第11話 夜警、白煙に紛れ。少女、白雪に散る。

 2年前、2022年12月。

 久しぶりに雪の降る日だった。

 その日、ノクトとフィルは朝からパトロールへと赴いていた。


「寒い寒い寒い寒い!」


 黒い軍服風の制服を基礎として、同色のコートで身を包んだフィルが叫ぶ。


「うるさい、そんなに寒いって言われたら余計に寒く感じる」


 ノクトもまた、その気温の低さに身を震わせながら歩いていた。

 12月のロンドンの平均気温は約5度。しかしながらこの日の気温は今年最低の1.6度を記録していた。


「だって、流石に寒すぎるよ。今日はもう家に帰って寝たい!」


 全身を大きく使って不満を主張するフィル。

 首に掛けたチェーンが暴れ、そこに通された指輪が踊る。


「駄目だ。明日は休みなんだから頑張れ」


 ノクトはフィルを励ました。

 ここの所頻発していた欲病関連犯罪が片付き、久しぶりの休日が取れたのである。


「ぐぅ…………決めた、明日は絶対家から出ない。ベッドからも出ずに惰眠を貪る」


 決心したように彼女は宣言する。

 わざわざ宣言しなくとも、フィルの場合休日はほぼ寝ている。彼女曰く、休日とは体を休めるための日なのでどれだけ眠っていても問題はないらしい。


「明日は買い物に行く予定じゃなかったのか?」


 ノクトが問うと、はっとしたように目を見開くフィル。

 ここ最近、休日を取れたら色々と買い物に行きたいと言っていたはずだ。しかし前日にしてその目標が揺らぎ始めていた。


「あぁ、そうだったぁ……。冷蔵庫に何もないし……、餓死しちゃう」


 フィルは絶望に満ちた表情でこちらを見る。

 彼女が何を言いたのか大方予想はできた。


「明日泊めてくれる?」

「無理だ」

「即答!?」


 フィルは心底驚いたような顔をしていた。

 甘やかしてはダメだ。以前彼女を部屋に泊めた際、なんだかんだで1週間も連泊されてしまっている。しかもその間、朝に彼女を叩き起こさなければならず、朝食も用意させられる羽目に遭ったのだ。


「お前は戦闘以外がからっきしなのをどうにかしろ。いつか本当に餓死するぞ」


 呆れと心配の感情が入り混じった言葉を掛ける。

 機関の英雄とも呼ばれているこの少女は対異端者戦闘において無類の強さを誇り、異端者鎮圧数は実行部隊の中でも堂々のトップ。

 だがその代償なのか、彼女は生活能力が著しく低かった。

 朝は自力で起きることもできず、自炊もままならない。そして気が付けば彼女の部屋は散らかり尽くしているのだ。


「いやいや、前に言ったじゃん。私と君は一心同体。だからノクトが私の世話をするのは当然なんだよ」

「突如として暴論を振りかざしてくるなよ」

「だってぇ……。いつもノクトが色々やってくれたじゃん」


 そう言って、フィルは口を尖らせる。

 完全に過去の行動が裏目に出ていた。


「俺もずっとフィルの世話をできるわけじゃないんだ。せめて部屋の掃除くらいは自分でできるようになれ」

「……ママ?」

「ママじゃねぇよ。せめてパパだろ、いやパパでもねぇよ」


 ふざけた会話をしつつ、パトロールを遂行する。

 コベントリー・ストリートからピカデリーサーカスへと辿り着いた時、上着のポケットに入れていた携帯端末がぶるりと震えた。


『ピカデリーサーカス周辺にて欲病発症者を確認。付近の審問官は直ちに現場へ急行せよ』


 端末の小さなディスプレイにその文字列が流れる。


『欲名:不明 ステージ:3 備考:避難誘導済』


「見計らったみたいなタイミングだな」

「本当に。ジャストタイミングってやつだね」


 流れる人の波に逆らって、ノクトとフィルは混乱の中心へと向かう。





 エロスの像の麓にて、壮年の男が腰かけていた。

 彼の隣には白髪の幼い少女が不思議そうに足元で転がる肉塊を眺めている。


「……初めまして、とでも言っておこうか。俺の名前はミクルベ……、君たちが異端審問機関の実行部隊だな」


 男は横目を流しつつ、煙草の煙を燻らせる。

 彼は完全に落ち着き払っていた。


「その肉塊の生産者は貴方で間違いないか?」


 ノクトは警戒を怠らぬまま、青い双眸を男へと注ぐ。


「――俺の頭に巣食う悪魔が、これ以上抑えきれないんだ」


 それは誰かに向けた言葉ではなく、独り言のような小さな呟きだった。


「悪魔に肉体を奪われれば、俺は人を見境なく殺すことになるだろう。当然この子も殺してしまう……。だがそれは、殺し屋として生きてきた俺の信念に反する行いだ」


 ミクルベと名乗った男がおもむろに立ち上がる。

 そして彼を不思議そうに見つめる少女の頭に手を置いた。


「悪いが、お前の保護者代わりもここまでだ……。また、別の誰かに助けてもらえ」


 それに対して少女は戸惑ったような顔で頷き、その小さな歩幅でピカデリーサーカスを離れていく。

 思わずそれを追いかけようとするノクトだったが、彼の足元に弾丸が飛ぶ。

 ミクルベの左手にはサイレンサー付きのピストルが握られていた。

 彼の黒い瞳は氷点下よりも冷え切っていて。


「……追わないでやってくれ。あの子も異端者だが、俺と違って誰も殺しちゃいないんだ」


 右手にあった煙草を地面へと投げ、その火を足で踏み消す。


「俺は此処で死ぬつもりだ。だから俺が化物へと堕ちる前に――俺を殺してくれ」


 ミクルベは再びノクトたちへ向けて発砲した。

 2人はすぐ傍に停車していた2階建てバスに身を隠す。


「どうする?」


 限られた時間でノクトはフィルへと問う。


「彼の発言……、欲病のステージがかなり進行していると思った方が良いかな。いつ爆発するか分からないなら、ここで鎮圧するしかない」


 フィルは至って冷静に告げた。

 2人は『R.I.O.T』を取り出す。



「――審問開始。『正義』を執行する」

「――審問開始。『力』を行使する」



 溢れ出した光の粒子がそれぞれの形を成していく。


「私が囮になる。その隙にノクトは裏へ回って。挟撃しよう」


 彼女の四肢は巨爪を携えたガントレットとグリーヴで包まれており、黒色を基礎に金色の装飾が輝きを放っていた。

 ノクトは「分かった」とだけ短く答え、2人は別行動を開始する。





 フィルはミクルベの前へと姿を晒した。

 2、3発弾丸が発射されるも、フィルは最小限の動作でそれらを躱す。


「――最速で君を無力化してあげる」


 その頑強なガントレットによって自分の身を守りつつ、彼女は一直線に距離を詰めていく。

 フィルが使用しているのは『R.I.O.T』システム『No.8:力』。

 その権能により強化された脚力が、人間離れした高速移動を可能にさせる。


「【獅子葬送・二式】――」


 ミクルベへと肉薄し、交差させていた両腕を勢いよく開く。


「【サキ】!」


 獅子の如き巨爪がミクルベの肉体を引き裂かんとする。

 だが彼は半歩だけ身を引き、紙一重でそれを回避した。


「最悪だ……。悪魔が俺を生かそうとしている」


 ミクルベの顔は憂いに満ちていた。

 ある一説では、欲病は解離性同一性障害や離人症性障害に似た病気ではないかと言われている。そのため、ステージが進行した欲病発症者の中には自分自身を非現実的に感じるという者もいるらしい。

 つまり、彼の発言からしてミクルベ本人の精神はもう薄れかかっている。

 発症者自身の意識が完全に消失した時、予想される展開は2つ。

 別の人格が芽生えるか、理性が消失して暴走するかのどちらかだ。


「――ノクト!」





 相棒が自身の名を呼んだ。

 ミクルベの背後へと回っていたノクトは【断罪の鍵クラウィス】を振りかざす。

 しかし、その剣が届く寸前――。


「あぁ……悪い。また、死に損ねた…………」


 酷く落胆したような声だった。

 刹那、黒い衝撃波に似た何かがノクトたちを襲う。挟撃は失敗に終わった。


「――私は『夜警やけい』。この世の悪を滅する者だ」


 そこにはミクルベではない誰かが立っていた。ミクルベ本人の意識が完全に消失し、別の人格が出現したことを悟る。

 こうなってしまえば最期、ミクルベと名乗った男はもういない。



「【型破りな集団肖像画アウト・オブ・ザ・ボックス】」



 突如として夜警の体は黒い襤褸布に覆われ、その周囲に霧が立ち込めていく。

 霧は雪と共に視界を純白に染め上げた。夜警の姿が一瞬にして白に掻き消える。

 ノクトとフィルは霧の中で背中を合わせた。


「何も見えないな……」


 剣を構えた状態でノクトは呟く。


「こうなると、下手に動けないね」


 端的にフィルが答えた。

 阻まれた視界の中で絶えず警戒を行う。

 その時、視界の端に人影が見えた。


「今何か見えたぞ」


 ノクトが伝えると「槍を持った男だった」と、フィルが応答する。

 今の彼女は『No.8:力』の権能により、五感が強化されている。強化されたフィルの視覚は霧の中から次々に現れる幻影たちの姿を正確に捉えていく。

 ――黒服の男、白い装飾が付いた帽子を被った男、旗槍を持った男、ブロンド髪の少女、駆ける少年、楽器を打ち鳴らす男。

 まとまりの感じられない幻影たちに戸惑っていると、発砲音が響いた。

 弾丸は空を切り、2人のすぐ傍を貫く。


「幻影の攪乱、銃弾の狙撃……。多分夜警の本体はこの霧の範囲外にいるはずだよ」

「霧の外に出た奴から撃たれるな」

「囮役、お願いしてもいい?」


 努めて明るい声でフィルが尋ねた。


「俺はお前みたいに優秀な五感は持ち合わせてないんだが……」

「ノクトから見て5時の方向。ワンテンポ早く出て欲しい」

「それ、俺が銃弾を弾く前提だよな?」

「勿論。出来るよね、相棒?」


 信頼すべき相棒に、そんな風に問われてしまったら返事は1つだ。


「――任せろ」


 ノクトは霧の外へ向けて走り出した。

 幻影を振り払い、白い牢獄からの脱出を図る。

 霧を抜けた先。ピカデリーの目玉と言えるネオンサインの上――そこに狙撃手はいた。

 炸裂音と閃光。

 ノクトは直観的に剣を振るった、弾ける金属音と共に確かな手ごたえが伝わる。


「――フィル!」





 相棒が自身の名を呼ぶ。


「【獅子葬送・三式】――」


 ノクトの後に続き、フィルも霧から抜け出た。

 濃い血と煙草の匂いで既に場所は分かっている。

 煌々と光り輝くネオンサインの上。

 襤褸布を纏う狙撃手へめがけて跳躍する。

 夜警は銃口をフィルへと向け、引き金に指を掛けていた。

 しかし――。


「……何!?」


 夜警から驚きの声が上がる。

 彼は銃を構えた状態で静止していた。


「殺せ」


 そんな声が耳に届いて。

 完全に消失したと思っていたミクルベの意識が、夜警の意思に背いたのである。

 巨爪の携えられた両手を組み、フィルはそれを振り上げる。そして鍛え上げられた腹筋と背筋を駆使して、巨槌に見立てた両腕を夜警へと叩きつけた。


「【ツイ】!」


 走る衝撃。

 砕け散った光の破片が雪と共に降り注ぐ。

 夜警の肉体が建物を貫通し、地面へと堕ちた。

 空いた大穴の底にフィルは着地する。

 彼女のすぐ近くで夜警は倒れ伏していた。

 ついさっきの記憶がフラッシュバックする。夜警は想定していたよりも速く、銃をこちらに向けて構えていた。故に弾丸を受ける覚悟をしていたのだが、弾丸が発射されることはなかった。


「……君は立派な殺し屋だよ、ミクルベ。怪物へと変わり果てた自分自身を殺して見せたんだから」


 フィルは語り掛けるように告げる。

 そう、彼は最後の最後で自身の欲望に抗って見せた。

 彼は欲に塗れた怪物としてではなく、歳を重ねた殺し屋としてその人生を終えようとしていた。

 その人生に対して賛同することは出来なくとも、欲へと抗った事実だけは消えることはない。

 フィルは静かに抑制剤をミクルベへと打ち込んだ。





「セイラムの護送班とホプキンス生命にはもう連絡が行ってるはずだ」


 ノクトは『R.I.O.T』を懐に仕舞いながらフィルへと報告する。


「うん、ありがとう」


 フィルはこちらへと向き直り笑顔を浮かべた。

 そこに疲労の色は一切見えない。

 圧倒的なまでのフィジカリティと底なしのスタミナが彼女の武器だ。


「そいつ、死んでるのか……?」


 フィルの足元で倒れているミクルベを見て、恐る恐る尋ねる。


「いや? まだギリギリ生きてるよ。けど、ここからは本人の生命力次第だね」


 淡白な声音で彼女は答えた。


「そうか……。そういえば、あの子供はどうする?」


 ノクトはそれとなくフィルへと尋ねた。

 ミクルベと共にいたあの白髪の少女。

 彼曰く異端者だと言っていたが、その真偽は不明である。

 わざわざあの場面でミクルベが嘘を付くとも思えない。だがどちらにしろ、この刺すような寒さの中で子供が1人という状況は非常に危険だ。


「助けに行きたい?」


 フィルが小首を傾げた。その輝かしい金髪がさらり揺れる。

 実行部隊に属する審問官として、自身の個人的な感情を持ち込むという行為は褒められたものでは無い。むしろ規律を乱したと見なされれば、処罰される可能性すらある。

 けれど――。それでもこの寒空の下で子供が当てもなく彷徨っているという事実に目を背けることはできなかった。

 それが自分の正義であると信じていた。


「俺はあの子を助けたい」


 ノクトは力強く答える。


「よし、ならあの子を探そう。安心して、匂いは辿れるから」


 フィルは自分の鼻を指さして笑って見せた。





 ――薄暗い曇天から、しとしとと雪が降り募る。

 捜索から数十分ほど経過しただろうか。

 2人はピカデリーより続く道からさらに奥まった路地裏にて、ふらふらと歩く少女を見つけた。

 ゆらり、ゆらり、ぱたん。

 そんな軽い擬音が聞こえた気がした。覚束ない足取りで歩いていた少女が、地面へと倒れ込んだのだ。


「おい、大丈夫か!?」


 ノクトが駆け寄ると、少女は酷く怯えたような目を向けた。

 その双眸は鮮やかな緋色で染まっている。黄みを帯びた赤色の瞳は酷く潤んでいて。

 この少女もまた被害者だ。

 正体不明の超常的疾患。

 その病魔によって蝕まれた被害者たちが異端者なのである。


「安心してくれ、俺はお前を助けたいんだ」


 ノクトの声に少女はびくりと体を震わせた。

 完全に怯え切っているようだ。

 きっと、これまで他の人間たちから攻撃を受けてきたのだろう。誰も救いの手を差し伸べてはくれなかったのだろう。

 そんな中、唯一彼女の保護者となったミクルベも今は欲病に精神を蝕まれてしまった。

 ――なら、今この時は俺だけでも彼女の味方に。

 それが俺の信じる正義なのだから。


「大丈夫だ。機関には自称天才発明家もいる。あの人なら欲病を治す薬でも作ってくれるさ」


 ノクトはそう小さく笑って手を差し伸べる。

 少女は伺うような視線を向け、震える小さな手をこちらに伸ばそうとしていた。



「――――がぶり」



 突然虚ろな表情へと切り替わった少女から、牙を有した何かが飛び出した。

 黒い獣の頭部にも見えるそれは少女の腹部から伸びていた。

 コマ送りのように流れる視界の中で、彼女がステージ3まで到達した異端者であることを認識する。

 不思議と思考は俯瞰していて。

 どこか他人事のように目の前の光景をただ眺めていた。


「――ノクト!」


 聞き覚えのある声が聞こえた。

 凶悪な牙とノクトの間に、金色に輝く髪を有する人物が割り込んだ。


「フィル……!?」


 その刹那、黒き獣はフィルの右半身をいとも容易く喰い千切った。

 強靭な牙はあらゆる物質を噛み砕く。

 ――視界が、赤く染まった。


「あ……」


 何の意味もない声が漏れる。これは、何だ――?

 ぐらり、と倒れゆくフィルの身体を抱きとめる。


「……フィル? おい、フィル!?」

「はは、ごめんね……。ちょっと無茶しちゃった……」


 フィルは血の気の引いた顔で微笑んで見せる。彼女の息はもう絶え絶えで。


「き、救急車を……!」

「いや、いい……。自分のことは自分がよく分かってる……。それより、聞いて欲しいことが……あるんだ」


 フィルの左腕がノクトの頬に触れる。


「私は君がバディで良かった……。心の底から……そう、思ってる……」


 さらに声が弱々しくなり、彼女の瞼はほぼ落ちかけてきている。

 ざらついた呼吸音が風の音と混ざって聞こえる。


「そんなの当たり前だろう……! 俺だって……」


 言葉が出ない。

 涙で視界がぼやけてしまう。はっきりと、フィルの顔を見たいのに。

 どうしてこんな事に?

 幾ら考えてもその疑問の解は出ず。


「あはは、嬉しい……な……。ありがとう……。これ、君に…………」


 フィルはその首元に下げていた指輪を、ノクトの左人差し指にあてがった。


「……これは?」

「これは、君が辛いときに……必ず、助けてくれる……から……」


 そう告げたフィルの左腕が、だらりと地面に落ちる。


「フィル……? なぁ、おい!」


 ノクトは彼女の名前を呼ぶ。

 しかし彼女は瞼を閉じたまま。

 それが二度と開くことはない。


 ――この日、ノクトの最初で最後のバディは死んだ。


 そしてこの日以来、ノクト・カーライルの正義は挫けたままである。

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