抑え込まれるというのは当然の結果か。

 思いの外、冷静な頭で状況を整理する。

 こちらとしては監視役という立場でありながら、監視対象によって暴走を止められるという醜態を晒している手前、彼女に対して強く出られる状況ではない。

 だが、自分自身の身体に関しては詳細を把握しておく必要があった。


「これって何か、俺の身体に影響が出たりするのか……?」

「いやぁ、どうだろうねぇ。流石に自分の血を他者に分け与える実験はしたことが無くてね、私もよく分からないんだ。もしかしたら傷の治りがちょっと早くなったりするかも?」


 そう言ってモノフォニーは自身の細腕を振って見せた。

 それは【悪食の悪鬼ブラックドッグ】によって喰い千切られたはずの右腕だった。どうやら既にその傷も癒えたらしい。

 彼女の再生力に目を見張るノクト。


「それ位で済んでくれれば良いが……」


 静かに上体を起こす。今の所目立った変化は無い。

 不安は残るが今はそれも後回しだ。他に優先して処理しなければならないことがある。


「【悪食の悪鬼】はどうなった?」

「あの後【血鎖の咎】で拘束しておいたが、そろそろ破られる頃だろう。早急に対応したい所だね」

「何か策はあるか?」


 同族狩りとして活動していた彼女の意見を乞う。

 1人だけでは駄目だ。あの強大な異端者に対抗するにはモノフォニーと協力する必要がある。


「勿論。私は同じ異端者を狩る存在だからね」


 余裕の笑みを浮かべて、モノフォニーは立ち上がる。

 そして彼女は優雅な所作でこちらに向かって手を差し伸べた。

 ほんの僅かな逡巡の後、ノクトはその手を握る。


「私が囮になってその隙に君が抑制剤を打ち込む。どうだい、簡単な作戦だろう?」


 それは一番最初にハイド・パークで行った時のような作戦。

 あの時は結果的に偶然そうなっただけだったが、今回は違う。


「ああ。これ以上ない位には」


 ノクトは既に思考を切り替えていた。

 審問官である自分が為すべきことは最初から決まっている。

 異端者の迅速な鎮圧……決して個人の復讐なんかではない。


「信頼しているよ、我が監視役」


 モノフォニーはいつもと変わらぬ飄々とした態度で告げた。



「――――がぶり」



 その時、部屋の壁と屋根が吹き飛んだ。

 瞬時に原因を把握する。【悪食の悪鬼】が建物の上部を喰らったのだ。見上げれば、鈍色にびいろの空が広がっていた。


「隠れても無駄だわ。血の匂いが強すぎるんだもの」


 千切り取られたかのような跡が残る壁の向こうに、ブラックドッグは佇んでいた。


「あら、あなたどうしてもう動けるの? 【過食気味な血液オーバーイーツ】は正常に発動させたはずなのだけれど……」


 何やら腑に落ちないといった様子でこちらを伺っているブラックドッグ。

 どうやら先ほどノクトが襲われた飢餓感は【過食気味な血液】という権能によって引き起こされたものらしい。

 瞬時にモノフォニーが行動に移る。

 自身の血を凝固させた刀を振り翳し、ブラックドッグを勢いのまま吹き飛ばす。


「必ず私が隙を作って見せる。だがその隙は恐らく一瞬だ。その一瞬をどうか見極めて欲しい」


 彼女はそう言い残してブラックドッグへと向かって行った。

 逸る気持ちを抑え込んで思考を巡らせる。自分が為すべきことを見極める。

 ノクトは意を決し、モノフォニーの後に続いた。





 ――人気の無くなった路地での戦闘。

 モノフォニーは人外じみた速度で少女へと斬りかかった。

 類稀なる反応速度でそれを躱し続けるブラックドッグ。

 純粋な異端者同士の戦闘は常軌を逸した速度で行われていた。


「わたし、貴女に用は無いのだけれど」


 至極つまらないといった様子で少女は言う。


「おや、それは残念。でもお楽しみはこれからさ」


 モノフォニーがにやりと笑い、再度間合いへと踏み込んで刀を横に振るう。


「……!?」


 刃は届いていない。

 しかしブラックドッグの動きが僅かに鈍る。

 その原因はモノフォニーの血であった。刀の峰だけを血液へと戻し、ブラックドッグの目へと飛ばしたのである。


「【血鎖の咎】!」


 刀に使用していた血を鎖へと変化させ、少女の四肢を封じた。

 そして高々と跳躍。

 悠々とした滞空時間の中で、【血刀因子】で使用するよりも倍以上の血を放出、それを槍の形へと凝固させる。



「【血槍因子】――出血大サービスバージョン」



 右手に身の丈以上の巨槍を携え、それをブラックドッグへと放つ。

 凄まじい速度で墜落するそれは、まさしく裁きを与える神槍の如く。

 しかし。


「――がぶり」


 巨槍が消失した。

 三度、【悪食の悪鬼】が顕現し、【血槍因子】を丸ごと喰らったのである。


「ごめんなさい。わたし、食いしん坊なの」


 優美に微笑んで見せるブラックドッグ。

 彼女の幼い顔に獰猛な獣性を感じ取る。


「ははっ、君が規格外なのは承知の上だ。それに……もとより狙いは別だからね」


 地球の重力に従って、地面へと落ちていくモノフォニー。


「今だ、監視役!」


 力一杯、叫んだ。





「――分かってる」


 ノクトは【断罪の鍵】をブラックドッグの背に突き刺した。


「……貴方っ、いつの間に!?」

「お前が馬鹿みたいに空を見上げていた時だ」


 血によって視界を奪い、肉体を拘束した状態で上空から迫る槍。

 極限にまで狭めた選択肢の中でブラックドッグは能力を槍への対処に使用した。

 それが、モノフォニーが生み出した一瞬の隙。


「お前が戦闘で使うのは【悪食の悪鬼】――つまり自分自身だ。攻守に優れた権能だが、お前はそれに頼り過ぎた」


 ノクトは剣を握る手とは反対の手でファルマコンを取り出す。


「【悪食の悪鬼ブラックドッグ】。その異形の獣を用いて人間を喰らう欲病。お前はその力を使って複数の人間を食い殺している……。立派な審問対象だ」


 そう淡々と告げて、ブラックドッグのうなじへと抑制剤を打ち込んだ。


 「がぁっ……!」と、短い呻きを上げ、少女はまるで電源が切れたかのようにその場にくずおれた。

 意識を失った彼女はただの少女にしか見えず、先程まで見せていた無邪気な残虐性は微塵も感じられない。最早、別人のようにも思えた。


「やったね、監視役」


 気が付けばモノフォニーが近くまでやって来ていた。

 所々に負った小さな傷が瞬く間に修復されていく。


「ああ……」


 物憂げな表情を浮かべるノクト。

 かつての相棒の仇敵を捕らえたというのに、その内情は実に空虚で。

 達成感など微塵も感じられなかった。

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