第12話 狼憑き
「――我が監視役?」
その声で我に返った。
止まっていた時が再び流れ出す。
ノクトはモノフォニーへかつての相棒であるフィル・アシュリーとの過去を語った。
そして話を終えた後、ノクトは黙っていた。
ただ過去の感傷に浸ってしまっていた。
「……俺は間違っていたんだ。助けられるのは、助かる勇気がある人間だけ。自分の勝手な都合で助けようとしても拒絶される」
だから、自分は手を差し伸べるのをやめた。
臆病な自分はそれで他の人間が傷つくことを恐れたのだ。
「私はそれを間違いだとは思わないけどね」
モノフォニーはただ
「弱者は助けを求める感情が希薄な場合が多い。それは彼らもまた臆病だからだ。なら、君が先に手を差し伸べることで手を伸ばそうとする者もいるかもしれない」
彼女の言葉はノクトの体の中に重たい音を鳴らして落ちる。
ただそれでも、ノクトの抱えている昏い記憶が完全に消え去ることはない。
自身の正義が招いたフィル・アシュリーの死。
それはあらゆる面で大きな損失となった。だというのに生き残ってしまった自分は、今こうして折れた正義を手に立ち止まったままだ。
再び、ノクトは自身の左手を見た。
カーネリアンの指輪がどこか懐かしい温かな輝きを灯している。
「それに君が未だその指輪を手放さないでいるのは、まだ過去と向き合う気持ちがあるからじゃないのかい?」
そう言ってモノフォニーはレモネードを
「向き合ったところで意味なんてないだろう……。どれだけ過去の過ちを悔やんでも、もうフィルは戻ってこないんだ」
異端審問官はただの人間だ。
ただ、『R.I.O.T』システムという特殊な装置に適合しただけの。
単なる人間は死んでしまえば生き返ることはない。物語の中で語られる英雄でもない限り、そんなことは有り得ないのである。
ノクトの言葉にモノフォニーは何も言うことはなかった。
――店の外に出ると貫くような冷気が全身を包み込んだ。
時刻は午後8時を回り、空は完全に夜の帳を下ろしている。
「さて、そろそろ帰ろうか」
モノフォニーの言葉にノクトは頷き、2人は人通りのない路地を歩き始めた。
うっすらと張った雪の膜に2人の足跡が刻まれていく。
「なぁ、我が監視役」
不意にモノフォニーが口を開いた。
「私は君の監視対象だ」
「ああ」
「そして、君は私の監視役」
「ああ」
「それ以上でもそれ以下でもない」
モノフォニーの口から白い息が零れる。
「でも私は君という人間に少なからず興味がある。だからこうして休日に外へ連れ回したりもした」
「とんだ災難だった」
――本当だ。
「私は異端者、謂わば君たちの敵だ。それ故に思うところがあるのは分かる。ただそれでも……もし君が許してくれるのなら、もっと君自身のことについて教えて欲しいんだ」
モノフォニーのワインレッドの瞳はただ静かにノクトの青い双眸を見つめていた。
唐突な提案にノクトは僅かに視線を逸らす。
だが、モノフォニーは無理やりにでも目を合わせてきた。
強引な態度にノクトは困り果てる。
しかしながら監視役と監視対象という関係において、少なからず相手のことについて知っておいた方が良いというのもまた事実。
ノクトはそういった回りくどい長考を経て言葉を紡いだ。
「まぁ、それ位は好きにしたらいい……」
その言葉を聞き、モノフォニーは嬉しそうに頷く。
「うん、好きにさせてもらうよ」
手に触れた雪がすっと溶けて消えた。
そうして、会話をしながら道を進んでいると――。
道の少し先。オレンジがかった色味の街灯の下。
そこに1匹の獣が佇んでいた。
体長は2メートル以上あるだろうか。全身を覆う赤い体毛、鋭利な爪を有する四肢。そして最も特徴的なのはその頭部。
尖った耳にぎょろりと覗く大きな目、極めつけは狂暴さをそのまま具現化したかのような牙。
――人狼。
物語に登場するような怪物が今、目の前に立っていた。
前にアリアとオズヴァルドが語っていた目撃情報がフラッシュバックする。
予想が合っていればこの人狼が「
考えるよりも早く、体は行動に移る。
「審問開始!」
懐から取り出した『R.I.O.T』を左腕のデバイスへと翳す。
溢れ出る光の粒子が【断罪の鍵】を生成し、ノクトはそれを構えた。
同時に人狼が動く。
挙動の始点を認識した後、人狼の姿が掻き消える。
「監視役!」
モノフォニーの焦燥に満ちた声が響いて。
ノクトは隣にいた彼女を抱きかかえるようにして右側へと倒れ込む。
「……っ!」左腕に鮮烈な痛みが走った。
見れば左腕上部に裂傷を受けていた。その素早さから目視することは叶わなかったが、きっとあの鋭い爪で引き裂かれたのだろう。
さして広くもない路地裏だ。追撃に備えて急いで振り返る。
人狼は既にその剛腕を振り上げていた。
この至近距離では回避が間に合わない。
そう判断したノクトは予備動作など一切なく、ただ冷静に
「【
ノクトは『R.I.O.T』へと音声コードを入力。それに伴った結果が即座に現れる。
振り上げられた人狼の左腕から血が噴き出した。
純白の雪の上に鮮血が踊る。
「…………」
声も上げず、人狼は緩慢な動作で自分の腕を見やる。
そこには記憶に新しい裂傷が生じていた。
『R.I.O.T』システム、『No.11:正義』に内包された権能の1つ【星乙女の加護】。
それは正義の女神が持つ天秤の権能――自身が受けた傷を相手にも再現するという力だ。一度発動させれば解除するまでの間その効果が継続する。
強力な権能であることに間違いはないが、その受動的な性質により扱い辛い側面もあるのが難点だ。
人狼は沈黙を貫いたまま音もなく跳躍し、ノクトたちから大きく距離を取った。
「【血鎖の咎】!」
刹那、赤色に染まった鎖の群れが人狼へと向かって伸びる。
月下に佇む人狼――。
「…………欲に塗れた獣共が」
ぞっとするほど低く、しゃがれた声をしていた。
ぎょろりと剥かれた目はしっかりとノクトを見据えていて。
そして次の瞬間にはもう、人狼は闇の中へと姿を眩ませてしまった。
「おい、待て!」
人狼を追おうとするノクト。
しかし思い出したかのように再び左腕に痛みが走り、地面に片膝を突いた。
握っていた【断罪の鍵】が音を立てて地面に落ちる。
「監視役……!?」
駆け寄ってきたモノフォニーが心配そうな眼差しでこちらを覗き込む。
「大した怪我じゃない……。それより、あいつを追わないと……!」
戦闘後、思考が冷静になるにつれてその痛みが明刻になっていく。
「駄目だよ、ちゃんと処置をしないと」
そう言ってモノフォニーは取り出した白いハンカチを傷口に押し当てて止血を行い始めた。
血が白い布地にじわりと染み込んでいく。
幸い、傷はそこまで深くない。止血さえ出来ればどうにかなるはずだ。
なおもノクトが立ち上がろうとすると、今度は上着のポケットに入れていた携帯端末が振動した。
右手でそれを取り出し、画面を確認する。
『大英博物館周辺にて欲病発症者を確認。付近の審問官は直ちに現場へ急行せよ』
『欲名:『
「これは……」
時間差で送られてきた結界運営局からの伝達。
そこには先ほど邂逅した人狼の情報が記載されていた。
――最悪だ。
ぎり、と歯軋りするノクト。
結界運営局が実行部隊へ伝達を行うよりも早く、先回りをする形で『狼憑き』に接触できたというのに……。結果、何の情報も得られず、挙句には易々と逃亡を許してしまった。
最大の好機を、たった今失ったのである。
悔恨の念がノクトの胸中を蝕んでいった。
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