第10話 ブリティッシュ・パイ

 肌寒さに負けることなく賑わうグレート・ラッセル・ストリートを進む。

 街灯が行き交う人々の顔を照らす。皆、笑顔を浮かべて楽しそうなひと時を過ごしている。12年前の災害から復興し、ここまで機関が守り続けてきたロンドン。

 しかし、その功労者である相棒はもう隣にいない。

 込み上げる熱を逃がすように、ノクトは息を吐いた。

 白い息が外気に溶けていく。


「――ああ、やっぱりそうだわ!」


 突然、近くで女性の声が聞こえた。モノフォニーとはまた別の声。

 視線を向けるとそこには小柄な女性が立っていた。亜麻色の髪は緩く巻かれ、グレーの瞳をノクトへと注いでいる。


「知り合いかい?」


 隣に並ぶモノフォニーが問う。

 思考回路を高速回転させて記憶を探るけれど中々思い出せない。どこかで会っただろうか。


「覚えてなくて当然よ。私はただ貴方たちに助けられただけなんだもの」

「助けられた……?」


 思考は止まず。


「ええ、そうよ。この近くの銀行で2年くらい前に強盗事件があってね、貴方たちが犯人を捕まえてくれたの」


 女性の説明を受けてノクトはある記憶に思い当たる。

 2年前、ノクトがまだフィルとバディを組んでいた頃。トッテナム・コート・ロードに面する銀行で異端者による銀行強盗事件が発生し、近くにいたノクトたちがその対処に当たったのだった。

 なるほど、彼女はその銀行の従業員だったのか。


「あの時は本当に死んじゃうんじゃないかって思ってたの。でも貴方たちが来てくれたおかげで怪我人すら出なかった。本当に感謝しているわ」

「いえ、自分の仕事をしただけですから」


 そう言って、笑顔を取り繕った。

 こうやって助けた人からお礼を言われるのは珍しい。

 リベリオンは異端者を殲滅し、ロンドンの市民を守るために活動している。だが、用途は違えどリベリオンの審問官たちは異端者と同質の力に適合し、それを扱っている。

 そのため市民たちからすればリベリオンもまた、いつ自分たちに牙を向けるか分からない存在なのだった。

 度々ロンドン内で上がるこの手の話題は、基本的にリベリオンを受け入れる歓迎派、リベリオンもまた異端者集団であるとする否定派に分かれる。

 現在では「黒霧災害」での功績が重視され、リベリオンは存続が許されている状況だ。


「そういえば、その時一緒にいた子は元気かしら? あの金色の髪をした元気な子」


 ――心臓がきつく縛り上げられる。

 ノクトは咄嗟に口元を手で覆い、表情の変化を悟らせぬようにする。

 ただ浅い呼吸を2回行った後、再び笑顔を取り繕って言った。


「ええ、元気ですよ。これから彼女と会う約束をしていますから」


 自分は今、上手く笑えているのだろうか。

 声が震えてしまってはいないだろうか。


「あら、そうだったの! 直接会ってお礼が言いたい所だけど……邪魔をしたら悪いわ。もし良かったら私がお礼を言っていたこと、伝えてもらえないかしら?」


 女性はにこやかに告げる。

 純然たる謝意が、自身の心の柔い部分へと突き刺さって。


「勿論、構いません。きっと、それを聞いたら彼女は喜ぶと思います」


 最後の方は、自分がどんな顔をしているかも分からなかった。

 胸に大きな傷を負った感覚を得たままノクトは再び歩き始める。行先も知らぬまま、モノフォニーよりも先を行く。

 ただ、一刻も早くその場を離れてしまいたかった。


「君は嘘を付くのが下手だね」


 監視対象であるはずのモノフォニーがノクトの背中に声をかける。


「お腹が空いただろう? 目的の店はもうすぐだ」





 彼女が案内した先はハイホルボーンに位置するパブだった。

 モノフォニーの華麗な佇まいからして、完全予約制の高級レストランにでも連れていかれるのかと思っていた。

 看板に描かれた美しい女性に見下ろされながら2人は店の中へ。

 店内は華美な装飾が至る所に施されており、天井にまで及んでいる。また、繊細な細工が美しい硝子とビクトリア朝のインテリアが重厚な雰囲気を醸し出していた。


「意外だって顔をしているね?」


 落ち着いた色の照明の下、向かいに座るモノフォニーが微笑む。


「見た目だけなら貴族の令嬢っぽいからなお前は。こういう庶民的な店だと違和感がある」

「おや、君が私を褒めるなんて珍しい」

「褒めてない、皮肉だ」


 ジンジャーエールを一口飲み込む。

 刺激の強い炭酸が、びりびりと口内で弾けた。

 ノクトはメニューを手に取る。

 ――フィッシュアンドチップス、ハンバーガー、ブリティッシュ・パイなどの親しみのある品名が並ぶ。

 正直に言うと自分はあまり食に関心がない。勿論、美味しい料理を食べることに幸せを感じられるのだが、しかしそれは優先される程のことではないと考えている。


「何でも好きな物を頼むといい。今日は私が奢ってあげよう」

「見え透いた気遣いはいらないぞ」


 さっきの出来事を彼女は気にしているのだろう。あれはただ自分の心が脆弱だっただけだ。異端者にまで心配されるようなことではない。


「気遣い? さっぱり意味が分からないね。今日付き合って貰ったお礼を兼ねているだけだよ」


 わざとらしい様子で首を傾げるモノフォニー。どうやら彼女はとぼけるつもりらしい。


「……そうか、ならどれだけ頼んでも良いんだな?」

「ふふ、構わないさ。こう見えて貯金は結構あるからね」


 そう言ってモノフォニーはひらひらとメニューを振っている。


「一応聞くが、その貯金は何で得た金だ?」

「ロンドン内の清掃活動といった所かな。中々良い金額が手に入るんだ」


 人形のような端正なその顔に凄惨な笑顔を張り付けて彼女は言う。

 ノクトが耳にした噂話によると、ロンドンの裏社会では凶悪な異端者に対して高額な懸賞金が掛けられることがあるらしい。

 恐らく彼女はこうした賞金首の異端者を狩っていたのだろう。情報と資金集めを並行して進められるのだから、彼女にとっては最も効率的な手段だったに違いない。





 ――結局、大して空腹ではなかったノクトはブリティッシュ・パイを頼むだけに留まった。


「意外と食べるんだな……」


 運ばれてきた料理を眺めてノクトは呟く。

 テーブルに乗せられた料理はブリティッシュ・パイ、サンデーロースト、ハンバーガーの3品。内2つはモノフォニーの前に置かれていた。


「食事は大切だよ。私の美貌は美味しい料理で出来ているからね」


 そう話す彼女は華麗な仕草でナイフとフォークを動かし、ハンバーガーを切り分けていく。

 ノクトもまたスプーンでパイの上部を押し崩してビーフシチューに絡めた。そしてそれを口に運ぶ。


「美味しい……」


 ほっとする味だった。


「ははっ、まるで小さい子供みたいな反応をするじゃないか」


 モノフォニーの言葉を受けて途端に気恥ずかしくなる。だが仕方ない。普段まともな食事をとっていなかったノクトにはそのビーフシチューがより一層美味しく感じられたのだった。

 しばらくの間、無言で食事を堪能する。

 そして名残惜しくも最後の一口を飲み込んだ時、モノフォニーが話を切り出した。


「その指輪について尋ねても?」


 ノクトは自身の左手に視線を落とす。

 その人差し指にはカーネリアンの指輪があった。


「休日ですら機関の制服で外出する監視役が、着飾るなんて言葉を知らないみたいな君が、その指輪だけは肌身離さず着けている。それには何か特別な理由があるんじゃないのかい?」


 冷静な推察によってモノフォニーはノクトの過去に踏み込んでくる。

 それを拒否することは簡単だった。けれど、何となく吐露してしまいたいと思う自分がいた。

 自分自身が抱えている罪を誰かに明かすことで、その重さから逃れようとしていたのかもしれない。


「……別に、面白くも何ともない話だ」


 そんな注釈を添えて、ノクトはかつての相棒の話を語り始めた。

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