第一章

第1話 アンビバレント

 「欲病」――発病した人間の感情や欲望などを増幅させ、それを具象化させる病。

 精神病の一種と分類されているにも関わらず、肉体や周囲の物質にまで変化をもたらすため、超常的精神疾患とも呼称される。


 この病が明るみになったのは2012年12月25日に発生した「黒霧災害」でのことだった。

 人間を異形の怪物へと変化させる力を持った異端者により、ロンドンは一夜にして惨劇に見舞われる。

 英国王室及び英国政府は早々にロンドンを放棄してリヴァプールへと避難した。

 ロンドン警視庁やイギリス陸軍がこの混乱の鎮圧に臨んだが、組織内からも怪物へと変化する者が出現。同士討ちを躊躇した結果、組織は事実上の崩壊を迎えてしまう。


 窮地に陥ったロンドン。

 しかし、それに抗う集団が現れた。

 その名を「リベリオン」。叛逆の名を冠する彼らは怪物――ひいては異端者への対抗手段を有しており、それを用いてロンドン内の混乱を素早く鎮圧した。

 この出来事によりロンドンを放棄した英国政府、甚大な被害を食い止めることができなかった警察と軍に対する信頼は失墜。反対に市民の間では謎の勢力であるリベリオンを支持する声が高まっていた。


 そして2014年4月5日。

 黒霧災害での一件を受けて信用を失った従来の警察組織に代わり、ロンドン市内の治安維持及び欲病発症者の取り締まりを委託されたリベリオン。

 政府との協議を重ね、残存していたロンドン警視庁の人員を吸収した彼らは治安維持に尽力する「異端審問機関リベリオン」として発足された。


 さらにリベリオンの発足と連動するようにして、欲病の研究・解析を行うホプキンス生命、危険な欲病発症者たちを収監する異端者収監施設セイラムが設立。加えて災害から4年半以上経過した2017年9月1日には、欲病犯罪に巻き込まれて親を失った子供たちを受け入れる中等教育機関――デュミナスの設立に至った。


 こうした経緯を経て、復興に向け歩みを進めるロンドン。

 そして災害から12年後の2024年。

 依然として減ることはない欲病被害にリベリオンが対処する日々。

 かつて栄華を誇った英国の首都が、今ではあらゆる欲や願望の渦巻く場所となっていた。

 人々はその都市をこう呼ぶ。

 ――「魔都」ロンドン、と。





 日曜日の午後、ノクトは目を覚ました。

 カーテンの隙間から日の光が差し込んでいる。

 鈍重どんじゅうな体を何とか起こし、ベッドから立ち上がって大きく伸びをする。

 幸い、今日は休日ということになっている。時間に急かされる必要はない。しかしながらここまで長い時間惰眠だみんむさぼるつもりはなかったのだが。

 未だにもやのかかった意識のまま、ふらふらと洗面台に向かう。

 鏡の中の自分はなかなか凄まじい見た目をしていた。

 癖のあるペールブラウンの髪はあらゆる方向に跳ね、目の下に残るくまは酷く濃い。さらに言えば青い瞳には生気が感じられなかった。


 ――無様だ。と、我ながら思う。


 ノクトは暗い感情から逃れるように、蛇口から流れ出た冷水を顔に浴びせる。

 突き刺さるような冷たさが幾らか心の痛みを和らげた。





 濡れた顔をタオルで拭いていると、ベッドの上に置いてあった携帯端末が鳴った。

 画面に映る名前を確認してノクトは小さく息を呑む。

 そして何度か深呼吸を繰り返してから電話に出た。


「……もしもし」


 開き切っていない声帯を震わせる。


「ふむ、いかにも寝起きといった声だな。おはようノクト審問官」

「おはようございます、ロードリック総監」


 電話を掛けてきたのはノクトが所属する異端審問機関リベリオンの総監、ロードリック・ペンバートンであった。

 ――機関のトップがこんな朝早くから一体何の用だろうか。直近で特に目立つような失敗をした記憶はないのだが……。

 端末を握る右手が知らず知らずのうちに力む。


「ご用件は何でしょうか……?」

「そう警戒するな、別に説教をするわけじゃない」


 こちらの心境を察してかロードリックが告げる。


「新設部隊の話だ。ノクト審問官も噂くらいは耳にしているんじゃないか?」

「ええ、それは一応」


 数ヶ月ほど前からまことしやかに囁かれている新設部隊の噂。

 本来、組織化されている結界運営局や技術開発局とは異なり、実際に異端者たちと戦闘を行う実行部隊には組織的なまとまりが無い。

 現に、異端者の鎮圧は現場から最も近い場所にいる審問官が行うことになっており、基本的には個人または2人組で対処することになる。

 故に隊員間での協力関係が築かれる機会はほぼ無い。

 そもそも、実行部隊は変人の巣窟。まともに協力できる人間の方が稀で、中にはコミュニケーションそのものが不可能な者さえいる始末だ。


「実行部隊の強みは、個としての強さを持っている点だ。審問官1人1人が軍の大隊に匹敵する力を持っている。それ故、今までは問題なく個人による異端者の鎮圧が可能だった。だが、やがて個人では対処しきれぬような強大な異端者が出現するかもしれない。今回新設する部隊はそうした状況に備えるための実験的な部隊というわけだ」


 ロードリック総監は厳かに噂の詳細を語った。

 彼の言う通り、最近では異端者同士が徒党を組んでいた事例も確認されている。

 異端者側の規模が大きくなれば、必然的にこちらも複数名での連携は必要となってくるだろう。


、それが君の新しく配属される部隊の名だ」


 ロードリックの口から新設部隊の名が明かされた。

 しかしそこでノクトは自身の耳を疑う。

 ――今、総監は何と言った? 俺の聞き間違いか? 自分がその部隊に配属されるとか何とか……。


「……失礼、もう一度言って頂けますか?」


 確認のため、恐る恐る尋ねる。


「ノクト審問官をアンビバレントへと配属する、そう言ったんだ」


 断じて聞き間違いなどではなかった。

 ノクトは頭を抱える。

 予測される脅威に対して備える――、それには何の異論もない。むしろ推奨されるべき事項だとすら思っている。

 だが、自分が実際に配属されるとなれば話は別だ。


「その、ありがたいお話ではあるのですが、自分では実力不足と言いますか……」


 言葉を選びながら、やんわりと拒否を申し出る。

 やはり他の審問官たちと協力できるとは到底思えない。恐らく他の審問官たちも皆そう思っているはずだ。


「気にする必要はない、他のメンバーも君と年齢が近しい者たちばかりだ。これから部隊内で切磋琢磨していけばいい」


 ノクトの悩みなど露知らず。ロードリックは皆目見当違いな励ましを口にした。

 ――問題はそこではないのだが……。いや、それよりも部隊のメンバーが自分と近しい年齢だと?

 ロードリックからの言葉に、さらに不安を募らせるノクト。

 彼自身まだ18歳の若輩者だ。そんな新人たちを集めて部隊を編成するなど、いささか実験的すぎるのではないだろうか。


「アンビバレントは明日から始動させるつもりだ。メンバー同士の顔合わせも明日、本部ビルの会議室で行う。ノクト審問官も準備しておいてくれ」

「え、部隊への配属はもう決定ですか?」

「ああ。既に他のメンバーにも伝えてしまっているからな」


 ロードリックからの無慈悲な返答。

 大人はいつだって勝手だ、と心の中で愚痴を零す。

 最初から決まっていたのだ。機関の総監による直々の指名。ただの平審問官であるノクトに断る勇気など無く。


「君の活躍を期待しているよ、ノクト審問官」

「……はい。精一杯頑張りたいと思います……」


 電話を切ったノクトは人知れず肩を落とし、小さくため息を吐くのだった。

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